2019年4月29日月曜日

『科学の女性差別とたたかう:脳科学から人類の進化史まで』

 先月『科学の女性差別とたたかう:脳科学から人類の進化史まで』という拙訳書が作品社から刊行された。コウモリ通信で何度か、フェミニズムと科学の本と書いてきたのがこの作品だ。著者、アンジェラ・サイニーは、二歳児を育てながら取材や執筆活動をこなす若い女性科学ジャーナリストだ。インド系イギリス人である彼女は、工学者の父親の影響もあって自然とリケジョになったようだが、インド、イラン、中央アジアなどは女性の科学者や工学者の割合が欧米諸国よりも高いのだという。女性を隠すパルダの習慣が根強い地域にしては意外な事実だ。 私は自分の世界を広げるために、ジャンルを特定せず、多くの分野の翻訳に取り組んできたつもりだが、フェミニズムもジェンダー論もじつはこれが初めてだった。縁がなかったというよりは、敬遠していたのかもしれない。

 今回の本はフェミニズム特有の言葉が当然ながら多く含まれ、女性の会話文も多かったため、訳語をめぐっては編集者と三校の最後の最後までバトルがつづいた。フェミニズムをどう思うかは、思春期や学生時代をいつどこで過ごしたのかで、大きく左右されるのではないだろうか。

 改めて考えてみると、私は『メリー・ポピンズ』のミュージカル映画に登場するバンクス夫人の歌、「シスター・サフラジェット」(「古い鎖をたち切って」という邦題で知られる)のイメージを多分に刷り込まれていたのだろう。たすきをかけてデモ行進する女性参政権論者を、女性らしい愛らしさとユーモアを兼ね備えたメアリー・ポピンズと好対照に描いたものだ。「一人ひとりは大好きだけど、集団になると男は何やらバカだと思う」と言い、マンカインドならぬ「ウーマンカインド、立ちあがれ」と、共産主義宣言を思わせるフレーズまである。テレビの初回放送は一九八六年だそうなので、私がサフラジェット(suffragette)という英単語そのものを最初に知ったのは、デイヴィッド・ボウイの「サフラジェット・シティ」だったようだ。この曲の歌詞はいまでもよくわからないが、やわらかい腿で彼を誘惑し、女の性解放を象徴する「彼女」を、「サフラジェット・シティ」と表現したのではないか。

 ウーマンリブ運動の全盛期は、まだ子供だったのでよく知らない。都市郊外の新興住宅地が多い船橋市で高校まで男女共学のごく普通の公立の学校に通い、大学は帰国子女の多いむしろ女性優位の学科で学び、成人すれば選挙権は自動的にもらえ、男女雇用均等法もタイミングよく改正されて大卒女子にも採用門戸は開かれており、会社員時代も強い女性の多い職場に配属され、子育てと仕事の両立という苦労はいやというほど味わったとはいえ、これまでの人生で女であるがゆえに悔しい思いをしたりした経験が少ないのだ。ついでに言えば、子供時代に「女の子だから〇〇しなさい」と言われたこともない。正直言って、フェミニズムへの関心は非常に低かった。 

 数年前、『エンゲルス:マルクスに将軍と呼ばれた男』(トリストラム・ハント著、筑摩書房)を訳した際に、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』がフェミニズムに大きな影響を与えたことを初めて知った。未開社会のほうが、ヴィクトリア朝時代の文明社会よりも女性は自由であり、尊重されていたことを指摘した彼は、「育児や養育が公共の業務となる」ことの重要性を説いた。ところが、「目的意識をもった聡明な女性で、可愛くもなければマルクス姓でもない人たちは、エンゲルスによる女嫌いのいじめの対象」となっており、彼が「女性の権利についてやかましく叫ぶ、これらの小さいご婦人方」が苦手であったことも同時に知り、苦笑した記憶がある。

 だがフェミニズムとは、たすきをかけて拳を突き上げるバンクス夫人や、あの歌に登場するパンクハースト夫人のような爆弾テロも辞さない過激な活動家の運動だけを指す言葉ではないし、フリーセックスを奨励しているわけでもない。『メリアム=ウェブスター大学辞典』など主要な英語の辞書の定義によれば、フェミニズムは男女の政治的、経済的、社会的平等を主張する理論なのだ。それに反対する理由があるだろうか? 

 そう言えば、エマ・ワトソンが二年前に国連で同様のスピーチをしていた。フェミニズムは女性だけのためのものではない。男はこうあるべきと決められた社会で生きづらさを感じる、多くの男性をも救うものなのだ。

 ところが、日本ではフェミニズムは一般に女権拡張論、女性解放思想とされている。これらの言葉が近寄りたくないウーマンリブの闘志を連想させてきたのだ。拡張も、解放も、女性を現状に押し込めておきたい側からすれば、自分たちの既得の権利を侵害される言葉に聞こえ、余計な警戒心を生むばかりだ。敢えてその効果を狙って、名づけられたのかと勘繰りたくなるほどだ。

 男と女は根本的にまったく違うと考えている人は多いと思うが、本書は人間では生殖器官以外には生まれながらの男女の違いはほとんどなく、とりわけ脳には性差がないのだと主張する。成長した男女に見られる性差の多くは、生まれより、育ちによる社会的なものに起因するのだという。本書では、脳科学や遺伝学、内分泌学といった医学系の分野から、進化生物学や霊長類学、人類学など多岐にわたる観点からこうした問題に鋭く切り込む。それぞれの分野の研究者が真剣に再検討し、著者がインタビューをしたフェミニスト側の研究者たちの見解を再確認するなり、反証をあげるなりしてくれることを期待したい。

 本書はさらに、多くの科学分野で、研究者自身が男性であるがために見落とされ、偏った見方がなされ、場合によっては歪曲されてきたことも冷静に示す。チャールズ・ダーウィンはクジャクの雄の飾り羽がなぜあれほど豪華に進化したのかを説明するために性選択の理論を考えだしたが、彼が本当に証明したかったのは、つまるところ、男性はより多くの選択圧を受けて進化したため、女性よりも優れているということだったようだ。 

 本書の原題は、そうした男性側の往年の主張にたいする皮肉からか、INFERIOR(劣っている)という昨今流行りの短いタイトルが付けられていた。「劣等」などと言われれば、どんな女性でもカチンとくるのではないだろうか。英語の原題をそのまま使う案や、扇情的な「劣等」、「劣位」などの言葉を使うことなども検討したが、「科学の女性差別とたたかう」という平易な邦題に落ち着いた。

 オフィスキントンの加藤愛子さんが、この原題を銀色で入れたかっこいいブックデザインを考えてくださったので、原題も活かすことができた。ソフトカバーながら、書籍を愛する人たちの思いがこもった、読んでみたくなるいい仕上がりの本になったと思う。書店で見かけたら、ぜひお手に取っていただきたい。

『科学の女性差別とたたかう』とその原書