2021年6月22日火曜日

『藤岡屋日記』

 4月に鈴木藤吉郎について調べたとき、その事件について書いておられた関良基先生の参考文献が『藤岡屋日記』第8巻となっていたので、この巻を図書館から借りてみた。ざっと目を通してみると、上田藩主の松平忠固に関する記述があちこちにあったので、取り敢えずコピーだけとったものの、その後、忙しさにかまけて長らく私の狭い机に置きっぱなしになっていた。ファイルに片づける前に、気になった箇所だけでもまとめようと、いちばん肝心の忠固の死去時について書かれたところを再読してみた。 

 九月十日 
一 松平伊賀守病気に付、今日隠居仰せ付けられ、嫡子璋之助へ家督仰せ付けらる処、伊賀守、隠居致し候を残念に存じ、怒り忿死致し候よし。 
九月十四日 今卯上刻卒去     
      松平伊賀守忠優 四十八 

 『藤岡屋日記』は「日記」と言っても、日々の出来事を藤岡屋由蔵がその日に書いたわけではなく、方々から入手した情報を書き写してまとめたもので、それを情報として売っていたという。そのためか、9月10日の条に14日に死去した旨が挿入され、次の行は9月11日の条となっている。原本は関東大震災で焼失しており、どういう状態だったのかはわからないが、張紙や下ヶ札がついていたのかもしれない。忠優から忠固に改名してから2年を経ていたが、ここではまだ忠優となっている。情報の出処はどこだったのだろう。  

 水戸藩士だった内藤耻叟がこの9月の出来事として『開国起源安政紀事』に次のように書いた記述が、私の知る限りでは、忠固の最後に関連した上田藩以外の唯一の記録だった。「松平伊賀守隠居す。伊賀守は元老中たり。主として違勅条約に調印せしむる者とす。然れども井伊の為に憎疾せらる。是に至て内諭致仕せしむ」。内藤耻叟は、「内諭致仕」、つまり表沙汰にせず引退とだけ書いており、死亡については触れていなかったのだ。それに比べると、この日記の内容には驚くべきものがある。  

 ざっと読んだときには気づかなかったが、上田側の史料はすべて、死亡日を9月12日としているのに、ウィキペディアをはじめ、ウェブ上の人名辞典などはいずれも、この日記に倣ったのか、14日説を採用していた! 藩主の死をめぐっては諸々の事情から藩内で箝口令が敷かれたらしく、上田側の史料は曖昧模糊としたものしかなく、どちらが正しいのかは不明だ。 『藤岡屋日記』には、病気のため隠居を命じられたことが不満で憤死したという、なんとも釈然としない理由が書かれている。死亡時刻まで「卯上刻」、朝の5時40分と細かいが、上田側に残る史料で時刻に言及したものはまだ見たことがない。藩士を集めて9月4日付の遺言状が11月14日に読み聞かされたと伝わる。  

 忠固は芝西久保巴町の天徳寺に葬られ、その墓標には「今茲九月、以病致仕、伝位於今候、奉朝請、数日編*留遂不起、実安政六年巳九月十二日也、享齢四十有八、其月二十六日葬于都城南天徳寺先塋之次」と記されていた。編*はつくりの上部に不のようなものが付き、先塋は先祖代々の墓の意味のようだ。この碑文には、「奉朝請」と繰り返し書かれているが、何を意味するのか、ちょっと調べた程度ではわからなかった。9月26日には藤井松平家の菩提寺だった天徳寺に葬られたが、このお寺は虎ノ門3丁目に現存するものの、関東大震災後に墓地を縮小したようで、忠固の墓は一時期、多磨霊園に移されたが、いまはそこにもなく、都内の別の墓所に合葬されている。  

 天徳寺にあった墓の碑文は、上田郷友会の月報(大正4年1月号)の「松平忠固公」という特集記事に掲載されていた。上田の願行寺に遺髪と遺歯を納めた墓が、同年11月に建てられており、そこの墓碑にも、ほぼ同様の内容が刻まれていた。少なくとも死亡日は12日だ。 『藤岡屋日記』の一つ前のページには、9月10日の出来事として、松平伊賀守(忠固)の名代の三宅備前守が、「病気に付、願の通り隠居仰せ付けられ、家督相違無く、嫡子璋之助へ下され」云々と書かれている。田原藩主となった三宅康直は忠固の異母兄だが、当時すでに隠居しているので、この備前守は前藩主の息子で、娘婿に当たる三宅康保のことと思われる。上田藩は藩の存亡の危機に際して、田原藩を頼っていたのだ。  

