2020年9月19日土曜日

追補その1:勝海舟と堀直虎

 どんな本でも、間違いの1つや2つはかならず見つかるものだが、先日、発売された拙著『埋もれた歴史:幕末横浜で西洋馬術を学んだ上田藩士を追って』は、本来ならば歴史学者に監修を頼みたいほどの内容なのに、校正をお願いする費用すら捻出できなかったため、入稿後に間違いがいくつも見つかった。いずれ正誤表でもだしたいところだが、 取り急ぎ恥ずかしい漢字の間違いを訂正させていただきたい。勝海舟の伯父の名前は正しくは男谷彦四郎(拙著p. 123は彦太郎になっている)であり、田原藩の砲術家は村上範致(同p. 166は範到になっている)だった。

 勝海舟の伯父さんなど、私の興味の対象でなかったのが大きな原因だが、つい最近読んだ『将軍慶喜を叱った男 堀直虎』(江宮隆之著、祥伝社)から、この人の婿養子である男谷信友が、幕末の三大道場を開いていた斎藤弥九郎、桃井春蔵、千葉周作のさらに上をゆく人物で、竹刀試合を奨励した直心影流を名乗る「剣聖」であったことを知り、調べ直して誤記を発見したのだ。信州の須坂藩主となる堀直虎は、この信友の道場に通ったという。信友は生まれが1798年なので、1823年生まれの勝海舟とは世代がずれているが、系図上では従兄弟、血縁でも又従兄弟の間柄らしい。

  勝海舟は墨田区の木母寺で剣の修行に励んだという記述をどこかで読んだ記憶がある程度で、あまり剣士のイメージはなかったが、信友の弟子のもとで学んだようだ。こうした道場は私塾と同様、藩などの垣根を超えて若者を結びつけていたので、勝の幅広い人脈には剣術の世界も一役買ったかもしれないとふと思った。調査の過程で陰惨なテロ事件について知ったのち、何が人をテロに駆り立てるのかに興味をもち、水戸や薩摩だけでなく、浪士関連の書物をいくつか読んだ。千葉周作に学び、清川八郎の虎尾の会にもいた山岡鉄舟と、やはりその会のメンバーでヒュースケン暗殺犯の一人である薩摩の益満休之助を勝が再会させ、それが江戸城無血開城を実現させたといくつかの本に書かれていた。実際に勝がそうした離れ業をやってのけたのだとしたら、剣術の世界での彼の地位のようなものが役立ったのかもしれない。勝の妹で、佐久間象山の妻だった順子が、象山が暗殺されたのちに、虎尾の会メンバーだった村上俊五郎と再婚というかなり不可解な行動を取ったことも、こういう背景を考えればわからなくもない。もっとも、剣の達人で知られた山岡鉄舟は、一度も人を斬ったことはなかったと言われる。彼の知行地であった埼玉県小川町には、小川和紙を売っているその名も門倉商店という店があり、そこを訪ねがてら鉄舟が好んだという「忠七めし」を姪たちと食べたことがある。

  堀直虎のこの小説には、直虎の親友だった土佐新田藩の山内豊福についても詳しく書かれていた。幕府と本藩の板挟みとなって豊福と妻が自害し、あとに娘二人が残されたことは知っていたが、この本を読んでその経緯がよくわかった。堀直虎も「慶喜を叱った」あと、江戸城内で自害した人であり、その妻は上田の松平忠固の娘の俊子だった。後年、俊子の弟の忠礼がアメリカから帰国後に先妻と別れて、再婚した相手が、山内豊福の遺児の豊子だった。山内家と縁組した理由がようやく理解できた気がする。ただし直虎に関しては、以前に『維新の信州人』で読んだ青木孝寿氏の短い論考のほうが、小説仕立てでない分、私には参考になった。どちらにも、須坂藩の丸山という家老が登場し、佐久間象山に馬を手配した人が確か「須坂の丸山という人」だったなあ、などと思いだす。

『庶民のアルバム 明治・大正・昭和「わが家のこの一枚」総集編』に掲載されていた山内豊子

2020年9月14日月曜日

埋もれた歴史:幕末横浜で西洋馬術を学んだ上田藩士を追って

 ある日、グーグル検索で見つけた一文の謎を解こうと、元来飽きっぽい性質の私が足掛け6年間、調べ、書き、やっとの思いで本の形にしたものを、このたび『埋もれた歴史:幕末横浜で西洋馬術を学んだ上田藩士を追って』(パレードブックス)として、わずかばかりの部数ながら自費出版した。
  
