2021年7月25日日曜日

偽お龍写真の女性

 古写真関連の本を読み返した折に、「偽お龍写真」と言われる写真が内田九一のスタジオで撮影されていることに気づき、ウィキペディアに「お龍の写真」という項目までできていたので、読んでみて驚いた。なにしろ、この写真の裏に「土井奥方」と裏書きされたものが見つかったと書かれていたのだ。土井……土井忠直の奥方だったりするだろうか? 

『皇族・華族古写真帖』(新人物往来社)に思い当たる写真があった。上田藩最後の藩主松平忠礼には実子がなかったため、弟で土井家に養子に入った忠直の次男、忠正を養子に迎えていた。その忠正が数えで5歳時の1890年に撮影された写真の隣にすらりとした美人が写っているのだ。養子入りしたのはその5年後の1895年のことらしいので、隣に立つ女性は実母の可能性が高い。  

 土井忠直は嘉永5(1852)5月年生まれで、上田の記録にもほとんど功績は残されていないが、明治3年から4年にかけて、末弟の忠孝とともに鹿児島藩に「留学」していたことが、彦根藩留学生の相馬永胤について調べた瀬戸口龍一氏の「明治初年における鹿児島藩の軍学教育」(『専修大学史紀要』、2009)から判明している。旧三河刈谷藩の土井家に養子に行ったのは、『人事興信録』データベースによると1873(明治6)年12月。結婚相手は刈谷藩7代藩主土井利祐の娘、良(または輿志、良子「よしこ」か)で、弘化3(1846)年7月生まれという、6歳も年上の女性だった。  

 譜代大名だった刈谷藩の土井家は、よほど運に恵まれなかったのか、6代目土井利行(1822–1838)のあとは養子を迎えつづけたようだ。良の父、利祐も、彼女がまだ1歳半にもならない弘化4年に26歳で死去しており、末期養子という形で家を継いだ8代目利善は、藩内から天誅組の変の中心人物を2人だした責任を取って隠居、家督は養子の9代目利教が継いだものの、この人も明治5(1872)年11月に26歳で死去。その1年後に忠直が21歳で、27歳の良と結婚し、家督を継いだことになる。ウィキペディアの土井利祐の項に、良は金森近明の正室だったとも書かれている。2人のあいだには1884年に長男利美が生まれ、1886年に次男利正が誕生、松平家の家督を継いだ際に忠正と改名している。ということは、1890年に幼い利正(忠正)と並ぶ女性が母の良だとすれば、43–44歳! 相当な美魔女だったことは間違いない。  

 この土井良が、「偽お龍」ということはありうるだろうか? 忠正と並ぶ写真は不鮮明なので、確実なことは言えないが、全体の印象と髪の生え際、耳の形は似ているし、7頭身に近いプロポーションで姿勢のよい点も似ている。「偽お龍」の顔は、松平忠正に似ていなくもない。  

 この写真がいつ撮られたかについては、長崎の上野彦馬のスタジオで撮影されたと言われる一連の松平兄弟の写真が、本当に彦馬撮影か疑問に思った際に、以前に参照させてもらった高橋信一氏の『古写真研究こぼれ話』(渡辺出版、2014)に詳しくでていた。彦馬のときも背景に使われている欄干の変遷を教えられたのだが、九一のスタジオでも置物は頻繁に変わっていたという。背景の腰板と敷物の組み合わせから、高橋氏はこれが、明治5年初めから明治6年と推定されていた。時期的にはぴったり符合する。  

 というのも、同じ組み合わせで九一のスタジオで撮影された、松平一家の写真があるからだ。松平忠礼・忠厚の兄弟がアメリカに留学したのは明治5年7月で、出発前に4人兄弟と姉の俊、母としで別の場所で撮影したと思われる写真も残っている。九一のスタジオで撮影された家族写真には忠礼・忠厚はおらず、下の弟2人、つまり忠直と忠孝、母とし、それに姉たちと言われる女性2人、および幼児を含む不明の人物が計3人写る。同じときに撮影された姉1人、母とし、忠孝のポートレートも残っている。堀直虎の未亡人だったは、1874(明治7)年に再婚しているので、その前の記念写真かと思っていたが、忠直の養子縁組が決まった記念だった可能性もある。末弟の忠孝はこの撮影直後に死去したと思われるので、いろんな意味で忘れ難い1枚だっただろう。  