 同日の『藤岡屋日記』には、安政の大獄で左遷された人びとの名前が連なる。木村図書、鵜殿民部少輔、黒川嘉兵衛、平山鎌(謙の誤記か)二郎、平岡円四郎。前月末には、岩瀬肥後守、永井玄蕃頭、川路左衛門尉などの左遷につづいて、安島帯刀–切腹、鵜飼吉左衛門–死罪、池田大学–中追放などの刑罰の情報、水戸の徳川斉昭の永蟄居なども書かれている。  

 この8巻は安政4(1857)年9月から安政6年9月までの記事なので、ちょうど忠固が老中に再任してから没するまでの期間が網羅されている。上田藩が神田小川町にもっていた上屋敷が、松平駿河守(杵築藩)に一時期渡り、それが今度は老中を辞任したばかりの長岡藩の牧野備前守の屋敷となり、西丸下の長岡藩の役宅に忠固が交代で入ったことなどもわかるし、この西の丸下の役宅に「和蘭陀領事官」クルティウスを迎えたときのことなども書かれている。いつか暇になったら、じっくり読むことにしよう。

 虎ノ門の天徳寺 2018年11月撮影

 上田の願行寺にある忠固の墓碑 2019年7月撮影
 
 十二日の文字が読める

2021年6月12日土曜日

『横浜と上海』

 カズオ・イシグロの『わたしたちが孤児だったころ』を読んで上海について調べた際に、以前に図書館から借りた横浜開港資料館刊行の『横浜と上海:近代都市形成史比較研究』(1995年)をもう一度読みたくなり、リクエストしてみた。当時、私の関心はもっぱら横浜の歴史だったので、なぜ上海と並べて論じているのか、あまり気にも留めていなかった。私のお目当ては、斎藤多喜夫氏が書かれた「横浜居留地の成立」という論文で、ちょうど訳していた『幕末オランダ商人見聞録』(デ・コーニング著、河出書房新社)に書かれていたことが、そのまま論文になったような内容に興奮した覚えがある。とくに資料として添付されていた、1860年1月に開港場として横浜を選択することが決定された居留民の集会の議事録は、一見、小説のようなデ・コーニングの回想録が事実にもとづいていたことがよくわかる内容で、情景が目に浮かぶようだった。  

 今回はむしろ上海に関心があったので、口絵の1855年当時の上海租界地図に、「上海」の所以となった城塞都市が大きく描かれ、その横にまだほぼ同面積でしかない租界があるのを見て、思わず声をあげた。横浜も寒村から始まったが、上海も急速に拡大した都市だったのである。  

 本が届いたころにはだいぶ忙しくなってしまい、じっくり読む時間は取れず、大半は斜め読みしただけだが、いくつか気になる点があったので、備忘録代わりにメモをしておく。一つは単純なことで、上海のInternational Settlement、共同租界は、イギリスとアメリカの租界を中心に構成されていて、そこにあとから日本やオーストラリアなども加わったようだ。『Footprints』で言及されていたJ・G・バラードが鉄条網越しに覗いた水田の向こうの光景はFrench Concession、フランス租界(Concession française)で、フランスだけは単独で租界を築いていた。もう一つ、華界と呼ばれた区画があり、一瞬、花街かと思ったが、中国人居住地区だった。  

 わざわざブログに書いておこうと思ったのは、この本に加藤祐三氏の「二つの居留地:一九世紀の国際政治、二系統の条約および居留地の性格をめぐって」という非常に興味深い論文があったためだ。ここにはとくに条約に関連する重要なことが多々書かれていた。上海と横浜は似たような経緯で「開港都市」(treaty port条約港の意味だろうか)になったが、アヘン戦争に敗北して「懲罰」として開港させられた5港の1つであった上海と、「交渉条約」によって開港された横浜では大きな違いがあったという。かりにペリー来航時に水戸斉昭の意見に従って交戦していたら、日本も同じ憂き目に遭ったということだ。「一門の大砲も火を噴かず、いっさいの交戦がなく、交渉のすえに締結された点」が南京条約とは決定的に異なると加藤先生は強調しておられるが、ペリー一行は、空砲をワシントンの誕生日にも条約交渉前にも何十発と撃っているので、この表現はやや違和感があった。  

