2006年7月31日月曜日

平静の祈り

 先日、家のそばの細い坂道に入ったところで、前方に小学校の一、二年生と思われる男の子が歩いているのが見えた。ふと見ると、泣きべそをかいている。子供と言えど、泣き顔は見られたくないかもしれないと思い、見て見ぬふりを決め込んだ。ところが、その子は私のほうを何度もちらちらと見る。ついに目が合ってしまったので、思い切って声をかけた。「どうしたの?」 
「忘れ物しちゃったんだけど、もう学校に入れないんだ」と、その子は言った。  

 よく聞いてみると、防犯上の理由で、いったん学校をでたら、もう教室に戻ってはいけないことになっているようだ。その日はちょうど金曜日で、大事なものを学校においてきてしまったことが、ひどくショックらしい。どうせ大切な玩具か何かだろう。  

 そんなことで泣く奴がいるか、と喉まででかかった言葉をのみこみ、何食わぬ顔で提案した。「まずお家に帰ってお母さんに頭を下げて、一緒に行ってもらえないかって頼んでみたら? 上級生はまだ授業中だし、お母さんがいればいいって先生も言うかもしれないよ」  男の子は半信半疑で私を見た。 

「それでもダメだったら、あきらめるんだよ。でも、とにかくやってごらん」 おばさんに入れ知恵されて、男の子は笑顔になり、喜んで駆けていった。その後、どういう結果になったかは、もちろん知らない。 

 このとき私の頭に浮かんでいたのは、じつは「平静の祈り」の文句だった。「神よ、われらに与えたまえ。変えられないものを受け入れる平静さを。変えうるものを変える勇気を。そして、両者の違いを見分ける知恵を授けたまえ」 この祈りを最初に唱えたと言われるラインホールド・ニーバーという神学者は、政治にも積極的に関与した人なので、本当はどれだけの人格者だったのかわからないが、少なくとも、この祈りの文句だけは、私の重要なおまじないになっている。 

 世の中にはいろいろな慣習や決まりがあるけれど、それらはしょせん共同体をうまく運営するために誰かがつくったものだ。つくった人があらゆる場合を想定できるわけではないし、時代とともに社会をとりまく事情も変わってくる。どう考えても納得のいかないことだって多々ある。そうした決まりごとは、盲目的にしたがわなければならないものではないし、かと言って自暴自棄におちいってやみくもに破っていいわけでもない。  

 普通の大人なら、「決まりだから仕方ないわよ。忘れ物をしたあなたが悪い」と諭すのだろうか。でも、あきらめきれないものもある。自分に正当な理由があると思えば、大人を説得することだって不可能ではない。そのためには信念も勇気も話術も必要だ。そういったものを、子供のころから少しずつ身につけていかなければ、不満をかかえながらじっと黙っているつまらない人間になるだけだ。ある日、その不満が大爆発することもある。  

 もちろん、あらゆる手をつくしてもだめなこともある。そのときは、その事実を淡々と受け入れる心構えも必要だ。とにかく、精一杯やったのだ。そう思えれば、案外あきらめもつく。難しいのは、いまが「変えられない」状況になったのか、それともまだ「変えうる」状況なのか、判断することだ。それは、子供のころから少しずつ体得していくしかないのだと思う。