2012年2月28日火曜日

仏像を見る

 最初に見たのがいつのことだったのか、どのお寺だったのか記憶にないが、おそらく修学旅行か何かだったのだろう。「これがお釈迦さまの足跡です」と説明されて、巨大な仏足石を見せられたとき、子供だった私は、「いくらなんでも大きすぎるし、お釈迦さまが日本にきたはずがない。それにしてもずいぶん偏平足だ」などと、つまらぬことを考えていた。  

 ところが、昨秋から訳している大英博物館の本によると、仏陀の足跡は、インドボダイジュ、法輪などと並んで、仏教が広まった当初から用いられていた数少ないシンボルの一つなのだそうだ。「仏足石の信仰はいまでもインドでは重要なものとなっています。足跡は、もはや存在しないけれども、地球に痕跡を残した人を意味しています」という解説を読んで、自分の浅はかさを恥じた。かつて存在した偉大な人の教えを忘れないために、その足跡をシンボルにしていたのだ。  

 釈迦(紀元前463?年~前383?年)が生きたとされる時代からアショーカ王(在位 前268?年~前232?年)の時代を経て、数百年後のクシャーナ朝(1世紀~3世紀)時代のガンダーラで初めて、仏陀はいわゆる仏像として描写されるようになった。「絹のような貴重な商品とともに、僧侶や伝道者は旅をし、彼らとともに人の姿で表わされた仏陀の像も広まった。おそらくそのような図像があると、言葉の壁を超えて教えるときに役立つのだろう」(同書より)。仏教が日本に伝来したのは6世紀なので、そのころにはもちろん経典と仏像はセットになっていた。日本人にとっては、最初から仏像ありきだったのだ。  

 仏像はいちばん最初から、釈迦本人の姿を知るどころか、民族もまるで異なる人によってつくられたため、それが仏陀の像であることを人びとにわからせるために、ポーズや印相のほか螺髪、白亳など、いろいろ細々とした特徴が決められた。そのなかに垂れ下がった耳たぶというのもあった。「耳はもはや金の耳飾りで垂れ下がってはいない。それでも、長い耳たぶにはまだ穴が開いており、この人物がかつては王子だったことを示している」。このピアスホールは耳朶環というそうだ。高校時代に鎌倉の大仏(1252年に造立開始)を見て、パンチパーマにイヤリング(に見えた)に口髭まであるのに気づいて、かなり異国風だと驚いた記憶がある。東大寺の大仏のほうが古いが、何度もつくり変えられているそうなので、顔立ちはずっと日本風だ。ちなみに、高徳院の大仏にも大仏殿は何度か建てられたが、大風、地震、津波で失われて野ざらしになったという。津波はここまできたのだ。  

 仏像などどれも似たり寄ったりだと思いがちだが、注意して見ると、制作者の容貌や時代背景が感じられておもしろい。たとえば鎌倉の長谷寺の十一面観世音菩薩(721年)は口髭を生やしているので、明らかに男性だ。ところが、大船観音(1929年)のように、近年つくられた観音像は女性的だ。いつごろから性別が変わったのかは不明だが、聖観音の涙から生まれたとされ、チベット仏教などで信仰されているターラー(多羅菩薩)と、福建省や浙江省、台湾などを中心とする航海安全の女神、媽祖の信仰とどうやら関係がありそうだ。中国南部からの移民が多いタイの観世音菩薩でも、大船観音でも、五体投地さながらに礼拝している人を見たことがあり、どちらも女性的な観音像だった。ただし、ごく最近、近所に建てられた観音堂の菩薩には耳朶環と口髭がある。仏像の世界には、世相を反映する流行があるようでとても興味深い。

 鎌倉長谷寺の仏足石

 鎌倉大仏

 横浜媽祖廟