2024年1月18日木曜日

『国境と人類』

 昨年の大仕事、『国境と人類:文明誕生以来の難問』The Edge of the Plain, ジェイムズ・クロフォード著、河出書房新社)がようやく形になった。ここで試し読みができます。この本は、いまの混沌とした世界情勢を読み解くうえで、驚くような視点を与えてくれるものだが、肝心の「国境」という言葉が、多くの日本人にとってどれだけピンとくるものなのか、やや心許ない。本書のなかではborder, borderline, frontier, edge, borderlandなど、いくつかの用語が使われていた。かならずしも「国境」でない場合は「境界」と訳し、辺境地、外れ、国境地帯などと訳し分けるなど、試行錯誤しながらこの概念について考えつづけた。 

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という『雪国』の冒頭の一文は、上野国と越後国の「くにざかい」だった。江戸時代までの国境や藩境は、主要な街道沿いに関所や口留番所が置かれる程度で、ただ境界を示す木や石碑が建てられていた場所も多かった。日本では弥生時代の環濠集落や九州地方の山城、戦国時代に建てられた城などには周囲をぐるりと囲む障壁があったが、平安京なども南側の羅城門の両翼にしか城壁はなかったようだ。 

 海という自然の障壁に守られた島国日本でも、隣国からの領空・領海侵犯や、弾道ミサイルや人工衛星の落下を日々心配している人は確かにいる。だが、その海の向こうから実際に敵が攻めてくる経験をした世代はもう残り少ない。現代の日本人にとって、国境を越えるということは、たいがいは空港の搭乗口からいつの間にか機内に入ることを意味する。何時間か機内で過ごしたあと、同じようにボーディングブリッジを抜けると、もう外国の空港にいる。以前はタラップで乗り降りする飛行機も多かったので、少なくとも外国の地に「降り立った」という感覚はあったが、いまはそれすらめったに味わえない。 

 私が陸路で初めて国境を越えたのは、ソ連時代のモスクワから鉄道でチョップという駅(現在はウクライナ領)に着いたあとのことだった。1時間半ほど列車を止めての検問だった。中学生だった私は、「ものすごく“か”のような虫が多いのでいっしょうけんめい追いだしたとおもったら、検査の人たちが来て、また虫が入ってきてしまった。機関銃をさげている人がいたり、ベッドの下を見たり……ずいぶんきびしかった」と、旅行記に書いていた。 その後、チェコスロバキアを通ってオーストリア、スイス、フランスと列車の旅をつづけ、ドーヴァー海峡を船で渡ってイギリスにまで行き、友人一家とカーディフからエディンバラまで行く途中、ハドリアヌスの長壁の上も歩いたので、何度も国境を越える体験をしたことになる。「ローマン・ウォールというイングランドとスコットランドのさかいにある石がきの上を歩いた。もしゃもしゃの牛が何頭もいて、さくがなかったのでちょっとこわかった」と、旅行記には書いていた。羊や牛の柵にしか見えなかったこの石積みが意味したものも、本書で触れられていた。夜な夜なトマス・クックの時刻表を調べてこのヨーロッパ大旅行を計画し、イギリスではレンタカーを借りて長距離を運転してくれたのは亡き母だった。中学生で、かけがえのない経験をさせてもらったと思う。 

 数年後にアメリカの高校に留学したときは、とくに希望したわけでもなかったが、アメリカとメキシコの国境にあるテキサス州エルパソで1年弱を過ごすことになった。近年、中南米からの移民問題で、ニュースでも何度か名前を聞くことはあったが、『国境と人類』ではすっかり変わってしまったこの都市の様子が何度か触れられていた。 当時、リオグランデ川を挟んだ対岸のシウダッド・フアレスとエルパソは双子のような都市で、国境から3キロほどの距離にあった高校には、メキシコ側から毎日、自分で車を運転して通学してくる同級生がかなりいた。私が住んでいた地域は、リオグランデが北西に方向を変え、ニューメキシコ州内を抜ける流域に近く、この川から引いた灌漑用水路が裏庭の後ろにあって、その先には綿花畑が広がっていた。この土手沿いに毎日ジョギングしていた私は、ときおりテキサスとニューメキシコの州境まで走っており、川まで往復4マイルほどを走ったこともあった。当時は地図をもっておらず、私の頭のなかでこの複雑な地理はまったく理解できていなかったが。 

 一度など、ホストファミリーとフアレスの街に食事に出かけた際にパスポートを忘れ、エルパソに戻る際に気づいて青くなったこともあった。往路はそのまま通れたが、復路では検問があり、口頭で国籍を聞かれるのだった。「US」とアメリカ人風に発音する練習をさせられ、その甲斐あって無事にお咎めなく家に帰ることができた。滞在中、ホストファミリーには熱気球乗りから乗馬や射撃まで、じつに多様な経験をさせてもらったが、いま思えば、国境地帯に暮らした経験そのものも、本当に貴重だった。 

