2021年11月27日土曜日

『中村屋のボース』

 翻訳中の本の参考文献として、中島岳志の『中村屋のボース:インド独立運動と近代日本のアジア主義』(白水社)を再読した。単行本がでたころ、ちょうど『インドカレー伝』(コリンガム著、河出書房新社)を訳していたために、興味をそそられて一読したことがあった。若い研究者がこのような作品を書きあげたことに敬服した記憶はあるが、当時の私には時代背景がまるで理解できなかったので、玄洋社・黒龍会という怪しげな団体と新宿中村屋の関係どころか、この本の主人公であるラース・ビハーリー・ボースと、インドのもう一人の革命家チャンドラ・ボースとの関係も、いつのまにか頭のなかでごちゃごちゃになってしまった。  

 多少、当時の背景が飲み込めてきて、チャンドラ・ボースもやはり日本に葬られていることを知ったあとで、それでインドカリーのボースのほうは何だったんだ?と思い、もう一度、隙間時間に読み直してみた。  

 両ボース(チャンドラとR. B.)はともにイギリスによる植民地支配から抜けだそうと、インドの独立を模索したナショナリストの革命家だが、別に親戚ではなく、実際にはほとんど互いに接点がなかった。当時のインドでは、マハートマー・ガーンディーによる非暴力、不服従による独立運動が多くの支持を得ていたが、両ボースのように、「非暴力主義ではインドは独立できない」と考え、テロを辞さない活動家も大勢いた。  

 フランス東インド会社の領有地だったシャンデルナゴルで育ったR. B. ボースは、高等教育を受けていない非エリートで、彼が革命家として目覚めたきっかけに、『バガヴァッド・ギーター』で説かれた「自己犠牲の精神」(Atmasamarpana)があったという。神への服従という意味らしく、ガーンディーの抵抗運動の根底にもこの精神があったようだし、ジハードにも、特攻隊にも、通ずるものがあると思う。ボースは「近代の〈個人主義〉を〈己のために他を犠牲にする〉ものと措定し、それに対して〈他のために己を犠牲にする〉〈家族主義〉を人類の理想と捉えていた」という。 

 ハーディング・インド総督暗殺未遂事件や、ラホール兵営反乱事件を引き起こし、イギリス政府のお尋ね者となったR. B. ボースはラビンドラナート・タゴールの親戚と偽って日本に亡命した。1915年6月5日のことだ。その彼がまず頼ったのが当時、日本に滞在中だった孫文であり、その伝で玄洋社の頭山満と知り合い、頭山からの依頼で彼を匿ったのが中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻だった。日本は当時、日英同盟を結んでいたので、ボースには国外退去命令がだされた。  

 R. B. ボースを支えつづけた玄洋社は、1880年、西南戦争に呼応して決起し、敗北した福岡藩士を中心に結成された日本初の右翼団体だった。『中村屋のボース』によると、「彼らにとって重要なのは、思想やイデオロギー、知識の量などではなく、人間的力量やその人の精神性・行動力にこそあった」という。頭山らにとって、ボースの「政治的・思想的発言は一貫して重要なものではなかった。[……]彼らにとって重要だったのは、イギリスの植民地支配によって悲惨な状況におかれているインドの革命家が、日本に期待をかけている姿によって自尊心が満たされることであり、その人物を自分たちが劇的な形で保護したという美談によって、自らのアジア主義的行動が、意義あるものとして正当化されることであった」という著者の分析は鋭い。

 一方のボースは、人間存在の本質は宗教的「神性」にあり、それを欠いた人は「人間の形は備えて居ても、人間と認めることは出来ない」としていた。そこに頭山らと相通ずるものがあったのだろうか。彼はまたコミュニストの唯物論には賛同しないものの、ロシア革命については「侵略主義の人々のあとに自由主義の人々が政権を握るに到った」として高く評価しており、イギリスを主要な敵とする対外戦略を進めていたソ連は、彼にしてみれば戦略的な利害が一致していたという。冷戦時代に生まれ育った世代にとっては理解しにくいが、イデオロギーなど当時の人びとにとってはこの程度のことだったのだ。  

