2018年3月31日土曜日

幕末横浜オランダ商人見聞録

 昨秋から突貫工事で翻訳していたC. T. アッセンデルフト・デ・コーニングの本が、河出書房新社から『幕末横浜オランダ商人見聞録』という邦題で近々刊行される。薄い本なので、さほど苦労はしないだろうと思ったのだが、調べれば調べるほど新たな事実がわかり、校正中に何度も書き加える羽目になった。最後は時間切れで、邦訳版に盛り込めなかったことを、取り敢えずこのエッセイに書いておきたい。

 幕末の激動の時代を目撃した外国人が残した手記は多数あるが、その大半は外交官や軍関係者が残したもので、貿易商人による記録は少ない。幕末の政治に影響をおよぼしたのは、圧倒的に英・仏・米であり、明治以降はそれにドイツが加わり、江戸時代を通じて世界との唯一とも言える窓口であったはずのオランダの重要度は、蘭学が見捨てられるとともに、日本人のあいだで急速に下がっていった。鎖国時代に世の中の進歩から取り残されてしまった日本人は、手っ取り早く追いつくことに必死で、長年の恩人を忘れてしまったようだ。  

 今回、特筆しておきたいのは、デ・コーニングの共同経営者であったカルストの一家のことだ。彼らに関しては、ポルスブルック領事の書簡と『市民グラフヨコハマ』から断片的な情報が見つかった程度だったが、ドイツの民間の研究者がおもに明治時代に来日した外国人の情報をご自分の趣味で集めた膨大なデータベース、Meiji-Portraits(http://www.meiji-portraits.de/)のサイトには非常に詳しく書かれていた。初代のカルスト船長が1861年にバタヴィアで死去していたことも、2人の息子、ヤンとレントが代わりに来日していたことも、このサイトから知った。日本に半世紀以上暮らしたヤンは、1864年にニッポンマルという400トンのブリグ帆船を日本政府(幕府)のために購入して、その船を回航してきたというが、これは確認できないので、勘違いなのか、歴史に埋もれていた新事実なのかはわからない。彼は先に来日にしていた弟のレントとともに、デ・コーニングが当初住んでいた居留地25番で貿易と保険業に従事したのち、独立して隣の26番で雑貨商を営んだという。  

 この居留地25番の場所は神奈川県民ホール裏手の水町通り沿いで、現在はちょうどインペリアルビルがある付近だ。このビルは、1930年に川崎鉄三設計で建てられたモダニズム建築で、戦後は進駐軍に接収され、マッカーサーの護衛の将校の宿舎になっていたという。ヤン・カルストは明治に入ってから山手に移り、ここでもやはり25番に住んでいた。1915年6月27日にはこの山手25番の家で、横浜の港湾職員となっていた79歳のヤンの来日50周年記念が祝われ、友人たちが大勢、日本人も外国人も集ったと、『ジャパン・デイリーメイル』紙には書かれた。関東大震災で大被害を受けたあと、ヤンは神戸に移り住んでそこで亡くなった。  

 こうした情報を頼りに見つけたアムステルダム市のアーカイヴのサイト(https://archief.amsterdam/)には、カルスト家の多数の写真や文書が保管されていた。オランダ語のサイトをグーグル翻訳で読んでみると、保管された史料のデジタル化を無料で依頼できるらしいことがわかり、試しにいくつか選んでリクエストしてみた。数週間後、若干の史料がポジフィルムであるとか、肖像権の問題でスキャン対象から外されるが、その他は手続きに入るというメールがきた。さらに待つと、公開されたのでダウンロードが可能になったという旨の連絡がきた。そこにあった画像は、かなり鮮明で素晴らしく、訳書に盛り込めなかったことが悔やまれる。細々とした史料をきちんとリスト化して保管し、公開するだけでもたいへんな労力と思うが、なんら研究機関にも所属しない海外からの一利用者のリクエストに、これほどきちんと対応してくれたうえに、そのデジタル史料を無料で利用させるこの市のアーカイヴの気前のよさには感動し、すぐにお礼を書いた。ダッチ・アカウントなどという言葉があるように、オランダ人はケチだと言われるが、あらゆるものからお金を取ろうとする昨今の日本人のほうが、よほど守銭奴に成りさがって肝心なことを見失っている。  

 今回デジタル化してもらった史料のなかでも、デ・コーニングと老カルスト船長がオランダから乗ってきた船であるアルホナウト号の水彩画は、本書に何度かその描写がでてくることもあり、とりわけ読者の方々にお見せしたかった。バーク型クリッパーのこうした船は、少ない乗組員で操縦できる効率のよい船だったという。この絵は、1861年に老船長が死去し、アルホナウト号が次のR. M. ドネマ船長の手に渡ったころにつくられた絵葉書のようだ。この船が1860年に香港で沈没しかけたことや、1868年に横浜・神戸間の航海中に行方不明になったことは、Piet’s Scheeps Index(https://www.scheepsindex.nl/)というサイトで知った。ブラフ25番の家の写真もあった。いまでは高層ビルが立ち並んで景色が様変わりしているが、崖の輪郭だけは変わらない。兄弟はいずれも、日本女性とのあいだに子がいて、身体を壊してオランダに帰国した弟のレントは、Omea Taeko(大宮たえ子?)とのあいだの娘ラウラを連れ帰っている。レントはその後まもなく亡くなったが、ラウラは美しい女性に成長し、写真から推測すると、おそらくイギリス人と結婚して南アフリカに転居したと思われ、80歳前後まで生きて、没地はオランダのハーグだった。波乱の人生だ。  

 兄のヤンは来日時に連れてきた妻を亡くしたあと、2度再婚しており、そのうちの1人がOrio(おりょう?)という日本女性で、明治の初めに名護市で娘が生まれている。貿易商人の家族は、バタヴィア、シンガポール、香港、上海、長崎など、各地の港に拠点を設け、そこを行き来していたので、沖縄のような思いがけない場所で、思いがけない人と結びついている。この娘ヨハンナ・クリスティナはアナと呼ばれ、横浜インターナショナルスクールで教えていたという。年齢から考えると1924年の設立メンバーだったのではないかと思われるが、同校に問い合わせてみたものの、古い史料は残っていないとのことだった。ヤンの家族写真のなかに、異母兄妹たちに囲まれた小柄なアナが写っていた。世界を股にかけたカルスト家のなかでもアナは日本に留まりつづけたと思われ、1964年に89歳前後で亡くなって、父やその他数名の家族とともに横浜外国人墓地に埋葬されている。彼らの墓はいちばん古い22区にあり、1860年に横浜で惨殺された2人のオランダ人船長のピラミッド形の巨大な墓碑のすぐ隣にある。カルスト老船長は事件当日、彼らに会いにヨコハマ・ホテルにでかけたところ、すれ違ってしまったために難を逃れた人だった。子孫たちは特別な思いでその区画を選んだのだろう。ラウラやアナは、その母親たちは、どんな生涯を送ったのか、興味は尽きない。

*ブラフ25番のカルストの家

*ヤン・カルスト一家。 アナは後列左から2番目

*レントの娘ラウラ。 ロンドンで撮影

*アルホナウト号 




*印のついた白黒写真はいずれも、Archive of the Family Bruijns/Amsterdam City Archives所蔵

 山下町25番のインペリアルビル

 今日のブラフ25付近の眺め

 カルスト家の墓はサザンカの木の下にある


『幕末横浜オランダ商人見聞録』 C. T. A. デ・コーニング著、東郷えりか訳、河出書房新社(4月10日刊)