2013年1月30日水曜日

江戸時代の水運と車輪

 以前、古地図のおもしろさに目覚め、人文社の古地図ライブラリーのシリーズを四冊ほど買い込んだことがある。最近、江戸時代の船の利用について知りたくなり、またこのシリーズの東海道五十三次や名所江戸百景の本などをめくってみた。  

 広重の代表作、保永堂版の東海道五十三次には、案の定、全55枚のうち船の登場する絵が14枚もあった。ついでに調べてみると、馬のいる絵は21枚、牛はわずか2枚、車輪のある乗り物は大津の牛車1枚しかなく、あとはみな駕籠で担がれるか、ひたすら足で歩いて旅をしていた。いまからたった180年ほど前の江戸後期にである。荷物は馬に括りつけられていることもあるが、ほとんどは人が背負うか、以前の佐川急便のシンボルのように棒の先につけるか、天秤で担いでいる。東海道はかなり整備され、江戸のメインストリートは広かったようだが、日本の街道は馬車や牛車を使うにはあまりにも坂が多かったのか。  

 以前から車輪の歴史に興味をもっていたので、もう少し調べてみると、江戸百景の「高輪うしまち」の絵の解説に、1634年の増上寺安国殿建立時と、1636年の市谷見附の土手の石垣普請の際に京都から呼び寄せた牛持ち人足が、工事後に江戸への定住を許され、泉岳寺の近くに車町、俗称うし町ができたとある。神田明神祭と山王祭りの山車を曳くのも彼らの仕事であったそうだ。広重が描いた御所車に似た巨大な車輪は完全に木造に見える。ケルト族は早くも紀元前1千年紀に車輪の縁に鉄の輪をはめる発明をし、頑丈かつ軽量な車輪の馬車で遠距離を移動したそうだが。  

 大津‐京都間には車石を敷いて牛車が通れる道があり、西日本では犂を使った耕作もかなり普及していたというが、江戸の浮世絵師たちは農耕牛の姿も描いていない。江戸にも「牛込」があるし、霞ヶ浦の近くに「牛堀」もあったようだが、関東に牛は実際どのくらいいたのだろう? ひたすら人力に頼っていたのは、日本に実用的な車輪をつくる技術がなかったからか、役畜がいなかったのか、道路が不整備だったのか、興味は尽きない。  

 陸上の交通がこんな具合なので、江戸への物資の輸送の大半は海、河川、および運河によっただろう。浮世絵には筵の帆や松右衛門帆を掲げて沖合をゆく船や、お台場や永代橋近くの「江戸湊」に投錨する樽廻船などが数多く描かれている。物資はそこから小型船に積み替えられて日本橋や神田川沿いの河岸まで運ばれたそうだ。  

 私は長年、外堀通り付近に通っていたので、神田川の土手は見慣れた光景だが、この部分が江戸初期に神田山を掘削して人工的につくられた掘割であることを地図上で確認したことはなかった。しかも家康が江戸入りした当初は、いまの新橋駅付近から東京駅の南あたりまで海が入り込み、日比谷入江と呼ばれていて、神田山を掘削した残土でここを埋め立てたというのは実に意外だった。ほぼ人力しかない時代に、なぜそんな大事業を急に思いついたのか。その答えは1600年に漂着したリーフデ号らしい。生き残ったウィリアム・アダムズ(三浦按針)とオランダ人ヤン・ヨーステンは家康の顧問となり、大砲や弾薬だけでなく、干拓技術や造船技術、鮮魚を日本橋に運ぶ海運業など、さまざまな知恵を授けたほか、朱印船貿易にも携わり、アユタヤから大量の蘇芳や鹿革をもち帰っている。八重洲という地名はヤン・ヨーステンからくるそうだ。ものづくり大国を自認するのであれば、技術の伝播の歴史をもっとしっかり見つめ直す必要があるだろう。