 南京条約にはアヘン条項がなく、「公然たる密輸」状況を招来した、とも書かれている。アヘンの密輸は1823年にジャーディン・マセソンが福建沿海で最初に成功し、デント商会もそれにつづいた。条約上でアヘン貿易の「合法化」が明記されるのは、第二次アヘン戦争中の1858年に締結された天津条約の付則だという。その後もアヘンの貿易は「順調な伸び」を示したそうだ。  

 一方、日本では、「横浜開港を決めた日米修好通商条約(一八五八年)において〈アヘン禁輸〉が明示され、密輸は存在しなかった。貿易商品は、条約締結時のアメリカ側の期待とは別に、日本からの生糸輸出が主流となった」と、加藤先生も指摘しておられた。アヘン問題を早くから危惧していた佐久間象山は、ハリスとの交渉を前に想定問答集のような上書を作成しており、その草案は川路聖謨や交渉担当者の岩瀬忠震にも届いていたと考えられている。ハリス側の考慮があったのは確かだが、日本側も充分に理解したうえで交渉に臨んだのではないか。生糸に関しては、上田藩が中居屋重兵衛を通じて開港前から着々と準備を進めて売り込んだものだ。  

 日本にイギリス公使として赴任したオールコックが、上海の第2代英領事として1846年に着任し、上海租界の形成に力量を発揮したという指摘もこの論文にはあった。ハリー・パークスも上海領事だった。幕末史は日本の出来事だけを追っていては、とうてい理解できない。  

 加藤先生のこの論文で最も参考になったのは、最恵国待遇条項に関連する箇所だ。「列強の一国が(列強以外の他国と)結んだ最初の条約が他の列強に均霑されること、しかし後続の条約締結国は〈後塵をはいす〉ため、その条約内容は最初の条約以上には決してならない」と、これについては解説されている。均霑(きんてん)は、平等に利益を受けることだ。当時、最恵国待遇は列強間の合意であり、列強にとっては新たに戦争せずに条約上の権益を得られる割安の外交政策だったともある。ということは、日米和親条約に挿入されたこの条項は必然的に片務的になったのではないだろうか。しかも、これは清米間の望厦条約(1844年)、清仏間の黄浦条約(1844年)が締結された際に新しく生まれたものだという。ペリーに随行してきたウィリアムズは望厦条約の締結にかかわっており、この条項を入れたのは彼の発案だった。この条項が片務的であるから、幕府は不平等条約を結ばされたのだとよく批判されるが、当時の世界における日本の地位や、国際条約など結んだこともなかった当時の状況を考えれば、「その指摘は当たらない」とでも言ってみたくなる。  

 上海について調べたつもりが、思いがけず条約に関するよい資料を掘り当てたようだ。またいつか時間ができたら、この本を借りて、その他の論文も読んでみよう。

 1855年当時の上海租界地図

2021年6月1日火曜日

日米和親条約11条&9条問題

 昨年10月に「森山栄之助の弁護を試みる」と題したブログ記事を書いたところ、幕末史がご専門である東洋大学の岩下哲典先生がお読みくださり、論文にしてはどうかと思いがけないお言葉を頂戴し、横須賀開国史研究会をご紹介いただいた。コロナ禍の真っ只中で、とうの研究会に参加したことすらまだないのだが、関係者の方々のご好意に甘えて、このたび『開国史研究』第21号に、「日米和親条約の第十一条問題再考」という、大それたテーマで拙稿を掲載していただいた。「再考」としたのは、10年ほど前にこの研究誌に、第十一条問題に関する今津浩一氏の画期的な論文がでており、今回、それをもう一歩突っ込むと同時に、応接掛の組織的欺瞞という今津氏の結論にも疑問を唱えたためである。  

 昨年末はたまたま本業のほうは校正待ちで、次の仕事も決まっておらず、ふと時間の余裕ができていた。おかげでそれをじつに有意義に活用することができた。岩下先生は原稿の段階でつぶさに目を通してご指導くださり、本当に感謝してもしきれない。関良基先生にも原稿を読んでいただき、貴重なアドバイスを頂戴した。森山の置かれた立場がよくわかるように、今回、アメリカの議会図書館蔵のポートマンのスケッチを使わせてもらったのだが、どうしても読めない手書き文字は、イギリスの知人コリン・カートランド氏がいつもながら解読を手伝ってくれた。  