 ボースはやがて地下生活を支えてくれた相馬家の娘、俊子と結婚し、第一世界大戦後にはもはやイギリス政府からも追われなくなり、自由の身となって一男一女をもうけ、日本に帰化した。しかし、つかの間の幸せな暮らしは、1925年に俊子が肺炎で病死したことで終わりを遂げた。その後も、子供たちを育ててくれた相馬夫妻との縁は切れず、中村屋を支える意味でも、看板メニューとして売りだされたのがR. B. ボース直伝の「恋と革命の味」と言われた「インドカリー」だった。  

 コリンガムの『インドカレー伝』を訳して以来、カレールーもカレー粉も使わなくなった私だが、ちょうど多忙な折でもあり、新宿中村屋の「極めるインドカリー」を買って味見してみた。レトルトにしては具がたっぷりだったが、何かのスパイスが効きすぎて味が単調になり、自分でつくる自己流カレーのほうが、それぞれのスパイスの微妙な香りと素材の味が楽しめてよほど美味しいと思った。  

 それはさておき、祖国インドには帰れないまま、インドの独立のために日本を動かそうと働きかけるボースにとって、その後は歯がゆい日々がつづいた。1924年に日本を再訪した孫文は、アジア主義を掲げる頭山らすら、中国にたいする不平等条約である対華21カ条要求の撤廃に動かないことに業を煮やし、日本は「いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城となるのか」と迫った。孫文の死から1年後の1926年3月に、ボースは『月刊日本』で「声を大にしてアジアの解放、有色人種の大同団結を説く日本の有識階級諸公にして、猶中国人を侮蔑し、支那を侵略すべしと叫び、甚だしきに至りては、有色人種は性来、白人に劣るの素質を有するが如くに解する」と糾弾した。

「大東亜共栄圏」の胡散臭ささを見抜いていたにもかかわらず、ボースはインドの独立を達成するには武力が必要という信念から、日本政府と軍との関係をつづけ、東南アジアで日本が占領した地域のイギリス領インド軍捕虜のなかから、インド人の志願者を募ってインド国民軍を編成した。しかし、1943年にはすでに50代なかばで、健康状態も悪化していたボースは、日本の傀儡と見なされ、インド人からの信頼が得られず、代わりにインド国民軍を率いる指導者として招聘されたのが、チャンドラ・ボースだった。悪名高いインパール作戦では、このインド国民軍が日本軍と行動をともにしていたのだ。  

 R. B. ボースは1945年1月に58歳で病死し、多磨霊園に葬られたようだ。一方、チャンドラ・ボースは終戦後の8月18日、活動の場をソ連軍の占領下にある満州国に移そうとして台湾から飛び立ったが、飛行機事故死した。遺骨は日本に運ばれ、杉並区のお寺に埋葬された。 

 本書には大川周明も随所に登場し、R. B. ボースが大川の故郷の酒田に講師として招かれた際に、「広茫たる田野を見て、私は故国印度の光景を想起せざるを得なかった」と書いたことなどにも触れられている。大川周明は私にとって謎の人物だが、東京裁判で東條英機の頭を叩いただけの人でないことが、少しばかりわかった。いつかまた、読み直してみよう。

『中村屋のボース: インド独立運動と近代日本のアジア主義』(中島岳志著、白水Uブックス)
元ホスト・ファーザーが送ってくれたベンガル・スパイス・ティーを飲みながら、このところベンガル語の発音と格闘している。ボースも本来はボシュのほうが近い。

2021年11月14日日曜日

七五三

 10月に早めに済ませる予定が、天候その他の事情で延び延びになって、先日ようやく孫の3歳の七五三のお祝いをすることができた。この子が育った3年間は、その大半がコロナ禍に見舞われ、最初のうちは公園の遊具に触れることすらできない日々がつづいた。この3年間に親族や親しい人が何人も鬼籍に入ったし、施設に入所した人もいた。そんななか、ほぼ毎週、電車を乗り継いで横浜まで通ってきては子守をしてくれた老母が、無事にひ孫の晴れ姿を見ることができたのは何よりも嬉しかった。  

 この日、孫が着た濃いオレンジ色の着物は、年の離れた私のいとこたちが着たもので、私の娘も、姪たちも、それぞれ3歳の七五三をこの着物でお祝いをした。娘と姪っ子たちは体格がまるで違い、3歳にして10cmも身長差があったので、同じ着物姿の写真を見比べては、袖や被布の下から覗く着物の長さの違いを見てよく笑ったものだった。今回、叔父夫婦に頼んでいとこたちの古い写真を探しだして送ってもらったところ、全員の写真を娘が上手に並べてくれた。それぞれに違うけれど、同じ晴れ着姿の童女が6人も勢ぞろいして、何とも楽しい写真ができあがった。  

