2023年6月14日水曜日

ドゥーリットル空襲

 土曜日に母の納骨を何とか無事に終えることができた。母の遺品を整理するなかで、いろいろなことが新たに判明していたため、集まってくれた親族に途中経過の報告はしたのだが、まだ調べがつかないものもたくさんある。

 その一つが、以前に別件で少しばかり調べたドゥーリットル空襲のことだった。西大久保にあった祖母の実家が1945年4月13日の空襲で全焼したことは知っていたが、この日付を再確認するためにネット検索をした際に、この一帯が1942年4月18日のドゥーリットル空襲でも被害に遭っていたらしいことがわかったのだ。  

 祖母の実家があった場所は、2年前に母から聞きだして訪ねたことがあった。東京府淀橋区西大久保3丁目30番地という住所と、戦前の地図画像をメールで送って、どこだか具体的にわかるかと質問してみたら、「西大久保3丁目の西の字の下当たりかな? 少し上が32番だからね。四つ角の家だったよ」と即座に返事が返ってきた。母自身は子ども時代の大半を長野で過ごしているので、この家を訪ねた機会はわずかだったに違いないが、娘が高校生のころ家の間取りまで描いて説明してくれたこともあった。家の前で撮影された古い写真からも、少なくとも角地の家らしいことは確認できたので、私はその2カ月後に、いまはコリアンタウンになっている新大久保駅前を抜けた住宅街をうろついて、その場所を突き止めたつもりだった。 

 今回、『地図で見る新宿区の移り変わり』(東京都新宿区教育委員会発行、1984年)で1932年の地図が国会図書館デジコレの個人向け送信サービスで閲覧可能になっていることを発見し、改めて確認すると、30番地は私がこのとき訪ねた場所より180メートルほど北側だったようだ。もう一度、訪ねてみなければ。 

 その曾祖父母の家からわずか数十メートル南西の場所に焼夷弾が落とされていたことを、2021年4月18日の東京新聞のこの記事に掲載されていた地図から知った。記事からは詳しい状況がわからなかったので、『日米全調査ドーリットル空襲秘録』(柴田武彦・原勝洋著、PHP研究所)も入手して少しばかり読んでみた。  

 同書によると、この日、早稲田・大久保の住宅街を襲ったのは、16機からなるドゥーリットル隊の隊長で、フロリダ−カリフォルニア間を20時間30分無着陸飛行の新記録を達成していた操縦士ジェームズ・H・ドゥーリットル中佐を機長とする1番機だった。本来の目標は後楽園にある陸軍造兵廠東京工廠だったようだが、ここは関東大震災後に移転していたため、「軍に関係する施設がまったく無い地域を爆撃する結果となった」。午後12時25分ごろに早稲田鶴巻町や西大久保周辺の住宅街へ、「搭載していた焼夷弾四発のすべてを連続して投下した」。この焼夷弾は1発につき128発の焼夷弾子が束ねられており、この地域には合計で512発が投下され、早稲田中学の校庭にいた4年生の小島茂君と鶴巻町にいた通行人1名が死亡したほか、負傷者が15名、全焼家屋36棟44戸(1178坪)と、半焼家屋6棟20戸(125坪)の被害があったという。 

「南西から西向きに飛んでいた機は、下妻の北方で南へ針路を変え、江戸川上空から東京府内に達すると再び西方へと向きを変えた」という同書の説明と飛行ルート図、および早稲田鶴巻町が最初に空襲されたことから考えると、祖母の実家はほぼ飛行ルートの真下にあったものの、焼夷弾が投下されるのが1秒ほど遅れたおかげで、辛くも難を免れたことがわかった。祖母が幼児期までを過ごした長崎の家も、中島川にかかる眼鏡橋の袂付近にあり、長崎の原爆は当初そこから100メートル弱南の常盤橋と賑橋に投下するはずだったが、上空が曇っていたために急遽、変更になっていた。戦禍を免れるかどうかは、まったくの運でしかない。  

 1942年のこの空襲に興味をもったのは、その3年後の空襲で西大久保一帯が焼け野原となったにもかかわらず、拓殖大学で教えていたこの曾祖父、山口虎雄の遺品が、生活必需品でない大きなものまで、いくつか残されていたからだ。関東大震災で丸焼けになった祖父方の家では、金槌一本しか残らなかったのとは対照的だ。戦争早期にドゥーリットル空襲に遭ったために、曾祖父は貴重品を娘一家がいた信州へ早めに移動させていたのかもしれない。当時、祖父母一家は長野市内の南県町徳永町に住んでいたが、曾祖父母は焼けだされたあと、須坂の奥の仁礼村に間借りして疎開していた。 

 1945年8月13日、長野市内も空襲を受けたため、母たちは迎えにきてくれたこの曾祖父と一緒に徒歩で仁礼へ逃げたのだという。小学校5年生だった伯母は9カ月の弟を背負い、4年生だった母は、祖父が昼間につぶした鶏2羽を背負って行ったと、10年近く前に伯母に教えてもらった。仁礼にたどり着く前に「栃倉で皆へばって、そこで休み、虎雄さんが仁礼に行って大八車を借りてきて、そこに皆の荷物を積んで仁礼(湯河原温泉)まで行った」と、母からはメールで教えてもらった。学生時代、菅平にスキーに行ったきりのこの地域も、いつか訪ねてみたい。  

 ところで、ドゥーリットル隊のこの1番機は、強風の吹いた当日朝7時20分に、東京都心まで1200キロ弱の距離に位置していた空母ホーネットを発艦していた。正午に水戸市北東20キロ付近の監視哨に発見されたが、味方機と誤認され、その2分後に敵機として報告された。午後12時4分には、たまたま宇都宮から水戸へ視察で飛行途中だった東條英機首相の乗った飛行機の真正面を、わずか30キロほどの距離で横切ったのだという。ドゥーリットル機につづいて、東京まで同じルートを飛行した2番機が5分後に飛び立っており、東條機はこの両機とニアミスしていた。 

 ドゥーリットル隊は「日本の工業地区を爆撃する」ことを目的とし、「民間目標(特に寺院)への攻撃を避ける」よう指示されていたが、葛飾区の水本国民学校を軍事施設と見間違えたのか、機銃掃射して高等科1年の石出巳之助君を死亡させるなど、500人を超える非戦闘員の犠牲者(内死者88人)を出し、全壊・全焼家屋は112棟におよんだ。 

 爆撃を終えたドゥーリットル機は、九機からなる九七式戦闘機に追われたものの逃げ切り、12時40分ごろには茅ヶ崎から海上へ脱出し、着陸予定地だった中国浙江省内の衢州(くしゅう)北110キロほどの地点に午後8時15分ごろに疲労困憊して達し、乗員はパラシュートで脱出したらしい。日本側は一機も迎撃できなかったにもかかわらず「9機撃墜」と東部軍が速報したため、その辻褄合わせで、中国に不時着したB-25の残骸を運んで4月25日から靖国神社に展示したというのが、以前に私が調べたことの真相だった。中国で日本軍の捕虜となった6番機と16番機の生存者を日本側が処刑した顛末などは、いつかもう少しじっくり『秘録』を読んで勉強しておこう。

 1941年、西大久保の祖母の実家で

『日米全調査 ドーリットル空襲秘録』(PHP研究所)

 母がその昔、娘に描いてやった祖母の実家の見取り図