2004年4月29日木曜日

記憶と五感

 先日、あいにくの雨だったが、ようやく仕事がひと段落したので、貸し出し期限をとうに過ぎた本を図書館に返却し、年金と家賃を支払うために出かけた。雨だけならまだしも、風が強かったので、さすがに自転車はあきらめて珍しくバスに乗った。ここに引っ越してきてから、バスに乗ったのはこれで二度目だ。  

 空いている席に腰を下ろし、ぼんやりとしていたら、いつのまにかタイムスリップしてバンコクのバスに乗っているような錯覚におちいった。金属製の集金筒をパカパカ開閉させながら運賃を集めてまわるおばちゃん車掌が、いまにも近づいてきそうだ。バスが戸塚駅のロータリーに到着すると、バスと人であふれ返った戦勝記念塔広場に入っていくような気がした。普段はもう思い出すことのない光景が、ふとしたきっかけでこれほど鮮やかによみがえるとは、脳のなかはどうなっているのだろう。  

 図書館を出て再び駅に向かうころには、雨脚も風もいっそう強まり、とても傘を差せない状態になった。突風に向かって歩いていると、学生時代に、居候していた栂池の民宿からゴンドラのパス券を借りて、大雨のなかを何度も山頂からスキーで滑り降りた日のことが思い出された。昔の記憶は学生気分まで呼び戻してくれ、自然と足取りが軽くなった。台形に変形した傘を懸命に差している人や、一瞬のうちに骨だけになった傘を呆然と眺めている人を見ると、笑いがこみあげてくる。髪はボサボサ、ジーンズはずぶ濡れになったが、なんのその。  

 バスを降りて家に向かう途中、近くのドブ川の水嵩が増えて、迫力のある本物の川に変身していた。そう言えば子供のころ、大雨が降って道路が水浸しになるたびに、洪水になって学校が休みになればいいのにと願っていた。私の家は3階だったので、どんなに水浸しになっても絶対に安全だから、2階の高さまで水に浸かって窓から船を降ろして漕ぎ出せたら、どんなに楽しいだろう、と勝手な想像をふくらませたものだった。  

 それにしても、こんなことを次々に思い出すなんて、嵐をついて出かけたせいで長いこと眠っていた私の動物的本能が目覚めたのだろうか。嵐の日にレインコートを着て海岸や森に出かけるレイチェル・カーソンになった気分だ。「『知る』ことは、『感じる』ことの半分も重要ではない」。「嗅覚というものは、ほかの感覚よりも記憶をよびさます力がすぐれています」(『センス・オブ・ワンダー』上遠恵子訳より)。きっとこの雨のにおいが、脳を刺激するのだろう。  

 どうもこのごろ視覚ばかりに頼り、そこから得た情報を頭のなかで整理して終わっていたようだ。もっと聴覚も、嗅覚も、触覚も、それに味覚も大いに使って、ときには日常を脱し、分別臭い大人の鎧を脱ぎ捨てて童心に返らなければ。このままでは自分が生物であることを忘れた頭だけの人間や、外面だけの人間の仲間入りをしてしまう。 

 もっともそうは言っても、風で倒れてきた看板が当たったり、苦労してつくった陶芸品を飛ばされたりするのは、私だってご免だ。自然は恵みや驚きをもたらすだけでなく、ときには災害も引き起こす。自然をけっして侮ることなく、むやみに征服しようともせず、そのなかの一員として慎ましく賢く生きること、それが大切なんだと思った。