 最初の持ち主だったいとこは、赤っぽい着物とオレンジの着物のどちらがよいか聞かれたらしく、「自分が好きなものを選んだ!」という満足感とともに、この着物を買ってもらった3歳当時のことを、いまもよく覚えているそうだ。しかも、どうやら購入先は別の叔父が勤めていた大丸だったようなのだ。大丸はもともと大阪の呉服屋から始まった会社で、私にとっては大丸とのかかわりは二重に意味があった。  

 私の高祖父、門倉伝次郎が師事した佐久間象山は、吉田松陰の下田踏海事件に連座して8年間、松代で蟄居したのちに、元治元(1864)年春に一橋慶喜に招かれ、京都入りした。赴任先から妻のお順(勝海舟の妹)に宛てた手紙に「此地にて大丸店にて袴羽織肩衣用意致し候」ところ、30両もかかって肝をつぶしたと書き送っていたのだ。象山はこの手紙からわずか数カ月後に、尊王攘夷派テロリストに暗殺されてしまうのだが、明治の錦絵に描かれたように、洋装で西洋馬具を付けた白馬にまたがっていたわけではなく、「黒もじ肩衣、萌黄五泉平乗馬袴、騎射笠、めりやす、黒塗鞭、黒塗沓、西洋馬具」といういでたちだった。その着物が大丸で誂えたものかどうかは不明だが、可能性はあるのではないか。乗馬も都路という名の栗毛馬だった。

 一方、高祖父が仕えた上田藩主、松平忠優(のちに忠固)は、若くして正室を亡くしたのちに大坂城代を務め、産物会所をつくって上田の産品である紬織物「城代縞」の販路を開拓していたころに、おとしという側室を迎えた。おとしは少なくとも2男2女を産み、息子の1人が上田藩の最後の藩主、忠礼となった。そのおとしの出自については、上田藩士の娘という説と「呉服屋大丸の裁縫を引受る職人の娘」(『上田縞絲之筋書』)の2説あり、諸々の状況から後者の説に分があると私は見ている。ちなみに松平忠固は、日米和親条約と日米修好通商条約に老中としてかかわり、開国を断行した当人と言うべき人だ。  

 長年、大丸に勤めた叔父は、こうした経緯を何も知らないまま定年退職後まもなく難病を患い、苦しい闘病のあと他界した。祖先について調べた際に、2度も大丸の呉服に関する記述を目にし、そのたびに何かしら不思議な縁を感じていた。今回、その伝次郎の子孫たちが40年以上にわたって代わる代わる着てきた晴れ着が、大丸で購入したものだったと知り、亡叔父に伝える意味でも、どうしてもブログに書き留めておきたくなった。  

 七五三の準備をするために、姉が保管してくれていた着物をもらい受けに行ったところ、共布の巾着と、娘たちが付けたリボンが見当たらなかった。どうせなら、ゆらゆら揺れる「下がり」の付いた髪飾りにしたいし、10月なら色もオレンジの金木犀がいいと思って探したが、これぞと思うものがない。作り方サイトや動画などを見ると、つまみ細工は簡単そうに見えた。 

「下がり」にこだわったのは、以前に鮮卑の歩揺という飾りについて調べたことがあったためだ。本来は薄い金属片でできた飾りで、歩くと揺れて光るだけでなく、おそらくチリチリと金属音もしたのではないかと思う。歩揺に興味をもったのは、うちにある昭和初めのお雛様が、そんな垂飾の付いた冠をかぶっていたからだ。金属音を立てるという意味では、埴輪の馬が着ける馬鈴も、チャグチャグ馬コの鈴も、魔除けか、神への呼びかけか知らないが、何かしら意味があったはずだ。つまみの「下がり」では音が鳴らないので、昔買ったタイの山岳民族の刺繍入りのシャツについていた鈴も付けてみた。  