 オランダ語、中国語、英語、日本語という、4言語で作成された条文の文言を比較し、条約締結までの日米双方の動きを日を追って検証したほか、前後の出来事を中心に時代背景も探った複雑な内容で、ブログに書いても頭には入らないだろうと思うので、ご興味のある方はぜひこの研究誌を当たっていただきたい。  

 論旨だけ手短に書くと、領事駐在について日本側は日米双方が合意した場合のみ可能と考えたのにたいし、アメリカ側はどちらか一方でも必要とすれば可能と理解し、その食い違いは第11条の各言語の文言の違い、つまり通訳・翻訳の間違いを発端としていたという従来の説に、一翻訳者の立場から反論するものである。実際には、四言語で書かれた条文には当然ながら、細かい違いはそこかしこにあった。 「一体、条約の表、一様の文段には候えども、銘々の心の赴く所に随い、解し方も同じからず」と、オランダ語、英語の通訳として交渉に当たった森山栄之助自身が語ったように、日米の条文の違いと言われてきたものも、通訳・翻訳にはつきものの微妙な差異に過ぎない、というのが私の主張である。各言語や法律の専門家に、ぜひ再検討いただきたい。  

 森山がいち早く英語を学んだ長崎時代のことや、応接掛でないにもかかわらず、交渉に深くかかわり、漢文版の条文作成に大きく関与した平山謙二郎という徒目付に関して、論文を提出したのちに判明したことなどはブログにも何度か書いたので、併せてお読みいただければ嬉しい。  

 なお、実際には第11条以上に、第9条の最恵国待遇の交渉経緯により大きな問題があり、にもかかわらずこれまでなぜか誰からも見落とされてきたことを併せて主張した。日米和親条約は、日本が開国に向けて大きな一歩を踏みだした出来事だった。ペリー来航時の幕府首脳部は、蘭書やオランダ商館長からのごく限られた情報から、世界事情や時代の波を理解して無駄な争いを避けた。だが、この条約の締結は幕府の英断としては評価されておらず、むしろ否定的に捉える人がいまなお少なからずいる。その際、不平等条約の事例としてかならず引き合いにだされるのがこの9条なのだ。この条項が公式の交渉の場で一度も論じられることなく条文に滑り込まされた経緯は、日米双方の専門家の目で、よく検証し直すべきだ。そして、初めてのことずくめのなかで、圧倒的な国力の違いを黒船と大砲で誇示する紅毛碧眼の大男たちを相手に、冷静に粘り強く条約締結にかかわった人びとの努力は、当時の状況と照らし合わせて再評価すべきだろう。

 ポートマンが描いた横浜の交渉現場。

『わたしたちが孤児だったころ』

 昨夏に購入したのに、なかなか読む時間が取れなかったカズオ・イシグロのWhen We Were Orphans(2000年、邦題『わたしたちが孤児だったころ』)を、ようやく読むことができた。『Footprints』を翻訳中、戦前の上海で子供時代に日本軍に抑留されていたJ. G. バラードについてあれこれ調べるうちに、カズオ・イシグロの祖父が長年、上海で暮らしていたことや、この小説がその祖父と父の体験をベースに書かれたことなどを知り、衝動買いしたまま積読状態になっていた。  

 私はふだん、新聞の連載くらいしか小説は読まず、彼の作品も四半世紀ほど前に『日の名残り』を読んだきりなので、「イシグロらしい」などと言えるほどには知らない。それでも、この作品も信頼できない語り手が何とも言えない味をだしていて、ところどころ苦笑しながらどんどん引き込まれてしまった。  

 小説家というのは、総じて人間にたいする鋭い観察眼があるのだろうが、彼の場合おそらく、5歳という物心のついた年齢で渡英し、外から客観的に社会を眺める体験を経ているせいか、イギリス人らしさだか、イギリス臭さだかにたいする嗅覚が人一倍鋭い。この作品の主人公クリストファー・バンクスは、20世紀初めに上海の租界で生まれ育ち、両親が行方不明となったために10歳で本国に送られた少年で、イギリス人らしさやロンドンの社交界での名声を苦労して手に入れた人物として設定されている。彼は租界という隔離された世界しか知らずに育ち、自分のアイデンティティを東洋にも西洋にも見いだせないうえに、「孤児」となったためにさらに空虚感に苛まれ、行方不明の両親を探すことが自分の責任であると思い詰め、私立探偵にまでなった。彼の不幸な身の上は読者の同情を誘うのに、追い詰められるとアジア人を罵倒する、西洋人、というか文明人のいやらしさや俗物ぶりを発揮して辟易もさせる。そんな彼の身の上はきわめて特殊でありながら、誰にでもどこか思い当たる節のあるもので、とりわけ現地社会に決して溶け込まない海外駐在員の暮らしぶりを彷彿とさせる。  

