2014年10月30日木曜日

ナショナル・アイデンティティ

「自らを定義するために、人は他者を必要とする。では、敵もやはり必要なのか?」

 10年前にハンチントンの『分断されるアメリカ』の翻訳に携わった際に出合ったこの問いかけを、その後もたびたび思い返す。「一部の人は明らかにそうだ。『ああ、憎むというのは何とすばらしいことか』」と、ゲッベルスの言葉がつづく。この数年は、身近な隣国との軋轢が高まったからか、売国、国賊、反日など、まるで戦時中のような憎悪の言葉や、「ニッポン人の誇りを取り戻せ」、「世界に誇る日本文化」といったコンプレックスの裏返しのような主張もよく聞き、そのたびにナショナル・アイデンティティの問題を考えさせられる。  
 諸藩が競い合っていた幕末の日本で、国内統一の動きがでてきたのは、日本の近海に欧米各国の捕鯨船や軍艦が進出してきたのがきっかけだった。そうした外圧を受けて国体、皇国、尊王攘夷という概念を唱え始めたのが後期水戸学であり、一方、江戸中期に、それまでの仏教や儒学という大陸伝来の文化に反発して、日本古来の文化を追究したのが国学だった。いずれも日本がいちばんいいとする自国至上主義(ショーヴィニズム)にほかならないが、これが尊王攘夷論を生み、異国船打払令から、幕末に起きた数々の外国人殺傷事件や薩英戦争、下関戦争にまで発展した。  

 尊王攘夷を掲げていた雄藩は、いつの間にかその主張を倒幕へと変え、明治維新後は文明開化と称して一気に西洋化をはかった。維新後は彼らの天下となったため、鎖国下で時代遅れになっていた日本を近代化させた功労者のように評価されてきたが、よく考えるとかなり奇妙な展開だ。開国に踏み切り、進んだ西洋の技術を学んで日本の近代化を図ろうとしたのは、むしろ幕府側ではなかったのか。その中心で日本近代化の明確な道筋を示していた思想家の一人は、歴史書ではたいがい片隅に追いやられているが、佐久間象山だろう。  

 松代藩の朱子学者だった象山は、1840〜42年のアヘン戦争で清がイギリスに惨敗したことに衝撃を受け、天保13(1842)年に藩主真田幸貫が海防掛に任ぜられたのを機に、韮山代官の江川英龍のもとで兵学を学び、黒川良安から蘭学を学んだ。

 象山は同年9月下旬ごろに「海防八策」を提出し、11月には「海防に関する藩主宛上書」と題された長文を書いている。この上書には象山が中国やオランダの文献から知った当時の世界情勢が驚くほど詳しく書かれ、オランダから軍艦を買い上げ、専門家を派遣させて造船から海軍の訓練まで学ぶことから、国内にある銅を集めて大砲を大量に製造する必要があることなどが綿々と綴られている。1842年という早い段階での象山のこの提言は当時ほとんど理解されないままに終わったが、いずれものちに幕府が実行している。オランダから咸臨丸や朝陽丸を購入したのも、勝海舟らが訓練した長崎海軍伝習所も、もとは象山のアイデアだったに違いない。

 象山が描いた国家戦略は「夷の術を以て夷を制す」ものだったと、『評伝 佐久間象山』(中公叢書)で松本健一氏は書いている。下関戦争で長州藩が使用した18ポンド砲は、1854年に同藩が三浦の警備を命じられた際に、象山の指導で江戸で製造されたものだった。だが、朝陽丸は下関戦争中に長州藩に拿捕されて乗組員を殺害され、咸臨丸は戊辰戦争中に清水港で同様の憂き目に遭い、どちらも官軍側に渡った。  

 象山の門下生のネットワークは、小林虎三郎、岡見彦三から河井継之助、坂本龍馬まで全国にまたがり、それが維新の原動力となったと言っても過言ではない。やはり象山門人だった吉田松陰はみずからの死を予期した時期に、松下村塾の教え子である高杉晋作と久坂玄端を象山のもとで学ばせようと考えていた。勝海舟は妹が象山の妻であり、蟄居中の象山のために原書から西洋鞍まで手配し、死後は遺児恪二郎の後見人となり、生活費などの面倒を見ている。 

 「海防に関する藩主宛上書」は、近代日本の発端をつくった重要な文書と思われるが、ネットでざっと調べた限りでは、この長文を掲載しているサイトは一つしかなく、口語訳は中央公論社の昭和45年発行の『日本の名著30』を借りて読まざるをえなかった。かたや、象山は白馬に西洋鞍を置くような西洋かぶれだったために攘夷派に殺され、三条河原に首をさらされたといった記述は、ネット上に多数見つかる。象山全集を少しでも読めば、彼の愛馬、都路(のちの王庭)が栗毛だったことも、詳細にわたる検視記録も見つかるはずだ。現場には息子の恪二郎と象山門人だった山本覚馬が駆けつけているし、三条大橋に掲げられた立札には「斬首・梟木に懸け可きの処、白昼其儀能ざるもの也」、つまりさらせなかったと書かれている。松本氏は、天皇の彦根への「御動座」こそ象山が危険視されたいちばんの理由と考え、「禁門の変をまえに、公武合体派の孝明天皇が幕府側によって彦根に遷され、ひいては江戸への遷都がおこなわれてしまえば、〈玉〉は幕府によって握られることになるからである」と書いている。  

 日本が独立国としてどうにか近代化をはかれたのは、鎖国時代にも海外に目を向けていた人びとがいたおかげだ。それなのに、いまだに象山が「西洋かぶれ」の奇人のように扱われ、暗殺者である河上彦斎というテロリストのほうを称賛するような風潮があるのはなぜなのか。排外主義、狂信的愛国主義とも呼ばれるショーヴィニストが、つまり外国人を目の敵にする攘夷派が、日本にはまだ多数いるからに違いない。人間の脳の進化速度は、時代の急激な変化に追いついていない、という脳科学者たちの指摘は本当らしい。

 象山神社の銅像

『象山の書』に掲載されていた 「海防に関する藩主宛上書」