 一応、調べるからには、もう少し詳しく知りたいと思い、「偽お龍」写真の真相を長年追いつづけた古写真研究家の森重和雄氏の論考を読むため、ワック出版(!)の『歴史通』の古書を2冊(2011年5月号、2014年5月号)も購入した。高橋信一氏はこの写真の女性を髪型や服装から「高貴な家柄の夫人」と判断されているが、森重氏は2011年の記事では芸妓と考えておられ、2014年の記事では華族にまで調査範囲を広げ、「土井家は子爵で、下総古河八万石の土井利与家、越前大野四万石の土井利恒家、三河刈谷二万三千石の土井忠直家の三つの家があることがわかった」という。一応、忠直は候補には入っているのだ。ただし、各家の「奥方」の写真が見つからず、「土井子爵の妾になった元新橋芸者」のおまさという女性を見つけ、その人が写真の女性と結論づけている。しかし、不鮮明な画像のその女性はかなり面長で、顔が大きめ、かつやや猫背気味で、どう見れば同一人物と言えるのかがわからなかった。  

 森重氏は、「偽お龍写真」が1982年に最初に発見されたのが薩摩藩士中井弘のアルバムであったことから、中井弘に関係のある女性だと考えている。忠直は前述のように鹿児島に「留学」しているので、瀬戸口氏の論文を読み返してみると、相馬永胤の日記に、「折節、西郷隆盛、桐野利秋、楢原[奈良原]繁、中井弘、伊知地[伊地知]正治、其他知名の士を訪い」と書かれていた。忠直、忠孝兄弟が現地で中井に会ったかどうかはわからないが、養子入りと結婚の報告を、美人の妻の写真付きで忠直が中井に送った可能性はありそうだ。ちなみに、桐野利秋は上田のヒーローである赤松小三郎の暗殺犯、奈良原繁は生麦事件でリチャードソン殺害に加わったとされる1人だ。  

 もちろん、ほかの土井家の奥方や、華族以外の裕福な土井さんの奥方である可能性もあるだろうが、もし写真の女性が土井忠直の年上妻だとすれば、ちょっと画期的なことだ。土井忠直・松平忠正の父子は何度か上田郷友会の会合に参加しており、私の曾祖父が同じ集合写真に写るものもあったからだ。龍馬ファンが40年あまり、妄想を逞しく眺めていた「お龍」さんが、じつは忠直の奥さんだったとすれば滑稽だ。父松平忠固の子のなかでいちばん幸せな人生を歩んだのは、案外、1897年には正四位に叙せられ、1909年、57歳まで生きたこの忠直だったのかもしれない。本家の藤井松平家を継いだ兄の忠礼は、藩主でも藩知事でもなくなったのち、従五位を唯一のタイトルとしてアメリカでも愛用していたが、44歳で病死したのちに正四位を追贈された。

森重和雄著、「龍馬が愛した〈おりょうさん〉」、『歴史通』2011年5月号より

『皇族・華族古写真帖』(新人物往来社)より

『皇族・華族古写真帖』(新人物往来社)より

『上田郷友会月報』明治42年1月号より。前列中央の和服姿が土井忠直、隣が松平忠正。私の曾祖父は2列後ろの、2人の中間あたりにいる

2021年7月19日月曜日

皇族古写真関連の追記

 前の記事を書いた数日後に、図書館にリクエストしていた『英傑たちの肖像写真:幕末明治の真実』(渡辺出版、2010年)という本が届き、目を通してみたところ、疑問に思ったことが一つ解けていた。  

 この本は古写真研究家五人の共著で、今回取り上げるのは倉持基氏という、比較的若い研究者が書かれた「明治天皇写真秘録」である。明治天皇の束帯姿と小直衣姿の写真の撮影日を明治5年4月12・13日としていたのがこの論考だったのだ。その理由は、明治5年7月発行の新聞に「四月十二三日の頃、(甲斐国)巨摩郡高砂村の人与住巨川といふ者、東京滞在中、親族の需[もと]めによって、写真の為め浅草瓦町内田九一を尋ねたるに、其日は、皇上御写真に付、亭主不在の由にて」と断られ、諸外国に倣って、天皇の写真も国内外に頒布する必要がでてきた旨などが書かれていたためだった。どうやら私は3月に、日本カメラ財団のサイトにある「幕末明治の写真史列伝」第53回、「内田九一その18」に引用されていた同じ記事を参照させてもらったようだ。  