 物語は、1930年代のはじめのロンドンと、日中戦争が始まる1937年の上海という2つの時代と場所を中心に展開するが、その間にも子供時代のエピソードが随所に挿入されて時代が前後するほか、最終章は1958年に設定されている。時代や場所が頻繁に変わるのは、信頼できない語り手のあやふやな記憶を中心に話が進むためである。どこまでが事実で、どこからが妄想なのかはっきりしないため、この作品を探偵小説だと思い込んだ読者は途方に暮れるようだ。もっとも、歴史的事実とされることも所詮、人の記憶の産物でしかなく、同じ出来事を同じ現場で見ても、それぞれに解釈が異なることを思い知らされた身としては、イシグロのこの手法には非常に共感するものがあった。  

 1840年代まで、上海は蛇行する黄浦江の西岸の細長い一帯、つまりBund、外灘と呼ばれた地区しかなく、さらに前は断崖上の「海の上」の城郭都市しかなかったことを前述の拙訳書で知った。ここが大変貌を遂げたのは、2度にわたるアヘン戦争によってであり、International Settlement、つまり共同租界が築かれてからなのだ。蒸気船を含む西洋の商船・軍艦数百隻が、無数のジャンクとともに停泊し、城閣のように商館が立ち並ぶ傍らで、中国人が困窮するさまを見て、1862年6月に幕府が派遣の千歳丸による視察団に加わった長州の高杉晋作や佐賀の中牟田倉之助、水夫に扮装した薩摩の五代友厚らが衝撃を受けたことは、よく知られる。アヘン戦争における中国の二の舞を踏むまいという思いが、幕府の対外政策の根底にはつねにあった。西洋の商人は横浜でもBundにsettlementをつくったが、日本ではそれぞれ海岸通り、居留地と呼んでいた。上海と横浜はいろいろな意味でよく似た歴史を経たわけだが、決定的な違いを生んだのは、日米修好通商条約でアヘンの輸入を禁じることができたためだ。中国が1世紀以上にわたってアヘンに翻弄されたのは、ラスト・エンペラーの溥儀の正妃である婉容の悲惨な晩年を考えればよくわかる。  

 物語のなかのクリストファーの父親は、モーガンブルック&バイアットというアヘン貿易を主とする架空の商社に勤めており、母親はその事実に胸を痛め、反アヘン運動に奔走していた。イシグロは、本当はジャーディン・マセソン商会の社員にしたかったのかもしれない。同社の会長トニー・ケジックも暗示的に名前だけちらりと登場する。アヘン戦争の原因となったアヘン貿易の主な担い手は、ジャーディン・マセソンとサッスーン商会だった。トニーの祖父であるウィリアム・ケジックは、1859年7月5日、横浜開港のわずか4日後に来日し、居留地1番地に英壱番館と呼ばれた拠点を築いた。その後、横浜の支配人はサミュエル・ガワーに代わったが、井上薫や伊藤博文ら5人の長州藩士がイギリスに密航した際には、たまたま訪日していたケジックが断髪・洋装などの便宜を図り、イギリスに送りだしている。孫のトニーは1903年、横浜生まれだ。  

 小説では、1937年にフィリップおじさんという人物が、アヘン貿易についてこう説明する。アヘンを奥地まで運ぶには護衛が必要であり、そのため「モーガンブルック&バイアットもジャーデン・マセソンもみんな、積荷が通る地域を支配している地元の軍閥と取引をしていた。これらの軍閥というのも、実際は成功した盗賊にすぎなかった」(入江真佐子訳)のだと。この軍閥が、クリストファーの母の失踪と関係していた。失踪事件はクリストファーが10歳のとき、つまり1911年前後に起きたが、ちょうどこの年の12月にハーグで万国阿片条約が締結され、アヘン貿易は違法となった。しかし、フィリップおじさんが説明するように、アヘン貿易の廃止は実際には、「貿易の担い手が変わっただけのことだったんだよ。今では蒋介石の政府がそれをやっている」のだった。アヘンは資金源として利用されつづけたのだ。 

