2018年9月29日土曜日

おばあさん仮説

 昨秋からつづいていた怒涛の日々をなんとか乗り越えた気がする。数カ月ほど失業していた折、別件でお電話をいただいた編集者に、「仕事ないですかね、暇なんですけど」と言ってみたところ、ちょうどリーディングの仕事があるからと頂戴したのが、先日終えたばかりの本の仕事だった。企画会議はすんなり通ったのだが、完全原稿がまだでておらず、待っているあいだに状況が一変して別の本2冊が先に刊行されることになったため、発売予定の遅いこの仕事が後回しとなった。このように、自分の予定がまったく立たず、繁閑の差があまりにもあるのが、出版翻訳の苦しいところだ。年始にはこの本の最終原稿がPDFファイルで届いていたのだが、本腰を入れて取り組めるようになったのは5月以降だった。綱渡りも3本目となるとさすがに注意散漫になり、気力も衰え、なかなか思うように進まなかった。  

 しかも、今回は性選択という進化生物学の本で、前2冊とは分野もまるで異なり、参考文献を何冊か読んで付け焼刃の勉強はしたものの、細かい用語の使い分けなどはさっぱりわからない。学術用語は、学会ごとに、研究者ごとに勝手に訳語をつくってきたせいなのか、同じ現象でも分野が変わると用語もころころ変わるのでじつに厄介だ。生物を専攻した娘が翻訳書の誤訳を指摘するのをしょっちゅう耳にしていたので、この本は原稿段階から読んでもらうつもりだった。

 ところが、とうの娘が8月に出産をし、睡眠不足と慣れない育児と、自分自身の仕事で手一杯のため、とくに問題の多い箇所だけは引用元の論文から読んでももらったが、それ以上は頼めなかった。そこで、同じく生物好きで、少なくとも通勤時間は原稿読みに使えそうな娘の夫に、ない時間をひねりだして読んでいただいた。まあ、その分、私も週に3回は沐浴や子守を手伝い、ダッバというインド製ステンレスの弁当箱にあり合わせの昼食を詰めて通っている。まあ、餅は餅屋、適材適所ということで、私は子守と、湯女(余計なサービスなしの)と、ダッバ・ワラ(弁当運び人)を兼業し、利用できる伝は活用することにした。初校前の荒削りの訳文に婿殿は面食らったようで、怪しい箇所をあちこち見つけてくれた。そもそも言葉の定義づくりが本職とかで、見ているところがじつに細かい。生物でsupernaturalを超常的と訳すのは違和感があるとか、触角葉とすべきところを触覚葉にしていた漢字の間違いまで、いろいろ指摘された。  

 校正者や編集者からもゲラで多数の鋭い指摘を受けた。翻訳中に不明な点を深く調べてしまうと、そのことに気を取られて文脈を見誤ることがある。私が左右非対称のシオマネキの説明の続きと思い込み、人間が柄付きブラシで背中を擦るようなイメージと誤解していた箇所では、超多忙な編集者がそのブラシの絵を描き、「このような生物が思い浮かばないです」と、丁寧に間違いを指摘し、本来、著者が意図したはずの全身が左右非対称の生物である海綿の絵まで添えてくださった。自分の勘違いにようやく気づいたとき、その絵を見て笑いが込み上げてきたのは言うまでもない。働き詰めだったこの1年間に老眼も確実に進行した。イタリックで書かれた学名は2カ所もスペルを間違えていたし、tailとtrailを読み間違えていたのだ。「モルフォチョウは尾をひらひらさせて」と訳したところ、「尾があるんですよね? 念のために」と、ゲラに書かれたのには参った。慌ててモルフォチョウを画検索してみたが、尾状突起もない。蝶に尾はないよなあ、と頭をかきつつ、原文をよく見たらtrail、つまり小道沿いにひらひらと飛んでいたのであり、またもや苦笑せざるをえなかった。こうした支援体制があってこそ仕事がつづけられてきたのだと、感謝することしきりだった。  

 自分ではまだ若いつもりでも、体は確実に衰えてきている。それを実感したのが娘の出産当日だった。出産時に悲劇に見舞われた親戚、友人が何人かいるし、私自身も恐ろしい思いをしたので、出産時にはかならず付き添うと伝えてあった。破水したという電話で叩き起こされると、寝ぼけ眼で家を飛びだした。ところが路面とのあいだの最後の段差を忘れていたため、思いっきり転び、学生時代のゲレンデ以来、久々の顔面制動をするはめになった。痛む顔を押さえつつ、夜更けに坂道を駆け下りる姿を見ている人がいたならば、『やまんばのにしき』にでてくる山をゴーッと駆け下りる山姥かと思っただろう。おかげで、初孫とは、青あざに擦り傷というひどい顔で対面するはめになった。余談ながら、瀬川康男が描いた山姥の錦は亀甲繋ぎ文の錦だった!  

 娘は低体重児でシワシワのヨーダそっくりの顔で生まれたが、孫娘もかろうじて2500gのラインを超えた程度の小さい赤ん坊で、オルメカ族のトウモロコシ頭かと思うほど頭が細長かった。ふっくらツヤツヤした赤ちゃんモデルとは程遠い姿に、誰に似たんだろうねえ、とお互いを探り合った。あぐらをかいた鼻だけは間違いなく娘似で、「よりよって、鼻が似るとは」と娘が嘆いていた。「自分の顔は、ある意味で自分のものだが、実際には両親や祖父母、曽祖父母など代々受け継がれてきた特徴のコラージュからなるものだ。悩みの種の、あるいはお気に入りの唇や目も、自分だけのものではなく、祖先の特徴なのだ」と、『馬・車輪・言語』で著者アンソニーは語る。泣いて目元を真っ赤にするときは、「遮光器土偶」などと呼ばれているらしい。ひどくぐずる子ではないが、うまく寝つけないときは抱っこで子守唄や童謡がやはりいちばん効く。数十年ぶりに歌おうと思ったが、どれも歌詞はうろ覚えになっていた。適当にごまかして歌うと、おチビさんがまだ焦点のよく定まらない目で、眉間にシワを寄せ、お父さんそっくりの表情で「本当にそう?」と言わんばかりにこちらを見る。ゲラで散々、やれ、日本語として不自然だとか、同じ助詞が連続しているとか、漢字が間違っているなどと指摘された挙句に、子守唄までチェックされるのは情けない。  

 しかし、これから言語を習得する重要な時期に、間違った歌詞を教えるのはいかがなものかと思い直し、子守唄&童謡の歌詞アンチョコをつくった。娘のときは手抜きだったので、今回は「裏の松山蝉が鳴く」、「花は何の花、つんつん椿、水は天からもらい水」といった歌詞の五木の子守唄と、民謡だが「こきりこの唄」も加えた。こちらも「向かいの山に鳴くヒヨドリは、鳴いては下がり、鳴いては上がり」という歌詞があるらしく、YouTubeで見てみたら、ヤマドリの尾を、古墳時代の冠の飾りのように綾藺笠につけて、こきりこささらを打ち鳴らすささら踊りが素敵だった。  ただでさえ時間がない私に子守業の追加は痛手だが、そこから新たに学ぶことも、思わぬ発見もあるだろう。進化論の一つに「おばあさん仮説」もあるそうだし、幼児が言語を習得する過程は、昔から私の関心事の一つだ。座り詰めで悪化しつつある腰がぎっくり腰にならない程度に、うまく両立させたい。

 新入りのおチビさん

 昔つい買ってしまったダッバ

最近つい買ってしまった 遮光器土偶と馬型埴輪