 私がエルパソに滞在していた1980年ごろもニュースでときおり移民問題は報じられていたが、フアレスに住むメキシコの友人たちは裕福そうだったし、エルパソ側にもスペイン語を母語とするヒスパニックの人が大勢住んでおり、傍目にはよく融合して暮らしているように見えた。米墨戦争の終結から1世紀しか過ぎていない時期に、かつてのメキシコ領にその子孫が住んでいたのは、考えてみれば当然だったのだろう。もっとも、エルパソの貧民街(「電気もきていないような所」)のことや、「川をへだてただけですべてがちがう」メキシコの貧しい街を見て驚いたことなども、当時の手紙に書いていた。 

 アメリカ全土で状況が変わりだしたのは、1993年にエルパソの国境警備が厳しくなったことが発端だったという。エルパソで越境できなくなった移民が、アリゾナ州のソノラ砂漠を越え始めたことによる悲劇を綴った章を訳しているころは、ちょうど母の容体がどんどん悪くなっていた時期だった。過酷な状況で若い命を失っている移民たちの現実を翻訳していたことが、逆説的なようだが、母の死を受け入れさせてくれたのだと思う。何と言っても母は、平和な日本の病院で、手厚い看護を受けながら天寿をまっとうしたのだから。 

 学生時代にヨーロッパを2カ月間放浪したときも国境を何度も越えた。シェンゲン協定の10年以上前だが、西ヨーロッパでは切符の車内改札時にパスポートを見せた程度で国境を通過していた。唯一、ハンガリーに留学中の姉を訪ねるため、ウィーンから乗り込んだオンボロの「オリエント急行」では、乗車してすぐのパスポート・コントロールのあと、実際に国境を越える際に、「いつもとはちがった雰囲気で調べられ、おまけに懐中電灯でイスの下まで照らされて、なかなかきびしい感じを受けた」と、これまた古い旅行記で再確認した。 

 本書には、国境/境界の概念が疫病対策で強化されたことを指摘する興味深い章もあり、コロナ禍に振り回されたこの数年間を振り返るよい機会にもなった。 

 原書は、ロシアによるウクライナ侵攻が始まったころに執筆を終えているため、国境をめぐるこの紛争に詳しく言及してはいないが、ごく最近閉鎖されたフィンランドとロシアの国境での興味深いエピソードなどは盛り込まれていた。著者はヨルダン川西岸地区を訪ねており、校正段階に入ったころに始まったガザ侵攻のニュースは、その背景が理解できていただけに身につまされるものがある。 

 年末ぎりぎりまで校正するなかで、気になっていながら、うやむやにしてしまった問題が一つあった。原書ではエレモス・コーラ(eremos chora)という古代ギリシャ語と、その英訳であるno man’s landという言葉で、たびたび言及されていたものを「無人地帯」と訳したことだ。もちろん、場所によっては38度線の軍事境界線のように、文字どおり「無人」地帯のところもあるのだが、実際には通常「無主地」と訳され、「無主地先占」という植民地主義に関連した文脈で出てくるテラ・ヌリウス(terra nullius)と同じなのではないか、という疑問だ。テラ・ヌリウスは一般には、尖閣諸島や竹島のような問題で使われる。No man’s landの英語のウィキペディアのサイトには、しっかりとテラ・ヌリウスと混同するなと書かれているが、両者の定義にはほとんど差がなく、双方を同義に使っている人もかなり見受けられる。せめてその旨を訳註で入れておけばよかった、と後悔している。 

 昨年1年、この作品に接したことで、国民国家とは何かという根源的な問いをはじめ、じつに幅広い問題を考えさせられた。先の見えないこの時代を考えるうえで、ぜひ一度お読みいただきたい。著者クロフォードはまだ40代のスコットランド人で、日本ではおそらくほとんど知られていないと思うし、450ページを超える長編だが、最後まで飽きることなく読める一冊になることを請け合いたい。発売は今月末の予定だ。

『国境と人類:文明誕生以来の難問』(ジェイムズ・クロフォード著、河出書房新社)と原書(左側)

ハドリアヌスの長壁の上を歩く
(1975年8月撮影)

エルパソ近郊。川の流域以外は禿山と砂漠が広がっていた(1980年撮影)

通っていたエルパソの高校で
 
パリからブダペストまで延々と乗った列車の時刻表

2024年1月17日水曜日

レゴ熱

「これ□□ちゃんのおばあちゃんに似てない?って言われた」と、年末に近所のママ友の家で夜遅くに「大人レゴ」をしてきたという娘から、一枚の画像を見せられた。そこには灰色のもっさりした髪のおばあさんのミニフィグが写っていた。どうやら私のことらしい。 