 ところが、予定以上に苦労してできあがった髪飾りを見せると、孫は顔を曇らせ、「オネンジはヤなの。青が好きなの」と、切々と訴えるのだ。どういう青がいいのかと聞くと、近所の果樹園のネットや、近所のスーパーBig Aの看板の、いかにも人工的な青がいいと言う。着物の濃いオレンジとはどう考えても合わないが、着る本人の希望を少しでも叶えようと、家にあったそれに近い色のリボンで大きめの花をこしらえ、お団子に結った髪に留めてやった。  

 当日の朝は、逃げ回る孫をなだめすかして椅子に座らせ、娘が慣れない手つきで髪を結うあいだ、可能な限り頭を動かさないように、あの手この手で釣り、何とか着物も着せて近所の神社に連れだした。11月に入ってさすがに金木犀の最後の花も散ったあとだったが、常緑樹や針葉樹の多い深緑の境内のなかでは、鮮やかなオレンジの着物がじつによく映えて、ちょこまか動く小柄な孫は、茶運び人形のようで何とも愛らしかった。この先、どんな世の中になるのか見当がつかないが、たくさんの人の思いを受け継いで、ちゃんとばあさんになるまで無事に生きてくれるようにと祈った。

同じ着物を着た代々の子供たち

老眼を酷使してつくった髪飾り。楽天ポイントを使ってほぼ無料でちりめん生地を10cmずつ買い、手持ちのビーズと合わせ、100均のコームに付けたので、制作費は300円以下!

孫の心を捉えているらしい近所のスーパーの看板

2021年11月3日水曜日

東京都立中央図書館

 広尾の有栖川宮記念公園内にある東京都立中央図書館に初めて行ってきた。父方の先祖をたどるために佐賀の歴史関連で調べたい本が何冊かあり、そのほぼすべてがこの図書館に揃っていることを発見したのだ。ところが、11月11日から年始まで工事等のため休館となるというので、遅れている仕事を挽回するための貴重な祝日だったが、頑張ってでかけてきた。時間がなかったので、他県の資料を見る暇もなかったが、地方史関連の蔵書はかなり充実しているのではないだろうか。嬉しいことに、私の『埋もれた歴史』もちゃんと明治維新関連の書籍のあいだに並んでいた!  

 じつは何年か前に『佐賀藩多久領の研究』(三木俊秋著、文献出版)という本を古書で手に入れていたが、そこでは祖先らしき人の名前は一カ所しか見つからなかった。「献金による身分獲得」という明治2年6月の記録で、「東郷初太郎」という名前が「梶原九郎左衛門被官」の一人として書かれ、その隣に「南里吉左衛門」という名前が並んでいた。この組み合わせにピンときたのは、父の家に残された記録では「東郷初五郎」の妻が南里千代で、その父が南里吉左衛門だったからだ。「五」と「太」の崩し字を読み違えたと考えれば、ここに並ぶ2人が私の祖先である可能性は非常に高い。  

 この本には被官は「大庄屋・小庄屋・横目・村山留・咾等の村役人、あるいは領主の艫方・舸子・天下荷物宰領役等の公的な役目について、領主より扶持米を貰っているばあいもある」などと書かれていたが、要は「被官=家来=召使」であるようだった。  

 こんなことを調べる気になったのは、曾祖母は「多久藩の家老の娘」と聞かされていたからであり、アルゼンチンの親戚からも祖先は侍なのかと質問されたためだ。まず、曾祖母だと明治以降の生まれで、すでに「家老」は存在しないので、少なくとも高祖母だろうと私は踏み、墓石に南里氏千代と刻ませていた人が、可能性としていちばん高そうだと考えた。その後、「多久藩」ではなく、「佐賀藩多久領」であることがわかり、多久邑の家臣団の家老は軒並み多久姓だったので、その時点で家老説は私のなかでは完全に否定されていた。  

 少し前に佐賀県立図書館データベースというサイトも見つけ、南里吉左衛門の名前では『佐賀藩多久領の研究』のページしか検索されないことが確認できたので、千代さんの父親は初五郎と同等の「被官」なりたて、という身分だったと言えそうだ。もっとも、南里姓なので、下級武士の次男や三男だったのかもしれない。そこまで判明したら、あとは2人の主人である「梶原九郎左衛門」がどういう人だったのか調べる以外にない。それが本日、都立中央図書館まで行った大きな目的だった。データベースのおかげで調べるべき書籍もページ数もわかっていたので、効率よく調査できた。  

