2015年6月30日火曜日

150年ぶりの「再会」

 幕末の日本にイギリス公使館付きの騎馬警備隊隊長として来日し、6年近く滞在中に私の高祖父に西洋式馬術を教えたアプリン大尉について、コウモリ通信に書いたのは昨年4月のことだった。「あっ、また伝次郎さんしてる!」と娘にからかわれながら、どうやら私は1年半ほどご先祖探しをつづけているらしい。その間にいくつか大きな進展もあった。アプリン大尉の直系の子孫ではないが、アプリン一族の歴史を調べあげていた遠縁の方と知り合いになれたのは、なかでも画期的だった。イアン・アプリンさんというこの方は、アプリン大尉の孫に当たる人とロンドンの紳士クラブでの遊び仲間だったそうで、一族に関する多くの情報を教えていただいた。たいへんご高齢ながら、いまなお国際問題に関する論文を執筆されている方なので、その後もたがいの祖先の話題に限らず、多岐にわたる問題についてたびたびメールをやりとりしている。  

 イアンさんからは、アプリン大尉の長男レジナルドが書いたAcross the Seven Seasという自叙伝も、手元に二冊あるからと分けていただいた。レジナルドがハリー・パークスの息子と同級生であったことや、父のアプリン大尉が1877年に露土戦争でコンスタンチノープルに派兵されたことなど、私が興味をもちそうな箇所一つひとつに丁寧に付箋をつけて送ってくださった。レジナルドはそれこそ七つの海を越えて大英帝国の軍人および政治家として生涯を送った人であり、勲章をつけた軍服姿の写真からは武勲を誇る厳めしい人物が想像された。軍人の書いた自伝など、武勇伝ばかりなのではないかと期待せずに読み始めたのだが、これがじつにユーモアたっぷりの文章で、ボルネオの首狩り族から信頼された唯一の西洋人であったことや、演劇好きで、バイオリンを持ち歩いていたこと、自分の持ち馬の黒いポニーで競馬に興じたことなどが綴られていた。1890年ごろ、21歳で赴任したシンガポールで、ラッフルズ・ホテルに宿泊したときのことを彼はこう書いている。「一カ月間、船の寝台で過ごしたあとで、陸に上がってゆっくりくつろげる晩になるだろうと期待した。ところが、大きな蚊帳の下で苦痛に満ちた、眠れない夜を過ごすはめになった。蚊帳のなかには、ホテル中の蚊がすべて入っていたらしい。蚊どもは私の体のいちばん柔らかい部分から血を吸って、たっぷり欲望を満たしていた。翌朝、起きると、顔も足首も手首も腫れあがり、シーツとカーテンには赤い染みがあったので、多くの敵をやっつけたのは確かだった。ただし、犠牲者が流した血は、私自身のものなのだが」  

 レジナルドの弟のアーサーは、若いころは劇団に入っており、のちに戯曲や小説を書いて有名になった。彼が残した作品は100冊以上ある。イアンさんのお勧めで、私はPhilandering Anglerという最晩年に書かれた自叙伝を購入した。末子であるアーサーは、父のアプリン大尉とよくフライフィッシングにでかけたようで、晩年までお父さんにもらった釣り竿と狩猟服を愛用していた。一家はデヴォン州トーキーにあるチェルストン・マナーという豪邸に住んでいたのだが、「私の父は財産を胴元の鞄に移してしまったので、私の教育は14歳のときに終わりを迎えた」と、彼は書いている。アプリン大尉が競馬で財産を失ったというのは、横浜で競馬に興じていた居留地の人びとのことを考えると、なんだか笑える。「私の父には不思議な魅力があった。父は犬や女たち、魚、家禽、それに自然とともに生きる貧しい民を魅了することができた」とも書いている。伝次郎もその魅力にやられた1人なのだろう。息子たちはいずれも金儲けには無頓着で、世界各地を冒険心の赴くままに渡り歩く人生を送ったようだ。  

 ほかにもアーサーの作品を読みたいと思ってネットを検索中に、彼の小説Piccadillyが、『ロンドン・バレー・ピカデリー』という題名で1930年に春陽堂から邦訳出版されているのを発見した! 原書はその前年に刊行されていた。訳者は西宣雄氏で、おまけに中出三也氏の挿絵付きだ。「世界大都會尖端ジャズ文學」シリーズの一環として昭和5年にこんな本が出版されていたのは、その後まもなく鬼畜米英の時代を迎えることを考えると、じつに意外な感じがする。これはまだ積ん読状態だが、時間を見つけてじっくり味わいたい。息子たち二人の家系は残念ながら途絶えてしまっているが、若くして亡くなったと思われる娘の子孫が、姓は異なるが存命であるらしいこともわかった。  

 5月初めには、イギリスに3カ月ほど滞在中の娘が、電車を乗り継ぎ、はるばるデヴォン州までイアンさんご夫妻に会いに行ってくれた。いわば150年ぶりの子孫同士の再会が実現したのだ。まるで孫を迎えるみたいに大歓待してくださったようで、一族に関する膨大なファイルを見せていただいたほか、アーサー・ランサムの話から鳥や絵のことまで話題が尽きなかったとかで、祖先の話にあまり興味がなかった娘も非常に楽しかったらしい。お土産には、アプリン大尉が来日した1861年に制作された、虫食いのある、芳虎の「外国人物尽英吉利」の横浜絵をもたせた。これまでわかった限りの事実と時代背景をまとめた25ページもの報告書や多数の画像データにも、イアンさんは丁寧に目を通してくださった。私も遠からぬうちにお金を貯めてイアンさんを訪ね、いまはホテルになっているチェルストン・マナーにも一泊くらいはしてみたい。

 レジナルドの本

 アーサーの本

 アーサーのピカデリー、右側が邦訳書

 イアンさんが送ってくれた「再会」の写真

 虫食いのある横浜絵