2010年5月31日月曜日

急激な成長と共通語

 私がクマーラジーバ(鳩摩羅什)を初めて知ったのは、数年前にアマルティア・セン博士の小論集を訳したときのことだった。西暦344年にインド僧の父と亀茲の王族の母とのあいだに生まれたクマーラジーバは、カシュガルとカシミールで仏教を学び、のちに長安に移ってサンスクリット語から中国語に数多くの仏典を翻訳した。東アジアに大乗仏教が伝わったのはこの人のおかげであり、「同業者」の端くれとして、誇らしく思ったものだ。  

 その後、同じような例がほかにもあることを知った。9世紀にイスラム帝国を築いたアッバース朝で文化が花開いたのは、衰退するビザンティン帝国から哲学、数学、医学などの書をもち帰り、それをネストリウス派キリスト教徒が翻訳したことがきっかけだったという。十字軍遠征でも、ティムール帝国でも、似たような現象が見られた。つまり、異なる文化同士が接したときに、一方の文化で長い年月をかけて培われたものが、翻訳という作業を通じて短期間に移行される現象である。その結果、新たな知識を習得した側では、文化が飛躍的な発展をとげることになる。日本でも明治維新によって、あるいは終戦後に外国文化が一気に入ってきたときに、社会は大きく発展した。交通と通信手段の発達によって、いまではこうした文化の波は地球の隅々まで広がり、加速する一方だ。  

 だが、あまりにも急速に発展すれば、変化の波に乗れる人と、乗り遅れて押しつぶされてしまう人のあいだで、格差が大きく開く。急激な変化は、それをうまく活用している人にも大きな負担を強いる。生まれたときから周囲にあった環境や、長い年月をかけて習慣化したことであれば、無意識のうちにできるようになるが、大人になってから短期間で覚えたものは、なかなか身につかないからだ。どんなに記憶力のよい脳でも、その容量には限界があるから、一夜漬けで溜め込んだ知識はいずれ格納できなくなる。急速に勢力を拡大した国の多くが、最盛期の直後に混乱し、衰退していくのは、人間がそんな大きな変化についていけないからだろう。 

 ここ数ヵ月間に激化したタイ国内の争いでは、バンコク市内で占拠をつづけ、テロ行為におよんだUDDにたいする非難を、バンコクの友人たちからたびたび聞かされた。日常生活を脅かされ、経済を混乱させられた側とすれば当然だろう。タクシン元首相が巨額の資金で人びとを動かしている、というのも事実だろう。だが、一人の実業家/政治家が、短期間に巨額の富を築くのを許した社会にも問題はなかったのだろうか? 20年以上にわたって独裁政権を築いたマルコスやチャウシェスクならいざ知らず、タクシンが政権を握っていた期間はわずか5年であり、その間にタイ経済そのものも大きく発展したはずだ。近年のタイの混乱の本当の原因も、あまりに急激な社会の発展にあったのであり、そうした変化に巻き込まれやすい社会の構造にあったのだと私は思う。 

 バベルの塔は天まで届く巨大な建築物のことだが、神の領域を侵すまでに発達し過ぎた文明を象徴していたのかもしれない。旧約聖書の時代、神はそれによる混乱を収拾するために、「全地の言葉を混乱させ」、「そこから彼らを全地に散らされた」。共通の言葉がバベルの塔をつくらせたと批判する聖書の言葉は、翻訳者の耳には痛い。だが、いまでは人口があまりにも増え過ぎて、散りようにも散るべき土地がない。となれば、共通の言葉を賢く利用して、おたがいなんとか生き延びる方法を模索するしかないだろう。