2012年10月30日火曜日

科学とテクノロジー

 翻訳本は固有名詞だけでもカタカナが多くなり、電文のようになって読みづらいので、カタカナ語はそれに相当する日本語があれば、なるべく置き換えるよう日ごろ心がけている。そんな言葉の一つが「テクノロジー」だ。文脈しだいで産業技術、技術などと訳すこともあるが、たいていは「科学技術」と訳す。ところが最近、科学への不信という風潮が感じられ、福島の原発事故以後はとくにそれが強まり、これまでの自分の訳語がはたして適切だったのか疑問に思うようになった。サイエンス(科学)とテクノロジー(科学技術)。どちらも定義は多様だが、敢えて言えば、科学は自然界の現象を理解しようとする人類の知恵の集大成で、数値や実験して誰もが認めうる結果を導きだす努力のことだ。一方のテクノロジーは、人間が自然を利用するために知恵を働かせ、編みだしてきた技術であり、人類が他の動物と異なった存在に進化したのはその技術ゆえとも言える。 

「科学は信じられない」という主張を見聞きするたびに、はたしてそれは「科学は信じられないから宗教や呪術へ戻れ」と言っているのか、「科学技術は信じられない」と言いたいのか、私は考えてしまう。もちろん、前者のような人も大勢いる。進化論を否定し、世界は『創世記』に記されたとおり数千年前に始まったと主張するアメリカの福音派などはその典型例だ。でも、大半の人は後者の意味で言っているのではなかろうか。少なくとも原子力発電は原子核物理学という「科学」を、原子力工学で応用した「科学技術」だ。原子核物理学からは核兵器もつくれるし、ガイガーカウンターのような機器も、考古学の世界を激変させた放射性同位体を使った年代測定技術も生みだされた。同じ大学で同じ応用物理を専攻しても、一方は水爆の設計者(ジョン・ナッコルズ)となり、もう一方は気候科学の基礎をつくる(ウォレス・ブロッカー)など、正反対の道を歩むこともある。  

 地質学の世界でも同様のことが言える。同じ地質学を学んでも、もっぱら鉱物資源に関心を示しエネルギー産業や鉱業に進む人もいれば、過去の地震や気候変動の痕跡を地層に探る研究をする人もいる。最近、日本でもシェールオイルやメタンハイドレードが話題を呼んでいる。地中の奥深くで曲がるドリルを開発し、高圧の水や化学薬品を大量に注入し、石油もたくさん使って化石燃料を取りだすといった人間の知恵と執念には脱帽したくなるが、それはひとえに、危険をはらむ中東の石油に頼ることなくアメリカやカナダがエネルギーを100年ほど自給し、雇用を増やせるという政治・経済上の理由なのだ。  

 自然は人類が利用するために存在すると考え、次々に新たなテクノロジーを考えだす工学者にも、経済の発展をとにかく最優先する財界人にも、「科学」など難解で危険だとして感情的に拒否し、それ以外の世界に没頭する人にも欠けているのは、人間社会も自然環境のなかに存在し、その大きなサイクルを乱せば自滅の道をたどるという自覚ではないだろうか。新しいテクノロジーが便利さと引き換えに環境を破壊しないか、便利になったためにかえってストレスが増え、肥満や成人病や認知症、うつ病になり、より不健全で社会保障費ばかりが増える社会になりはしないか、それを見極めるためにも、科学の知識、とりわけ環境学の基礎知識が万人に必要だ。

 ほぼ同じ場所で偶然に撮っていた写真を並べてみた