 梶原九郎左衛門に関してはそれなりに記録があり、しかも慶応4年正月に大坂か京都、もしくは長崎で情報収集に走っていた人のようだ。慶喜の回天丸による東帰を含め、戊辰戦争の重要な出来事を随時、多久六郎左衛門宛に書き送っていて、史料として貴重であるという。多久邑の第11代領主多久茂族は官軍側で会津攻撃をした人で、松平容保父子と重臣5人を東京まで護送してもいた。そのなかに梶原九郎左衛門がいたかどうかは不明だ。いずれにせよ、私の祖先たちがこの梶原の家来になったのは明治2年のことなので、そうした活躍がすべて終わってのことだろう。  

 都立図書館には『多久の歴史』という昭和39年刊の非売品の書籍もあり、思いの外、多くの情報が得られた。親戚からは曾祖父が炭鉱に手をだして失敗し、痛い目に遭ったと教えられていた。多久では明治3年から石炭採掘が始まり、11年には19の炭鉱があり、「主として、現在の高木河内、莇原附近に集中していた」という。そのあとにつづくリストには確かに、小侍宿の西南端の観音山炭鉱や、同西の鼠喰ひ炭坑、莇原の柚の木原炭坑などは「出炭なし」と書かれているので、掘ってみたものの外れのところもあったようだ。だが、このリストの炭坑はいずれも明治11年までに開業で、曾祖父は同8年生まれで、34歳で早世している。となると、炭坑に手をだしたのは高祖父で「被官」の初五郎だったかもしれない。  

 佐賀の叔父の家で見せてもらった『多久市史』も、都立図書館に全巻揃っていた。1年ばかり多久市長を務めた祖父については、その「人物編」で読んでいたが、ほかにも「現代編」で若干触れられていた。昭和29(1954)年に多久の5つの町村が合併する際の協議会の会長に、当時北多久町長だった祖父が選ばれ、合併前の五町村の全議員100人で残る任期をまっとうすることになり、その第1回の市議会で、祖父が市長職務執行者として承認されたのだという。その3年前、終戦の翌年には、多久は「文化、芸術の分野では未開の土地柄」であるため、「文化、芸術活動における欲求」が芽吹いてきて「北多久町文化連盟」が結成され、祖父を初代会長にして公民館をつくる運動をしたようだが、「せっかくの試みも会員の確保など組織維持が困難になり、一年足らずで解散した」そうだ。  

 前述の『多久の歴史』にも、祖父の人物紹介のページがあり、昭和35(1960)年に市長に当選したあとの7月の定例市議会の演説の抜粋が掲載されていた。「第一に、市政を執行する心構えとして『正しい市政、明るい市政、誠実な市政』の三つをあげております」と、いかにも無難なスピーチをしたようだが、「すなわち『正しい市政』とは、公正であり、一方に偏しない妥当性のある市政の意味であり、『明るい市政』とは、市政について民主主義の趣旨にそい、あらゆることについて話し合いの場を作り」云々とつづく。当時の時代背景でそれが斬新なことだったのか、すでに耳にタコができそうな道徳のお話となっていたのかはわからない。さらに「昭和三十七年八月七日東郷市長は、激務のため久留米大学附属病院に入院加療中であったが、治療のかいもなくついに不帰の客となられた」と、締め括られる。 

 私の姉は、この祖父からもらったという、妙なオレンジ色の藁入りで重いクマのぬいぐるみをもっていて、私にはそれが『ももいろのキリン』の意地悪なオレンジのクマとも重なって、幼な心に近づき難い存在に感じられた。半世紀以上の年月を経て、会うことのなかった祖父について読むのは、なかなか不思議な感覚だ。  

 佐賀県立図書館データベ-スでは、曾祖母の名前も検索されていたので、かなり期待して『多久市史』のそのページを開いたのだが、下川内というところにある阿弥陀如来の石像の寄進者の一人だった。まだ残っているだろうか。  

 そんなわけで、2時間もかからずに無事にコピーも取り終え、「宮さん、宮さん」の有栖川宮像を見上げながら、元南部藩下屋敷という公園内を抜けて帰宅の途に就いた。周囲は何度か通ったことがあるけれど、公園内入ったのは今回が初めてだった。

 東京都立中央図書館

『埋もれた歴史』発見!

『多久の歴史』は安価な古本を見つけたので、購入した。

 宮さん、宮さん