 レゴの小さい人形であるミニフィグの存在は、娘が3、4歳のころに買ってやった「南海の勇者シリーズ」の小さなセットで初めて知ったが、当時は黄色い顔に鉤手の海賊人形にはとくに関心をもたなかった。その後、奮発して買った「お城シリーズ」に、暗い場所では光る幽霊や青い服の魔法使いがいたのは覚えている。この中世のお城のセットは可動する跳ね橋などが魅力的だったが、土台部分が大きな塊として成形されており、用途が限定され過ぎていた。幼稚園児が遊ぶには細々としたパーツが多過ぎるとも思った。

  レゴは自由に組み立ててこそ楽しいと思うのは、私自身がレゴっ子だったからだ。レゴに夢中になって遊んだのは小学校の低学年までなので、どうやら日本で1962年から67年にかけて朝日通商が販売した最初のレゴで遊んでいたようだ。レゴ社が現在と同じABS樹脂のブロックを発売し始めたのが1963年らしい! いまだにレゴに愛着があるのは、三つ子の魂というやつだろうか。当時のブロックは白、黒、赤、黄色、青、透明しかなく、大半は基本のブロックで、薄いプレートと赤いスロープ、タイヤとタイヤをはめる穴付きのブロックが数個あったくらいだった。シャッター部分が開閉される車庫や、ボッチで固定されておらずよく倒れる木もあった。ウィキによると、当時の価格で数百円から数千円と高額で、都市部のデパートなどでしか売っていなかったそうだ。裕福でなかったわが家で、母がなぜレゴを買い与えたのかはもう知る由もないが、教育熱心だったので、知育玩具として興味をもったのかもしれない。もっとも、母がレゴで一緒に遊んでくれた記憶はなく、代わりに叔父が赤いスロープを屋根瓦にするのを見て感心したりしていた。  

 レゴが知育玩具だなどと私が知ったのはずっとのちのことで、『なぜ本番でしくじるのか』(バイロック著、河出書房新社、2011年)を訳した際に、男女の空間認識能力の差が、子どものころの遊びに起因すると書かれており、その一例としてレゴが挙げられていたためだ。「アメリカで毎年売られているレゴのほとんどは男の子向けのものだが、レゴは高い玩具なので、低所得者層では男の子も女の子もあまりレゴを見たことがない」という同書の指摘に、私は意表を突かれた。数学は好きではなかったが、幾何だけはわりと得意で、立体を描くのに苦労もしなかったのは、幼いころのレゴ遊びのおかげだったのかもしれない。レゴのボッチの数や、ブロックの厚み・幅の違いは数の概念や分数を理解させるうえでも役立っていたはずだ。私がもっていた古いレゴはまったくジェンダーレスの玩具だったし、娘の時代のレゴセットは、アーサー・ランサムやC・S・ルイスの本を愛読した私には心惹かれるテーマだったが、そう言われてみれば男の子向けだったのだ。  

 子ども時代のレゴの一部は、娘に買ったレゴと一緒に巨大な箱に収納されていたが、母が誰かにあげてしまい、しばらくレゴから遠ざかることになった。のちに『エンゲルス』(ハント著、筑摩書房、2016年)を訳していたころ、ネット検索中に偶然、誰かがマルクスとエンゲルスをミニフィグで再現している画像を見つけ、とっつきにくかった彼らに親近感を覚えたことがあった。何しろ、そのヒゲが、昔娘がもっていた魔法使いのと色違いだったのだ。レゴ人形がミニフィグと呼ばれていることも、そのとき検索して初めて知り、しかも顔、髪、上半身、下半身、髭、持ち物等々、組み合わせられるパーツを売っているネットショップがあることもわかったが、飾っても仕方ないかと、このときは思いとどまった。 

 その後、赤ん坊にしてはやけに髪の多い孫が生まれ、半年も経つとまるで帽子をかぶったような、ミニフィグのかつらのような不自然な髪型になり、どうしても孫のミニフィグ人形が欲しくなった。孫用のパーツを頼んだついでに、以前から欲しかったエンゲルス分のパーツも注文したのがレゴ熱再発の始まりだった。その孫がブロックを口に入れる危険がなくなった2歳ごろに、レゴの大きめの基本パーツをまず数個だけ与え、一緒に遊べるようにと娘一家のミニフィグもつくってやった。最初はどうしてもブロックがはずせなかった孫が、できるようになってまずやったことが、ミニフィグの髪をはずして坊主にし、髪を取り替えっこする遊びだった。このミニフィグたちは、のちにアンニョン・タルの絵本『すいかのプール』を読んだあとに、すいかのなかで泳ぐことにもなった。 