 イシグロは単に小説の背景として、この時代の上海を選んだのかもしれないが、構想を練る段階で、自分の祖父と父が暮らした上海について入念に調べたのは間違いない。週刊現代に掲載された彼のいとこのインタビュー記事や、北海学園大学の森川慎也准教授の「祖父と父からイシグロが受け継いだもの」(2020)という論文を参考にすると、祖父の石黒昌明氏は、1905年に上海の東亜同文書院というエリート養成学校に入学し、その後、伊藤忠商事に入社して、上海支店の支店長まで務めた人だという。その後、労働争議の引責で退社し、トヨタ紡績の前身の会社の取締役となり、長らく長崎と上海を行き来していたそうだ。父の鎮雄氏は1920年に上海で生まれ、7歳で長崎に移住したが、学校の休みには上海に戻るという生活だったようで、小説に登場するクリストファーの幼馴染のアキラは、こうした祖父・父の上海時代から生みだされた人物と言える。1960年にイギリス国立海洋学研究所に招聘された海洋学者である鎮雄氏は、1981年に母の葬儀で帰国した際に、上海時代のアルバムをイギリスにもち帰ったそうで、この小説の構想はそのアルバムから芽生えたものと言えそうだ。鎮雄氏は、帰省した折に長崎中央図書館で古い上海の写真や地図をコピーし、日本語の読めない息子のためにキャプションを英訳してやったのだという。クリストファーは両親からパフィンと呼ばれ、可愛がられて育つが、イシグロもそんな幸せな幼少期を送ったのではないかと、論文に転載されていた祖父との写真を見て思った。  

 イシグロの作品をオーディオブックで何冊か読んでいる娘は、昨夏、私が図書館で日本語版を借りた折に一気に読み、違和感のない翻訳だったと感想を述べていた。私は購入してあった原書を読んだので、あとで邦訳版と比べてみると、原文のうまい表現や微妙なニュアンスが生かされていないと感じるところが散見された。  

 なかでも気になったのは、アキラの会話だ。原文では彼の英語は子供時代も、成人してからもたどたどしい。両親の仲が気まずくなり、会話が途絶えることがあるのは、自分たちが租界で生まれ育ち、いわば根無し草であるせいだとアキラ少年が想像をたくましくする場面は原文ではこうなっている。

 ‘I know why they stop. I know why.’ Then turning to me, he said: ‘Christopher. You not enough Englishman.’ 
「どうしてきみの親が話さなくなったのか知ってるよ。ぼくにはなぜだかわかる」そう言ってからわたしのほうに向き直り、こう言った。「クリストファー。きみにはイギリス人らしさが足りないんだよ」(入江訳)  

 文意は確かにそのとおりだが、原文のたどたどしさは伝わらないし、10歳の子供のセリフにしては、「イギリス人らしさ」という言葉はやや高度だ。私なら「きみ、うんとイギリス人じゃない」程度にしたい。  

 ところが、1937年に再会したときのアキラの会話は、やや原文に近くたどたどしく訳されていて、何やら別人の印象を余計に与える。アキラと別れたあとで長谷川大佐という日本の将校に、先ほどまで一緒にいた日本兵は、以前に知り合ったのかと聞かれて、クリストファーはこう答える。

 ‘I thought I had. I thought he was a friend of mine from my childhood. But now, I’m not certain. I’m beginning to see now, many things aren’t as I supposed.’  

 入江訳は「彼のことを幼友達だと思っていました」としており、そのためか大多数の読者はアキラとの再会はクリストファーの勝手な思い込みだと解釈しているようだ。実際、この前後の状況はあまりにも唐突な展開で、読者は語り手についていけなくなり、アキラとの再会は彼の想像の産物だとする説明が英語の解説や書評にも多い。  

 だが、アキラとの関係はおそらく子供時代から、言葉の問題もあってクリストファーが一方的に解釈していたことの連続だったのではないか。長谷川大佐の問いにクリストファーはただ、あの日本兵は昔からの知り合いで、子供のころからの友達なのだと思っていたと答えたのかもしれない。つまり、人違いしたわけではなく、アキラを友達だと思っていた事実に、自信がなくなったのだと。  

 まあ、一読したくらいでは、カズオ・イシグロの描く複雑な世界は半分も理解していないかもしれないが、おかげで上海の租界の暮らしや、アヘン貿易の実情は見えて気がする。上海の地図が頭に描けるようになったら、またいつか読み直してみたい。