 御茶ノ水付近の神田川

 横須賀の按針塚

 八重洲口にある ヤン・ヨーステンの碑
車輪の変遷

2013年1月5日土曜日

2012/12/21のあと

「その日はたぶん、なんということもなく過ぎていくのだろう」。5年前、ローレンス・E・ジョセフの『2012地球大異変』という本の訳者あとがきに、私は当時にしては思い切ってそう書いた。世界にはいまも終末思想を信じる人が大勢いて、最後の審判の日に自分が救われることや、メシアが現われて新しい時代が始まることをひたすら信じて生きている。現実の世界に不満をいだく人が増えているいま、ハルマゲドンですべてがリセットされることを期待する風潮は着実に高まっており、それが予言を自己成就させる可能性があることを知ったからだ。日本はこのままでは衰退し中国に侵略されるなどと主張して人びとの不安を煽り、大真面目に核武装を訴える人も、こうした終末思想家に通ずるものがある。  

 もちろん、いまの発展がいつまでもつづき、将来もずっと安泰だと思っているわけでもない。「日本を取り戻す」と言って選挙に圧勝した自民党の第一声は「経済を取り戻す」だったが、経済がすべてのキーワードだった時代はとうに終わっている。自分たちの置かれた環境のなかで持続可能な方向に進まない限り、この先は破綻の道を歩むことは明らかだ。環境収容力を超えたために滅亡した文明は、歴史上いくらでもある。公共事業に集中投資し、日銀に金融緩和を実施させたところで、一時的なカンフル剤で終わるに違いない。  

 昨秋は娘が一時帰国していたためにあれこれ忙しく、締め切りにも追われていたため、暮れには珍しくひどい風邪をひいた。それでも、2012年12月21日は何ごともなく過ぎたし、冬至を境に日没点は少しずつまた北へ戻ってきている。もともと古代マヤの予言は、5200年間の“太陽”と呼ばれる一時代が終わることを意味していたに過ぎない。2012年の終末を信じて大勢の信者を集めていた教団や核シェルターに立てこもっていた人たちは、いまごろどうしていることだろう。  

 年末年始は今年も船橋の母のところへ行って数日を過ごすことができた。母はとくに凝ったおせち料理をつくるわけでもないが、いまも黒豆、きんとん、何種類かの煮物、ごまめくらいは用意し、ベランダで育てている春菊をお雑煮に入れてくれた。暇さえあれば台所に立ち、あちこちを掃除して回っている母は、風呂の残り湯をたらいに汲んで洗濯機に移していた。「こうやって腰を鍛えているのよ」と得意げな母に、「バケツのほうがまだ楽じゃない?」と提案してみた。ポンプなど使う気はさらさらないらしい。  

 元日には近所を十数キロほど散歩した。以前、私が住んでいた場所は分譲住宅が建ち並ぶ新しい街に変わり、記憶では田んぼだった場所は荒地になり、どこもかしこも宅地化が進んでいたが、高齢の母がまだ自分の足でこれだけの距離を歩けるということが、私にはなんともありがたかった。大晦日の日の入りも初日の出も見逃したが、元日の夕方、近所の高層住宅の最上階に母と上り、沈む夕日と富士山を眺めた。意外なことに、船橋のこんな場所から富士山とスカイツリーの両方が見えた。階段の踊り場に写真を撮りにきていた近所のおばさんとひとしきりしゃべり込みながら、オレンジ色に染まる空を眺めた。  

 将来はばら色に見えないし、現実の暮らしも厳しい。でも、とりあえず健康で自立した生活が送れ、日々のちょっとしたことに感動できれば、それだけで充分に幸せだ。極端な悲観論やその逆の楽観論には惑わされず、毎日を大切に生きていきたい。本年もよろしくお願いいたします。
 
 日没点の変化

 船橋から見た富士山とスカイツリー

 取り壊し中の団地(上)と 
 新しい分譲住宅(下)