2017年4月29日土曜日

古写真と生麦事件

 先々月のエッセイを書いた際に、たまたま見つけた古い写真のサイトの管理者と、その後もやりとりがつづいている。彼女がどれだけ古い写真を専門にしているのかはわからないが、フォトヒストリアンなる仕事があるらしいことも初めて知った。古い写真には確かに驚くほどの情報が込められている。何かヒントがあるのではないかと思い、図書館から『甦る幕末』(朝日新聞社)というライデン大学収蔵の古い写真をまとめた写真集を借りてみた。お目当ての人物はあいにく見つからなかったが、何点か非常におもしろい写真を見つけた。 

 なかでも画期的だったのは、表紙にもなっているフェリーチェ・ベアト撮影の生麦事件の現場写真だ。もちろん何度となく見ている写真なのだが、見開き一面に高画質で印刷されていたので、正面の掘っ立て小屋に書かれた「松」のような文字まで読みとることができた。この写真は東海道に立つ数人の人物と街道沿いの家屋が画面の左側にあり、中央に大きな松の木があって、右半分は田園風景が広がるやや奇妙な構図になっている。初めて見る写真機と西洋人に好奇心のほうが勝ったのか、ポーズを撮るように棒立ちになった侍と足軽(1人は日傘までもって!)や、物陰から覗く村人がおかしいので、よく左側を中心にトリミングされてしまっているが、写真家の意図を察するに、ベアトが本当に撮りたかったものは小屋の裏側にある農地だったのだろう。そこにリチャードソンの遺体が遺棄されていたからだ。事件当時、ベアトはまだ来日していないので、1863年5月以降、おそらくは秋に同行者が現場を教えたのだろう。  

 この場所は、斬られたリチャードソンが数百メートル馬で走りつづけたあと力尽きた、甚五郎女房ふじの水茶屋付近だと考えられる。落馬後に、彼は数人の薩摩藩士に畑のなかへ引きずられ、そこで滅多斬りにされて放置された。1883(明治16)年になって鶴見神社の宮司だった黒川荘三氏が、地元の人から事件現場を教えてもらい、そこの土地を購入して慰霊の石碑を建てた。キリンビール横浜工場の近く、第一京浜から旧東海道に入るために横道に入る手前にその石碑はあったが、首都高の横浜北線の工事現場となったため、ここ数年、200メートルほど旧東海道に入った場所に石碑は移されていた。  

 生麦事件は謎だらけの複雑な事件で、これまでに何冊もの本が書かれ、多くの人がその真相に迫ろうと試みてきた。しかし、当時のさまざまな史料を読み直し、実際に現場を歩いてみると、実際には誰もが見落としてきた重要な点がいくつもあることに気づく。昨年、それまでに調べたことをまとめて、生麦参考館を訪ねた。というのも、詳細は省くが、私の推論では、リチャードソンの遺体発見現場は、明治以来の碑が設置されていた場所ではなく、むしろ仮設場所に近かったからだ。工事が終わったら、碑は元の場所に戻される予定となっていたので、館長には一応その旨をお伝しておきたかった。土地の問題もあるので元の場所に戻したとしても、井土ヶ谷事件碑のようにせめて、実際の現場はどのあたりかを明記できたらいいと思ったのだ。  

 その後、あまりに本業が忙しく、生麦事件のことはなかば忘れかけていたのだが、ベアトの拡大された写真を眺めているうち、ふと気がついた。侍たちの足元に影が延びていることに。松の大木の影も畑側に延びている。撮影時間がわからないので、影がどの方向を指しているかは定かではないが、南でないことだけは確かだ。ところが、もともとの石碑の場所が遺体発見現場だとすれば、道の南側に畑があったことになる。侍の刀の位置からも小屋の文字からも逆版でないことはわかるので、この写真は川崎側を背にして撮影されたのだろう。実際の落馬地点と私が推理した場所は、目撃記録のある桐屋源四郎の店を過ぎて、生麦の1840年代の史料では道の南側に茶屋が並んでいた松原の付近だ。彼が最初に斬られた地点は、一般に言われる豆腐屋の村田屋勘左衛門の前よりも、さらに100メートル近く川崎寄りだったので、途中そこでもう一度斬りつけられて瀕死の重傷を負いながら、この付近まで馬上にしがみついていただけでも奇跡的だ。江戸時代までこの一帯は海岸線がすぐそばまで迫っていたので、田畑はいずれも道の北側にあった。南側には、あったとすれば家庭菜園くらいのものだろう。影の方向の発見は、私がこれまで推理してきたことを裏づけるもう一つの強力な証拠となった。これぞモノが語る歴史だ。  

 もちろん、生麦事件をめぐる大きな謎とくらべれば、事件の詳細はそのごく一部に過ぎない。事件を少しでも調べた人は、ここに歴史の大転換点があったことに驚かされる。この事件がなければ明治維新は起こらず、日本の近代化が別方向に進んだ可能性すらあるのに、明治16年にはすでに遺体発見現場がうやむやになるほど事件は風化し、生麦の遠浅の海岸は埋め立てられていった。1911年の碑の写真の背後には空き地が広がって見える。事件の詳細についてはあらかたわかったので、今後はその背景に的を絞って、明治維新とはなんだったのかをもう少し探ってみたい。何よりもまず、足元やパソコン内や私の頭のなかに、集め過ぎた大量の資料を整理する時間が欲しい。脳のバッファーに入ったままのごちゃごちゃデータでは、二度と引きだせなくなりそうだ。 

***  長くなったが最後にもう一つ、宣伝を。昨年3月に出版された拙訳書『エンゲルス:マルクスに将軍と呼ばれた男』(筑摩書房)が1年以上かけて、このたびめでたく重版されることになった。読んで、批評してくださった方々に感謝したい。著者トリストラム・ハント氏はブレグジット後の労働党に限界を見たのか、年初にヴィクトリア&アルバート博物館の館長に転職した。時代を先駆けて生き、民主化に期待するたびに失望させられたエンゲルスの人生を書き尽くした彼は、我が身を重ねているのだろうか。重版を機にぜひご一読を!