2004年10月30日土曜日

娘の修学旅行

 私が以前、勤めていた旅行会社は、修学旅行用に臨時列車を走らせたことからスタートしたような会社だったので、修学旅行部門は重要な位置を占めていた。一人当たりの旅行の単価は安くても、なにしろ大口団体だし、毎年決まって実施してくれるから、修学旅行は旅行会社にしてみればありがたいお客様だった。 

 もっとも、私自身は修学旅行を扱うセクションにいたことはなかった。だから、旗をもち、声を張りあげたバスガイドが先頭に立ち、修学旅行生をぞろぞろ引き連れているところに遭遇すると、ひるんでしまうのだった。なにしろ、旅行会社にいながら、私は団体旅行が大の苦手だったからだ。 しかし、会社を辞めて10年近くもたつと、修学旅行を取り巻く環境も大きく変わっていた。じつは先週、娘が沖縄へ修学旅行に行ってきた。生徒は3方面から自分の行きたい方面を選べた。少子化で学校全体の規模が小さくなっているうえ、こうして分割するので、各方面の全体数は50人から100人程度になる。この規模なら一般団体の枠組み内に収まるので、宿泊場所等の制約が少なくなる。また、班ごとに分かれて、タクシーやバスを使って自由に見学する部分も大幅に拡大されていた。  

 集合は羽田空港なので、各自で空港まで向かう。班ごとに集まると搭乗券をもらい、勝手にゲートまで行く。1日目はさすがに貸切バスで移動したらしいが、2日目からは完全に自由行動で、事前に立てた計画に沿って班ごとに好きな場所をまわる。娘たちのグループはアウトドア派ばかり集まっていたので、慶佐次のマングローブ、億首川でカヌーこぎ、新原ビーチでガラスボート、漫湖干潟と、沖縄の自然を満喫できる場所ばかり訪ね歩いたようだ。それも、2日目に手配してもらった観光タクシーの運転手と意気投合したとかで、3日目も予定を変更してあちこち連れていってもらったらしい。最終日は、それぞれ見学先から、ゆいレールなどを使って那覇空港に向かい、また班ごとに人員の確認だけして飛行機に乗り込み、羽田に到着すると集まりもせずそのまま解散だったそうだ。  

 これでは、旅行会社も宿と航空券のほか、ほとんど儲けるところがない。2日目の観光タクシーの料金を事前に集金していたのは、苦肉の策だろう。元同業者には同情しつつも、これだけ子供たちを信用し、自由行動させてくれた学校には感謝したい。ほとんどの子が沖縄は初めての旅だったにちがいない。それでも、事前に充分に下調べをし、計画を練れば、高校生でも問題なく旅ができることがよくわかった。もちろん、予定どおりに行かないこともあるし、事故が起こる可能性だってある。それでも、どの子も知らない土地でなんとか行動し、夕食の時間や、空港での集合時間に遅れることなくやってきたというのだから、すばらしい。その間、引率の先生たちは気が気ではなかったろう。 

 旅の楽しみは事前の計画と、行った先々でのハプニングと、現地の人との交流だと私はつねづね思っている。万事順調に計画どおりに行った旅など、味気ない。あらかじめ想定したことしか起こらないなら、家で旅のビデオを見るのと大差ない。多少のトラブルにもめげず、自分の足で歩いた旅だからこそ、それぞれの子の心に深く残るものとなっただろう。旅行会社には気の毒だが、修学旅行がここまで変化したのは、うれしい驚きだった。

2004年10月7日木曜日

土地開発

 今朝の新聞に、大量のチラシとともに、近所に建設中のマンションの大きな広告が入っていた。以前に住んでいたアパートの少し先にあった木立ちを切り倒し、山を削って建てたマンションだ。東海道がにぎわっていたころから、旅人を見つめていたのではないかと思われるような大木を無情にも引き倒し、巨大な穴になった工事現場は、とても正視に堪えないものだった。完成間近なマンションはすでに街並みと一体化しており、元の光景が思い出せない。  

 ここだけではない。この夏、足繁く通った尾根道から神社にかけての散歩道に、先日、二週間ぶりくらいに行ってみた。民家のわきにある小道を抜けて、その先にある私の好きな「山道」に出ようと思った途端、息を呑んだ。道そのものがなくなっていたのだ。木はすべて切り倒され、ブルドーザーが何台か忙しく働いていた。仕方なく、下の道を通って神社に行ったが、途中で何台も工事用の大型トラックとすれ違った。無性に腹が立ち、石でもぶつけてやりたい気分になった。  

 すべての土地が建物で埋まるまで開発しないと、気がすまないのだろうか。こんな山の斜面くらい、放っておいてくれればいいのに。ストレス解消で通っていた散歩道が、かえってストレスのたまる道となり、私には逃げ場がなくなった。  

 数日前、チンギス・ハンの霊廟跡が確認されたというニュースが報道された。チンギス・ハンの墓は、当初からありかがわからないように、目印もつくらせなかったという。そのニュースに関連して書かれていた白石典之・新潟大助教授の言葉が、とても印象的だった。「生きるために大切な草原に物をつくらないのが遊牧民の正しい姿で、チンギス・ハンはそれを守った」、というものだ。人間が地球の環境のなかに住まわせてもらっている、というこの謙虚な姿勢にくらべ、いまのわれわれはどうだろう?  

 まず、新しい道路ができる。すると周辺の山が崩され、どんどん宅地化する。山を崩し、木を切ると雨水が川にあふれるからか、最近のマンションはみな巨大な遊水地の上に建っている。子供の遊ぶ場所がないと困るので、申し訳程度に公園をつくる。人工の遊具しかない狭い公園など、小学生くらいになるともう見向きもしない。遊び場のない小学生や中学生は、ゲームセンターにたむろし、ショッピング街をうろつく。学校でいくら環境保護の大切さを教えても、自然に触れることのない子供は、何を聞いても実感できないだろう。  

 今朝のマンションの広告には、小さな字で、環状2号線沿いの西側の窓には、特殊なガラスを使用と書いてある。おそらく窓はとても開けられないのだろう。駅に近く、周辺にはショッピング街、病院、学校、公園があり、暮らしやすい環境だそうだが、本当にそうだろうか? 幹線道路から50メートル以内は癌の発生率が高いというニュースを、このあいだ見たような気がする。  

 チンギス・ハンの墓はあえて捜さないほうがいい。草原を掘り返し、墓をあばいて分析するより、謎のままにしておいたほうがいい。チンギス・ハンは静かに眠らせてやり、モンゴル人の昔からの知恵を「先進国」の住民に聞かせてやるのが一番だ。