2003年9月29日月曜日

トイレで勉強中

 もう9月が終わってしまったとは、まったく信じられない。夏を充分に楽しまないうちにすっかり秋になり、損をしたような気がする。冷夏だったせいもあるけれど、忙しくてどこにも遊びに行かれなかったためでもある。庭にススキの穂が出てきたのを見て、もう秋なんだと驚いている。  

 まあ、「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは」と兼好法師も言っているから、少しくらい季節の移り変わりを見逃すのは構わないか。「垂れこめて春の行方知らぬ」なんて、季節は違うけれどまさにいまの私の状況だ。こう書くと、いかにも古文に慣れ親しんでいるようだが、じつは少し前に娘が期末テスト(二学期制なので)の勉強でトイレに貼っていたのを読んで、まさにそうだと納得したしだいだ。ちなみに、うちでは暗記はトイレでというのが習慣になっており、大きなコルクボードが備えつけられている。友達に勧めると、そんなところに入ってまで勉強したくないと、呆れられるそうだが。  

 しばらく草取りもしなかったら、庭のあちこちに茂みができて、猫の格好の隠れ場所になっていた。そこで先日、重い腰をあげてその部分だけ雑草を抜いた。この春、変わった芽が生えてきて、正体がわかるまで見届けていた丈の高い草は、ようやく黄色い花が咲き、コセンダングサだということがわかった。要はひっつきむしの一種。庭中にあるのは、娘が運んだのか、鳥か猫が運んだのか。早速、一本だけ残してあとは全部抜いた。  

 猫との戦いは相変わらずつづいている。餌台の棒に枯れたバラのトゲつきの枝を縛りつけ、猫の好きな通り道の一つであるブロック塀を支える台の上に、栗のいがをコンクリート用ボンドでつけたら、ほとんどの猫は寄りつかなくなった。それでも一匹だけ、代赭色なので代赭と呼んでいる雌猫が、あっちの隅こっちの隅に身を隠して鳥を狙う。最近では、おたがい慣れっこになり、こちらも目ざとく隠れ場所を見つけては、代赭を驚かせて喜んでいる。  

 昨年、小さな鉢で買った紫式部とピラカンサは、地面に植えたら少しだけ大きくなり、おいしそうな実をつけている。暮れに娘の友達の家からいただいた切花の千両は、そのまま萎れることなく何ヵ月ももち、高校に合格するまでと祈願していたら、入学式になってもまだ元気だった。あるときふと見たら根が生えていたので、庭に植えたところ、次々に新しい芽が出てきた。今年は実こそならないが、そのうちこれもレストランのメニューに加わるだろう。  

 ところで、先ほどの『徒然草』の「花は盛りに」の続きに、こんな下りがある。「よろずのことも、始め終はりこそをかしけれ。男女の情けも、ひとへに会ひ見るをば言ふものかは。会はでやみにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明かし、遠き雲居を思ひやり、浅茅が宿に昔をしのぶこそ、色好めとは言はめ」。ふーむ、そんなものかな。四六時中、会いたいとは思わないけれど、いつまた会えるかわからないのは辛い。「色好み」というのは好色という意味ではなく、恋愛の情をよく解することなのだそうだ。  

 何百年も昔に生きていたおじさんの言葉に、慰められたような、励まされたような、そんな妙な気分だ。