2016年3月30日水曜日

『エンゲルス:マルクスに将軍と呼ばれた男』

 自分の視野を狭めないために、できる限り多様な仕事に挑戦しているつもりなのだが、最近、まるで違う分野の本を訳していたはずなのに同じ話題が取り上げられていたり、関連する問題に気づかされたりすることが増え、なにやら世界が収斂しているような不思議な感覚がある。  

 たとえば、オスマンのパリ。賞賛の言葉だと思い込んでいたものの別の意味を最初に理解したのは、スジックの『巨大建築という欲望』という本だった。権力者と建築家が都市の設計図や模型を眺め、都市の中心部で膨れあがる貧民街を一掃して、整然とした美観につくり変え、その陰でどれだけの人びとの暮らしが奪われたかを、そしてそれがパリだけでなく、世界各地でどれだけ行われてきたかを同書は描いていた。『「立入禁止」をゆく』という都市探検の本では、オスマンのパリが、パリ市内の地下から石灰岩を採掘して建造され、空洞になった地下の採石場には、貧民街の古い墓から掘りだした遺骨を移動させたことを知った。いわゆるカタコンブ・ド・パリで、実際には18世紀から始められた。先月ようやく刊行された『エンゲルス──マルクスに将軍と呼ばれた男』(トリストラム・ハント著、筑摩書房)では、こうした一方的な都市整備を「オスマン」と名づけたのがエンゲルスであったことを知り、驚いた。「体裁の悪い横丁や小路は、この一大快挙へのブルジョワ階級からの惜しみない自我自賛の声とともに姿を消す」と、彼は1872年に『住宅問題』のなかで書いた。  

 エンゲルスが生きた19世紀には、ロンドンでも人口が急増し、土地も埋葬地も不足していた。彼より12年先に亡くなったマルクスは新設されたハイゲート墓地に葬られ、のちに大きな銅像まで建てられたため、彼の墓所はいまも観光客や思想家が定期的に訪れる場所となっている。しかし、エンゲルスの墓はない。彼の遺体は遺言に従ってネクロポリス鉄道で運ばれ、火葬され、海に散骨されたからだ。「なかでも奇妙な私鉄路線はロンドン・ネクロポリス鉄道だ。これはロンドンと市の南西のサリー州にあるブルックウッド墓地とのあいだで遺体を運ぶために使われていた」と、『「立入禁止」をゆく』には書かれていた。この鉄道は第二次世界大戦中に空襲で破壊され、再建されなかったが、十数年前に訳した『ミイラはなぜ魅力的か』にも、地価の高い土地に残る古い墓地を処分し、死体の発掘を商売にする会社としてヴィクトリア朝時代からあるネクロポリス社がでてきたので、一部の事業は現在も継続しているようだ。 

『エンゲルス』の著者は野暮な説明はしていなかったが、イギリスで火葬が合法化されたのはそのわずか10年前のことなので、エンゲルスの最期はいかにも、科学を信奉し、死後には期待せず、地上の楽園の実現に生涯を賭けた彼らしい。なにしろ、古代エジプト人と同じくらい、キリスト教徒にとっても、最後の審判の日に自分の肉体が残っていることは重要だったからだ。『100のモノが語る世界の歴史』にある金や宝石で飾られた14世紀フランスの聖遺物箱には、天使の像とともに、棺に入ったまま蘇り、両手を挙げて嘆願する七宝焼きの4人の裸の男女が付いていた。カトリック教会では死後も遺体が腐らないことが聖人であることの証拠とされ、不朽の遺体は信仰の対象であったと、前述のミイラの本には書かれていた。遺体がそれほどの意味をもつ文化で育ちながら、散骨まで望んだエンゲルスは、時代を1世紀半は先駆けていたのだろう。レーニン、スターリン、毛沢東、ホー・チ・ミン、金日成らが死体防腐処理を施されたことを考えれば、これら「後継者」とエンゲルスの根本的な違いが見えてくる。ソ連崩壊後、群衆の怒りの対象となったために火葬され直したスターリンを除けば、残りの指導者たちの遺体はいまなお「信仰」対象だろう。 

 『エンゲルス』には、1度だけ私の住む横浜も登場する。彼の生きた時代は、日本の幕末から明治初期にかけてなので、この本に触発されて調べ始めた私の先祖の足跡探しの時代とぴったり重なる。もちろん、横浜にきたのはエンゲルスではなく、彼の最大のライバルの無政府主義者バクーニンなのだが、思いがけない接点にグローバル化の始まりを見た気がした。エンゲルスとバクーニンは、ベルリン大学で同じ講義を受け、1848年の革命ではそれぞれバリケードについて戦った。バクーニンはそこで逮捕され、最終的にシベリア送りとなったが、脱出してアメリカ周りでヨーロッパに戻る途中、1861年夏に横浜に立ち寄った。宿泊先は、居留地70番にあった日本最初のホテル、ザ・ヨコハマ・ホテル。オランダ船ナッソウ号の元船長フフナーゲルの家を宿屋にしたもので、御開港横浜大絵図二編には「オランダ五番ナツショウ住家」として描かれている。彼はここで48年の革命仲間で、ペリー艦隊の随行員として有名な画家のヴィルヘルム・ハイネと再会したほか、シーボルト親子、ジョゼフ・ヒコらとも会ったようだ。このホテルは、開港直後に殺されたオランダ人船長らの宿泊および葬儀場所であり、1862年ごろからしばらくイギリスの海兵隊の宿舎にもなり、日本最初のビリヤード台があったことでも知られるが、1866年の豚屋火事で焼失した。現在は、住友海上・上野共同ビルがある。調べるたびに、思わぬ接点が見えてきて、雑学はなんとも楽しい。  

 長くなって申し訳ないが、最後にもう一つ宣伝を。10年前に訳して以来、うちの食生活を大きく変えた本、『インドカレー伝』(リジー・コリンガム著、河出書房新社)がこのたび、文庫化されました! 中央アジアや帝国主義の歴史を知る本でもあります。これを機にぜひお読みください。

 居留地70番だった付近

『エンゲルス:マルクスに将軍と呼ばれた男』 トリストラム・ハント著(筑摩書房)