 その一文は、幕末に信州上田を訪れたウィリアム・ウィリス医師が、偶然そこで出会った高祖父の名前を書き留めておいてくれたもので、これを手がかりに元禄時代まで祖先をたどり、幕末に生きた高祖父に関しては写真まで探り当てた。上田藩の馬役だった高祖父は、佐久間象山のもとで学び、幕末の転換期に老中を務めた上田藩主松平忠固に仕え、イギリス公使館付騎馬護衛隊長アプリン大尉のもとに通って西洋馬術を学んでいた。

  筆文字の古文書から当時の新聞記事や日記まで、国内外の多数の文献や古写真に当たり、足で歩いて現場を確かめた結果、歴史の定説がいかに間違っていたかがわかり、増えつづける疑問が原動力となった。一次史料を多く用いた考察で、すらすら読める内容ではないが、専門の研究者だけでなく、歴史散歩の愛好者や、祖先探し、古写真、馬・馬術に関心のある方にも読んでいただきたい。

 経費を切り詰めるため、インデザインを独学し、自前の校正による完全データ入稿という形をとったため、完璧とは程遠い仕上がりとなった。カバーには、江戸時代に上田藩の財源となっていた伝統的な上田縞紬の画像と、最後の藩主松平忠礼と筆者の高祖父の写真を使わせていただいた。カバーデザインは、娘で絵本作家の東郷なりさが、本書が少しでも「埋もれないように」、題字のなかに高祖父が打っていたはずの蹄鉄と、馬の尾、および上田の生糸を入れてくれた。(娘のブログ記事はこちら。)江戸時代まで日本の馬はわらじを履いていたので、西洋馬術を始めるには蹄鉄を打つ必要があった。

 歴史家は通常、過去のおもだった事件をつなぎ合わせるため、歴史全般を勝者の視点から語りがちになる。さもなければ敗者を悲劇の英雄として、人の琴線に訴えるドラマを描く歴史小説的なアプローチとなる。翻訳の仕事を通じて考古学や人類学、生物学、地理学、経済学など、歴史以外の分野に触れることが多い私からすれば、勝者であれ敗者であれ、歴史は少数の人間だけが動かしたものではない。歴史とは、偉人や英雄だけが活躍した物語ではなく、自分たちの無名の祖先たちもその時代を生きて、何かしらは考え、そこに関係していたはずのものなのだ。祖先や郷土史を調べ、忘れられた大勢の人びとについて調べることが、ひいては国の歴史だけでなく、世界の歴史も知ることにつながるはずだということを本書は微力ながら提言する。

  祖先探しをしたい一般の読者には、研究機関に所属しない一般人であっても、現在はインターネットや図書館などを通じて多くの史料が公開されていて、素人でも博物館や資料館の所蔵品の閲覧は可能であることを示し、どうやって調査を進めたかを伝えたい。

2020年9月13日日曜日

地球を支配する水の力

 8月下旬には、セアラ・ドライ著、『地球を支配する水の力:気象予測の謎に挑んだ科学者たち』(河出書房新社、原題はWaters of the World)が刊行された。コロナ禍のストレスの多い日々のなかで、締め切りと闘いながら仕上げた。

 水がテーマの本だが、これまで私が訳したフェイガンの『水と人類の1万年史』やC. バーネットの『雨の自然誌』(いずれも河出書房新社)よりは、水蒸気や海流としての水であり、気候科学の歴史に近い本だ。ただし、著者は科学者でもジャーナリストでもなく、科学史を専門とする歴史学者であり、19世紀から20世紀にかけての主として6人の科学者の伝記に近い形で構成されている。気象学と海洋学に関するものが多く、もちろん数式はでてこないが、物理にめっぽう弱い私は、太陽スペクトルだの、積乱雲、海洋渦のエネルギーに関する部分はかなり苦労した。

  カート・ヴォネガットの『猫のゆりかご』の背景にあった雲への種まき実験については、以前に訳したことがあったが、広島と長崎への原爆投下のあと、人間が自然に甚大な影響を与えうることが明らかになり、こうした大気圏実験が不可能になり、それがコンピューターによる模擬実験に取って代わった経緯を本書で知ると、今年になって大きく取り上げられている「黒い雨」の問題との関連を思わずにはいられない。ただし、1963年に部分的核実験禁止条約が締結されるまでに、合計で500回もの大気圏実験が行なわれたのちのことであるのを、現在取り組んでいる仕事から知った。

