2013年9月30日月曜日

東北旅行2013年

 青春18きっぷの使用期限すれすれの9月初旬、仕事で来日していたタイの友人たちと、イギリスから帰国したばかりの娘と一緒に東北旅行にでかけた。震災以来、津波の被災地を自分の目で見たいと思っていたので、短い旅とはいえ、これでようやく念願がかなったわけだ。音楽家の友人たちは仙台の定禅寺ストリートジャズ・フェスティバルにつられ、娘は福島で開催されていた若冲展を目当てに、私の東北鈍行列車の旅に同行してくれた。  

 福島へ行くと言うと、別のタイの友人が心配して、本当に安全なのかと何度も確認してきた。海外から見れば、福島という地名はチェルノブイリと変わらない。汚染水の問題等を考えれば、安全だと言い切ることはとうていできないが、福島に暮らしつづけている人がいて、美術展を見に行くような日常的な生活も送っていることを、海外の友人たちに見せるだけでなく、自分でも納得したかった。郡山付近を通過しながら、山の向こうに日本中を震撼させた福島第一原発があることを想像してみたが、目の前に広がる長閑な田園風景とはあまりにも相容れなかった。  

 震災の翌日、毎日新聞の一面を飾ったのは名取市の海岸を襲う大津波の写真だったが、やや内陸を走る東北本線からは仙台平野の被災状況はわからなかった。上空からは浸水して塩分濃度が下がらない土地とそうでない農地とのコントラストがはっきり見えるそうだ。仙台市内がどこも満室だったので、松島の手ごろな値段の旅館に泊まったところ、子供のころからドラえもんのファンという若い友人は、初めての日本旅館体験に大はしゃぎだった。翌朝は小雨の降るなか松島の海岸を歩いた。湾内に浮かぶ多数の島のおかげで、大きな津波被害を免れたことを思うと、日本三景のこの海岸がいっそうありがたく感じられた。  

 夜行便でタイに帰国する友人たちを東京行きの高速バスに乗せたあと、娘と二人だけでさらに石巻と気仙沼まで足を伸ばした。石巻の駅のすぐそばに、津波がここまで到達したという看板があったが、町並みからはもう津波の痕跡は感じられない。震災当日、門脇小学校の生徒をはじめ、多くの人が非難したという日和山にまず向かった。山というよりは、横浜のどこにでもありそうな小高い住宅地で、てっぺんから海側を見下ろすと、雑草の生い茂った殺風景な土地が広がっていた。海岸沿いのこの低地にはところどころ水が溜まり、側溝もあふれんばかりで、流された家の土台の脇にガマが生えていた。後日、日和山幼稚園の裁判記事を読んだ際に、この新浜地区の光景がよみがえり、石巻が身近に感じられた。  

 柳津から先の海岸線沿いを走る区間は、線路を再建する代わりに、単線の幅で道路が整備され、そこを代替輸送のバスBRTが走っている。途中、道路沿いに「ここまで浸水区間」といった看板が設けられていた。何度もトンネルをくぐり、外へでた途端、目の前に小さな海岸が迫る光景が繰り返される。破壊された線路や、鉄骨だけが残った南三陸の防災庁舎なども見えた。気仙沼ではわずかな時間しか過ごせなかったが、折しも住宅街に乗りあげた330トンの漁船、第18共徳丸の解体工事が始まる直前で、ミサゴの飛ぶ青い空のもとで、すでに風化しつつある悲劇の名残をスケッチすることができた。津波は湾奥の低地を破壊し、交差点にある建物にとくに被害をもたらすが、高台に建つ家は海岸に近くても無傷で、浸水しただけならば修復可能であることなどが、急ぎ足で町を歩きながら見てとれた。帰路、金色の稲穂が一面に広がる景色のなかを、地元の元気な高校生たちと一緒にロングシートの鈍行列車で進む旅はじつに楽しかった。

 石巻新浜地区

 石巻日本製紙

 第18共徳丸