2002年3月29日金曜日

引っ越し

 3月になって急に暑さが増し、少しでも動くと汗がどっと吹きでていたバンコクから、花冷えのする日本に戻ってきた。残っていた荷物を全部もってきたので、機内に預けた分だけでもふたりで80キロ以上。さらにコンピューターやミニ・オーディオ、娘の鳥の図鑑類をはじめ、50キロほどの荷物を手荷物と称してもちこんだ。タイ国際航空のカウンターのお姉さんが、寛大にも5キロ分の超過料金しかとらず、2000バーツほどの出費ですんだのは本当にありがたかった。  

 カートを使えるところはいいのだが、「手荷物」を文字通り手で運ばなければならない場所では情けない事態になった。幸いこの日、ドンムアン空港には、背中に紐で鞄をくくりつけた新彊からのご一行やら、ベドウィン族のキャラバンと見まごうような人たちもたくさんいたので、私たち母娘も背中にはリュック、首からは左右両方に鞄を下げ、両手に袋、それに傘までもって、目立たないことを願いながらよろよろと歩いた。  

 もちろん、私たちだって荷物を送らなかったわけではない。優雅な駐在員であれば、引越しは業者に頼んでなんでもやってもらえるのだろう。ところが、私のように全部で300キロ程度の荷物だと、どこの業者にも相手にしてもらえない。あるいは、思いっきり高い料金を吹っかけられる。仕方なく、日本を出たときと同じように郵便局を利用することにした。  

 大きなダンボール3箱をもちこむと、イヤーな顔をされ、外で梱包し直せと言われた。行ってみると、郵便局の前にテーブルがひとつあり、そこでおばちゃんがふたり荷物の梱包をしていた。郵便局と契約している業者だろうか。こんな大きな箱は送ったことがないよ、と言わんばかりだったが、それでも手際よく箱をガムテープで補強し、茶色の紙で包み、ぎゅっと紐をかけ、宛名を書くためのマジックまで貸してくれた。これだけのサービスをしてくれて、ひと箱わずか20バーツの梱包料。きれいになったダンボールを、カウンターにもっていくと、郵便局員のおじさんは「ナック(重い)!」を連発し、へっぴり腰で荷物を秤に載せた。もちろん、送料を倹約するために船便だ。  

 2週間後に7箱もちこんだときには、梱包のおばちゃんがさっとタクシーまで駆けつけ、20キロのダンボールも軽々もちあげ、すべてまたきれいに梱包し直してくれた。一方、カウンターにいた郵便局のお兄さんは、なんとしてもその荷物がもちあげられず、動かすたびに恰幅のいい別の局員を呼びつける始末。その様子を見て娘が笑い転げたせいか、普段は無愛想な郵便局員も、しまいにはあきれ果てたような笑みを浮かべていた。  

 タイにいても、日本にいても、基本的には同じような生活をしているので、あまり違和感はないが、30度の気温差はさすがに身体に堪える。船橋の実家でお雛様よろしくあるだけの服を重ね着してコンピューターに向かっていたら、見知らぬ男の人から電話がかかってきた。「あのう、付かぬことを伺いますが、戸塚の郵便局の者ですが……」。タイから小包が7つも着いたが、いつどこへ届けたらいいのか、という問い合わせだった。姉の家に送った最初の3箱も、配達の人がふうふう言いながら届けてくれたそうなので、何度も留守宅に行くのはかなわないと思ったのだろうか。いつでもこちらの都合のいいときに、配達します、と信じられないほど親切だった。辛いことや苦労の多い引越しだったが、本当に天は自ら助く者を助くのかもしれない。行く先々で幸運に恵まれた。