  個々の科学者たちの苦労話や功績はそれぞれ感動を呼ぶものだが、気候科学の直面する難題はあまりにも大きく、多分野にまたがる巨大な国際組織となったIPCCのなかで、一人ひとりの科学者の存在は埋もれつつあるという時代の変遷を知ったことが、個人的には本書からいちばん学んだことだった。科学とは何か、科学には答えがだせるのか、といった究極的な問いかけが心に残る。

  原書はご覧のとおり、ギリシャ神話の世界を思わせる素敵なイラストだったが、邦訳書はちょっと既視感のあるブルー・マーブルだ。でも、私たちが球体としての地球を意識するようになったのは、アポロが月に行って以来のことであり、本書ではグローバルという、いまではありふれた言葉になった英単語の意味をもう一度考えてもらうために、敢えて「全球的」という重たい訳語を使ってみたりもした。

  たとえ一時的に豪雨や酷暑に見舞われても、しばらくすると快適な日々が戻ってくる日本では、どうも一般人は気候問題を突き詰めて考えたりしないようだが、科学者たちが何を考え、どうやって地球温暖化の事実を突き止めたのか、本書を読んで考えてくれる方が増えたらと願う。この問題の入門書というよりは、多少は気候科学について読んだことのある方向けかもしれない。

 
    8月30日の夕方に見たかなとこ雲
本書に登場する唯一の女性科学者のジョアン・シンプソンが積雲の研究をするために、みずから雲のなかに飛行機で入ってしまう人だったので、雲を見る目がすっかり変わった。いわゆる大気の大循環に積乱雲がとてつもない量の熱のエスカレーターの役目をはたし、赤道の熱を極地に運んでいるのだとか。

2020年9月12日土曜日

書評:『日本を開国させた男、松平忠固』

 ペリー来航時とハリスとの条約締結時に、二度にわたって老中を務め、日本をいわば強引に開国させた上田藩主、松平忠固について書かれた事実上初めての歴史書だ。著者は上田藩士だった赤松小三郎を研究してきた拓殖大学の関良基教授。ご専門は歴史ではなく環境問題だが、上田のご出身で、上田高校OBとして幕末史の研究をつづけておられる。

『日本を開国させた男、松平忠固:近代日本の礎を築いた老中』(作品社)という本書のタイトルはかなり刺激的だが、当時の政敵が書き残した多数の史料を読みあさった結果、私も同じ結論に達した。現代の日本の政治を見ていて、なぜこうも意思決定が明快でなく、リーダーがちっとも指導力を発揮していないのかと歯がゆい思いをしている方は、幕末からよく似た状況であったことに妙に納得するものがあるかもしれない。譜代大名の老中は、明治維新を推進した側からすれば、倒したい敵の筆頭だ。老中はみな似たような名前の、顔の見えない無能の権力者集団のように描かれて、不平等条約から金貨流出問題まで、幕末史の汚点のすべての責任を負わされてきたが、本当にそうだったのか。井伊直弼や岩瀬忠震が本当に開国の功労者なのか、本当に不平等条約だったのか、松平慶永は本当に開明的な大名だったのか。少しでも史料を読めば、誰にでも浮かんでくるはずの諸々の疑問を、本書はこれでもかと読者に突きつける。

  関先生とは研究会で知り合い、3年前に上田で開かれた忠固のシンポジウム以降、忠固に関する史料についてたびたび情報交換をさせていただいた。上田に残る「忠固日記」の画像データも頂戴しながら、読めない筆文字に加えて、画面いっぱいに広がる虫食いの跡に、私は解読を諦めざるをえなかったが、本書にはその一端が紹介されている。研究者の伝をたどって協力を仰がれたとのこと。

  祖先探しから始まった私の調査記録を本にまとめるに当たっても、関先生からはひとかたならぬご助力をいただき、拙稿を読んでいただくことから、この新著を原稿段階で読ませていただくことまでお世話になった。しかも、あとがきに当時まだ未刊の拙書まで、長い書名を明記して宣伝してくださるというありがたさ。本書で松平忠固の名が少しでも社会に浸透すれば、私が自費出版する本が、無名の君主に仕えた無名の祖先の話にならずに済む。そのことだけでも、充分にありがたかった。