 倉持氏は「近代国家の元首らしい洋装姿の天皇像を望んだ大久保[利通]と伊藤[博文]は、出来上がった和装姿の天皇写真に難色を示した。宮内省は洋装姿の天皇を撮影することを約束したが、大久保、伊藤が再渡航する同年五月十七日」には間に合わなかったとする。彼らが実際に駄目出しをし、宮内省が即座に洋装姿で写真を撮り直すと応じた、というのはやや信じがたいが、若い天皇と元勲らとの関係は実際にはそんなものだったのだろうか。  

 4月12日は、以前にも書いたように、英照皇太后が赤坂離宮に到着した日だ。『明治天皇紀』を読むと、11日には明治天皇が「皇太后の東上を迎へたまはんがため、午後一時三十分騎馬にて御出門、品川に行幸あらせらる」、さらに「大森に於て皇后の出迎を受け」ともあり、品川泊まりだったこの日に明治天皇・皇后に丁重に出迎えられたことがわかる。12、13日の明治天皇に関する記述はないので、先述の新聞記事を信じるとすれば、撮影はこのいずれかの日に行なわれたのかもしれない。  

 また、倉持氏は大久保らが再渡航した数日後の5月20日ごろに内田九一が、燕尾型正服という洋装で明治天皇の上半身の肖像と乗馬姿を撮影したとも書いているが、典拠がない。この2枚の写真は、通常の写真集や図録などには掲載されていない。大礼服のようなこの洋服は4月7日に新調したもので、「この時点では明治天皇はまだ髷を結っていたため、髷を隠すかのように帽子を被っている」と興味深い指摘もされていた。  

 燕尾型正服が新調されたという4月7日の条には、実際にはこう書かれている。「横浜より洋服裁縫師(外国人)の宮内省に至れるを召し、内密に聖体を度らしめたまふ、天皇著御の洋服は其の寸法等大凡の木さんにして、之れを度らしめられしことかつて無しと伝ふるは誤なり。又是の月三日、服装の事にて逆鱗あらせらる、但し其の事情詳かならず」。つまりこの日、ようやく採寸されたのだ。金モール刺繍の施された服は、大久保らの出発までに仕上がらなかったのに違いない。 

『明治天皇紀』は燕尾型正服姿の写真に関しては8月5日の条にまとめて、「天皇又馬上の英姿を撮影したへることあり、其の日時は未だ明かならずと雖も、宮内少録日録によれば、明治六年二月六日以前の事に属するものの如し」とだけ書いている。5月23日から7月12日まで明治天皇は西国・九州巡幸にでており、内田九一が専属カメラマンとして随行した。49日におよぶ巡幸中に撮影された写真に天皇の姿が写るものは1枚もない。  

 こうした状況を考えると、いろいろ疑問が頭に浮かぶのだが、「内田九一その18」が指摘するように、巡幸の出発日に当たる23日の条に、『明治天皇紀』はこう書く。「午前四時、燕尾形ホック掛の正服(地質黒絨、金線を以て菊の花葉を胸部等に刺繍し、背面の腰部には鳳凰の刺繍あり、袴は同じく黒絨にして、幅一寸の金モール線一条あり、帽は船形[後略])を著御し、騎馬にて御出門あらせらる。天皇の該正服を著したまへるは是れを以て始とすと云ふ」。絨はラシャやサージなどの毛織物を指す。これはまさに新調した正服のことだ。出発前の慌ただしい時期ながら、その記念撮影を試みたと考えれば、さほど不思議ではないかもしれない。  

 巡幸中も頻繁に「騎馬にて」移動した旨が書かれており、洋装で馬に乗ったことでこれだけの巡幸が可能になったと考えられる。もっとも、6月2日、「暑気甚し、孝明天皇後月輪東山陵を拝せんとし、午前五時騎馬にて御出門」という京都での日程では、「神饌供進の儀畢[おわ]るや、洋装を束帯に更め、歩して坂路を陵前に進ませらる」と書かれている。 

『明治天皇紀』をざっとめくってみた限りのことなので定かではないが、明治元年10月13日に東京に移動した明治天皇は、早くも18日には、「御廐馬訓練の日次を定め、三・八の日を以て之れを禁庭に行ふ、御馬乗役目賀田雅周奉仕す」とある。その後たびたび乗馬訓練に励む様子が記されている。目賀田雅周はフランス軍人から西洋馬術を習い、明治天皇の別当を務め、金華山号を調教した人という。馬上姿の天皇の横にいるのが、目賀田だろうか。 