 最近のレゴには、女の子用を意識したと一目でわかるピンク、紫、水色が多用されたお城やお店のセットなどがあるが、食指が動かない。ミニフィグも「肌色」のものが増え、さらには茶色の肌のものも登場し、体型も変化して普通の人形と変わらないシリーズもある。でも、ミニフィグは不恰好な黄色で、いろいろ組み合わせて楽しめるほうが、レゴらしくていいと私などは思う。 

 娘は私ほどレゴにはまることはなかったが、年末の「大人レゴ」で近年増えた新しいパーツの面白さに気づいたらしく、最近出たばかりの「鳥のおうち」セットを孫に買い与えていた。鉤手付きのパーツに横棒付きのパーツを差し込むと蝶番のようになって羽が動かせたりする鳥が5羽もついているセットだ。娘が仕事をするあいだに孫とそれを組み立てる係が私に回ってきたが、2羽つくったあとは孫が一人でつくれるようになっていた。出来上がった鳥たちは足の角度も変えられ、目も若干動いて表情が出せ、なかなかよくできていた。

 だが、5羽の1羽はカーディナルに似ていたが、残りは何かわからなかった。鳥となると、種を特定しないと気の済まない娘が、それらの鳥をつくり替えたいと言いだし、そのお役目も私に回ってきた。驚いたことに、孫はすでに複雑なパーツの違いを見分けており、左右に目をつけるのに使うブロックは、普通のタイプとは異なり両側にボッチがあることなどに気づいていた。まずは色を少し変えれば何とかなる種を孫と一緒に考え、メジロとコマドリをつくるために違う色のパーツを探すはずだったのだが、そのうち尾を長くすればサンコウチョウになるかなど、いろいろ欲が出てきた。 

 レゴ・パーツ専門店のサイトで膨大な種類のパーツの見分け方がわかってくると、いや、カワセミもつくれるかもしれない、サンコウチョウのアイリングにはこの丸いパーツが使えそうだ等々エスカレートし、単価8円から数十円の注文するのも気の毒な諸々のパーツを、120点以上もポチっていた。例のおばあさんミニフィグ用の灰色の髪とボディも注文した。週末だというのに、ネットショップからはすぐに発送連絡がきて、日曜にも配達されるゆうパケットで、それらのパーツが正確に注文どおりに届いた。単価の非常に安い膨大な種類のパーツの綿密な在庫管理をしながら、それぞれを1個、2個と注文する私のような迷惑な客のリストにもとづいてそれらを選び、数をかぞえて、合っているかどうか確認し、梱包して発送する……。ちゃんと商売になっているのか、従業員はうんざりしていないのか、つい気になってしまった。 

 現物のパーツがないまま、雑なスケッチと頭のなかで組み立てて注文したカワセミは猫背になり過ぎて、大きなランドセルを背負った小学1年生みたいになったが、それはそれでかわいい。画面上で見た色がイメージと違っていたり、目立たない部分のパーツを注文し忘れていたり、個数を間違ったり、あるいは別のパーツを思いついたりで、結局、どの鳥ももう一度、あれこれやり直しが必要になり、再度、パーツを大量注文することになった。

 肝心の孫は、大人主導で完璧なメジロやコマドリをつくることには興味を失い、好き勝手にパーツを組み合わせて遊び始め、一方の娘は「尾羽が長過ぎる」とか、「この部分は黄色がいいんだよね」と、細かい注文をあれこれつけ、諸々のリクエストをまとめている私に向かって「結局、最後までやっているのはえりば(私のあだ名)だね」とからかう始末。工作好きの私は昔から、娘に「つくって〜、つくって〜」と言われて、よく乗せられていたが、今回もまんまと罠にかかってしまったようだ。 

 まあ、このところずっと、締切りが迫るなかで翻訳マシンと化して溜まっていたストレスは、レゴ鳥づくりでいくらか解消されたかもしれない。ただし、これ以上はまると本業に差し障るので、そろそろ終わりにしなければ。

レゴ鳥たち。まだつくり変えたい部分があちこちにあるけれど、一応それらしく見えてきたか。サンコウチョウ、メジロ、コマドリ、カワセミ、エナガ(赤い鳥はもともとのセットのもの)

いつのまにか増えているミニフィグたちと、孫がつくったダイサギ!

最初に組み合わせてつくったミニフィグ

自費出版した折にも、表紙に使わせてもらった写真の松平忠礼のミニフィグを馬とともに記念に買った。横に立つ私の高祖父はヒゲを外したエンゲルスで代用

すいかのプール!