2011年4月30日土曜日

震災に思うこと

 もうだいぶ昔のことだが、八ヶ岳の赤岳を編笠山からキレット経由で登るという無謀な計画を立てて、あまりの険しさに立ち往生したことがあった。小学校2年だった娘と60歳近い母を連れた山行だったので、運よく通りかかった頂上小屋の管理人さんに、「夕方までにたどり着けなかったら、捜索にきてください」と、お願いしてみた。ところが、「山に入ったら、人に助けてもらおうなんて思うんじゃない」と言われ、頭を殴られたような気分になった。引き返すこともできず、平均斜度35度という、下を見ると気が遠くなるようなガレ場を何時間も登りつづけ、日も暮れるころに疲労困憊して頂上に着いた。私たちの到着に気づいた管理人さんは一瞬にやっとしたが、何も言わなかった。頂上から見た日の入りは格別だったが、それにも増して管理人さんの言葉は忘れられないものとなった。  

 キレットからの登りがどの程度の難所かは、ガイドブックを読めばきちんと書いてある。ろくに調べもせずに勝手に登ったのは私たちなのだ。どんなリスクがあるのか前もって把握し、それでも行くのかと自問すべきだった。この山行で親は当てにならないと悟った娘は、それ以降はふりがなを振ってもらいながら、自分でガイドブックを読み、地形図を丹念に調べるようになった。  

 個人的な山登りの体験と、今回の震災をくらべることはできないと思うが、被災地がいずれも危険と隣り合わせで暮らしていたことを考えると、どこか似ているような気がする。生き延びるためには結局、自分で調べ、判断し、行動するしかないのだ。昔から津波被害に遭ってきた三陸地方では、「津波てんでんこ」という教えを子供たちに徹底して教えていたため、下校中の小学生が自分たちの判断で高台を目指して一目散に走り、おかげで助かったという記事を何度か目にした。結局、いざとなれば自分の身は自分で守るしかない。それでも、自然が相手の場合は運しだいだ。ほんの数分、数秒の差で命を落とした人は大勢いるのだろう。自分はもういいから、おまえだけが逃げろと言って、波にのまれていったお年寄りもいたという。大津波であれだけ被害を受けても、漁師たちはまた海にでていく。厳しい自然のなかで生き抜くというのは、こういうことを言うのだろう。  

 一方、日常生活を唐突に奪われ、最低限の衣食住をあてがわれ、プライバシーのない生活を長期にわたって余儀なくされている人たちはストレスをためている。こうした状態が長引けは、体調を崩して落ち込み、理性を失って八つ当たりしたくなるのは仕方がない。同じことは、震災以来、緊張の連続を強いられている現場で働くさまざまな人びとや、政府や報道関係者などにも言える。差し迫った危険が少なくなったいまは、抑えていた不満が方々から一気に吹きでているように見える。  

 それでも、いがみ合い、責任をなすりつけ合えば、ストレスはさらに増し、冷静になれば対応できたはずのことすら進まなくなるばかりだ。原発という危険が日本の各地にあって、そこで発電された電力を使って日々、エスカレーターに乗ってはルームランナーで走るような生活をつづけていることは、少し考えれば誰にでもわかることだ。本当にこの危険を受け入れるのか、いざというときはどう身を守るのか、子供やお年寄りを含め、誰もが真剣に考える必要がある。ころころと政権の変わる政府や、一私企業でしかない東電に責任を追及してみたところで、しょせんわずかな賠償金をもらえるに過ぎないのだから。