 ちなみに、忠固は「ただかた」と読む。私の原稿を読んでくれた母は、いつまでも「ちゅうこ」と呼びつづけていたが(苦笑)。忠固の容貌は知られていないので、表紙の肖像画は近親者の写真等からの想像図とのこと。彼の息子・娘たち、異母兄、姪、甥の息子等は写真や肖像画が残っており、その誰もが細面で高い鼻、左右に突きだし気味の大きな薄い耳の持ち主で、揃いも揃って美形なので、17歳で姫路藩から上田藩に養子入りして藩主になったころは彼もこんな顔だったかもしれない。 多数の史料画像や写真を盛り込み、本来の理系研究者らしく図表も使った作りになっているので、本格的な歴史書だが、幕末史に興味のある方には刺激的な内容になると思う。ぜひお読みいただきたい。 


  気が抜けて仕事にならなかった日に、封筒の裏につい描いて見た私なりの忠固想像図。「癇癖の強そうなやや蒼白な顔、右眼は故障があって少し鈍いが、そのぶんまで左眼は鋭く光り、体躯は頑丈とは云えぬが精悍の気あふれている」と、『あらしの江戸城』には書かれていた。

科学の人種主義とたたかう

 長らく拙訳書について書ける媒体がフェイスブックしかなく、このブログを開設したことでようやく、本年5月末に刊行されたアンジェラ・サイニーの『科学の人種主義とたたかう:人種概念の起源から最新のゲノム科学まで』(作品社、原題:Superior: The Return of Race Science))について、一般向けに発信することができるようになった。

  前作のフェミニズムの本、『科学の女性差別とたたかう』の原題がInferiorだったので、対のような題名だが、内容的にはこちらのほうがさらに突っ込んだものと言えるかもしれない。インド人移民の子としてロンドンで生まれ、石を投げられこともある著者が、「10歳のときから書きたいと思っていた本」だったことを最後に知ったときには、思わず胸が熱くなった。


  すでに7月26日付の赤旗日曜版では早稲田大学の塩田勉名誉教授が、8月1日付の日経新聞では東京大学の進化学者の佐倉統教授が、それぞれによい書評を書いてくださったが、このたび9月12日付の朝日新聞でも、同じく東京大学の社会学者である本田由紀教授が、本書の論点を簡潔にまとめてくださった。

  この作品が問いかける問題の甚大さが日本でも徐々に理解されてきたのか、少し前にめでたく重版になった。しかし、ジェンダー問題を扱った前作と比べて、本作への世間の反応は鈍いように思う。ブラック・ライヴズ・マター(BLM)に象徴されるような人種問題は、日本では他人事なのだ。社会のなかにいる異質な人の数がごくわずかなときは、珍鳥のごとく、好奇の対象になるか、ちやほやされるからだ。「彼ら」の数が増えて目立ってくるようになり、「われわれ」の利害とぶつかり合うようになって初めて、人種問題は生じてくる。だから、日本では人種主義者が黄色人種として一括りにする人間同士のあいだで類似の社会問題が生じ、二言目には国籍の話になって終わり、かたや他国の話になると「人種差別はいけない」という道徳の話にすり替わる。

  だが、レイシズムは人種差別主義なのだろうか? 著者サイニーによれば、raceという言葉の起源は確認される最古の使用例でも16世紀で、人種を形質のように記した最初の書は1758年刊行のリンネの『自然の体系』だとする。明治初めに西洋文明を吸収するなかで、確立された事実として西洋人から教えられた人種の概念を鵜呑みにしてきた私たちにとっては信じ難いことだが、人種の定義は科学的には少しも定まっていない。レイシズムとは、人種という科学的根拠のない概念を後生大事に掲げて、人間を何かとカテゴリにーに分類し、それによって階層化を図る主義、という意味ではないのか。そう考えるにいたって、あまり馴染みのない訳語ではあるが、人種主義という言葉を本書では採用した。

  議論の前提に含まれた多くの偏見を見抜く著者の鋭さは格別で、インタビューを受けた偏屈な人種主義者だけでなく、デイヴィッド・ライクのような超一流の遺伝学者もたじたじとなっていた。人種科学が復活の兆しを見せている現在の風潮に、資金源を追及しながら立ち向かう彼女の姿勢には、ジャーナリストとしての気迫を感じた。

2020年9月10日木曜日

ブログ開設のお知らせ

 20年近く、翻訳グループ牧人舎のホームページに「コウモリ通信」として月に一度エッセイを書いて参りましたが、2019年10月にグループが解散しまったため、ようやく重い腰を上げて自分のブログをつくることにいたしました。

 今後は不定期の発信になりますが、拙訳書のご案内や、このたび自費出版しました初めての著作に関連した記事をはじめ、これまでどおり多岐にわたる雑多なテーマで備忘録代わりに書いてゆくつもりです。ときおり覗いていただければ幸いです。