 明治天皇は、巡幸から帰還後の明治5年9月13日(1872年10月15日)、鉄道の開通式について報じた『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の挿絵では、束帯に見える和装で描かれている。和装へのこだわりは強かったのではと推察されるが、馬に乗る便宜上、洋装を受け入れたのをはじめとし、翌明治6年3月20日についに断髪し、新たにつくらせた肩章のある豪華絢爛な肋骨服姿の肖像写真を同年10月8日に再び内田九一に撮らせたのだろう。 

 こうして日本のナショナル・アイデンティティは急速に塗り替えられていったわけだ。その後、明治天皇が肖像写真の撮影に応じなかったのは、本来の自分の姿とは違うイメージを求められつづけたことへの抵抗だったのかもしれない。

2021年7月12日月曜日

皇太后古写真に見られる誤解

 以前、英照皇太后について調べた際にネット上で見つけたいくつかの論考に、鈴木真一撮影の肖像写真があると書かれていた。あれこれ検索するうちに、参考文献に上がっていた明治神宮発行の古い図録『五箇條の御誓文発布百三十年記念展 明治天皇の御肖像』に、その写真があるのだと勘違いをして古本を入手したところ、期待はずれで、すでに知っている写真しか掲載されておらず、そのまま放置していた。最近またいくつか古い史料を入手したこともあって、虫眼鏡を片手に着物の紋様やら、絨毯の模様を調べたりしたところ、件の図録から思いがけずいろいろな情報が得られたので、とりあえず古写真の件でブログ記事を書くことにした。  

 一つ目は、英照皇太后の写真として広く知られるものが、実際には明治天皇の美子妃の写真だと、より確信をもって主張するものだ。前回参照した写真集では、内田九一が明治5年に撮影したとされる明治天皇の束帯姿の肖像写真(明治神宮の図録では写真1)の周囲が切り取られていたため、下の絨毯の模様がわからなかったのだが、この図録では全体が見えたため、はっきりと確認することができた。そして、その模様は、英照皇太后の写真として、このカタログにも掲載されていた、釵子(さいし)をつけて眉毛のない女性の肖像写真(同図録の写真25)の絨毯とまったく同じだったのだ。同図録には明治天皇のこの写真が、湿板コロジオン法によるもので、ネガ硝子板が現存することや、岩倉使節団からの依頼で撮影されることになった経緯、およびそれらの情報の典拠が『明治天皇紀』であることなども書かれていた。幸い、図書館で貸し出し可能だったので、第1、2巻を借りてみると、2巻の明治5年8月5日の条にこう記されていた。 

「曩(さき)に天皇・皇后、写真師内田九一を召して各〻御撮影あり、是の日、宮内大輔万里小路博房を以て之れを皇太后に贈進したまふ、九月三日、皇太后、亦宮城に行啓せられ、九一を召して御撮影あり、十五日、九一、天皇・皇太后の御写真大小合せて七十二枚を上納す、当時の宸影、一は束帯にして、一は直衣を著御し金巾子を冠したまふ」

  図録に解説されていたように、8月5日に天皇・皇后の写真が皇太后に贈られたことから、9月3日に皇太后の写真も内田九一によって撮影されたことが確認できる。同日の条はさらにこうつづく。 

「是より先二月、特命全権副使大久保利通・同伊藤博文が書記官小松済治を随へて米国より帰朝するに際し、特命全権大使岩倉具視、済治をして御写真拝戴を宮内省に申請せしむ、宮内省は御写真出来せば直に外務省を経て之を送付せんとせしが、五月両副使再渡米の期に至りても未だ成らざりしが如し」 

 やはり図録の解説どおり、肖像写真の撮影の発端は岩倉使節団からの要請であり、5月にはまだ撮影されていなかったことがわかった。つまり、明治天皇の束帯姿の肖像写真の撮影日は明治5年5月14日以降、8月4日以前としかわからないことになる。内田九一に関する資料にはなぜ4月12・13日撮影と具体的な日にちまで書かれていたのだろうか。

 ちなみに、大久保利通と伊藤博文はこのとき、不平等条約を改正しようと意気込んで渡米したのに、「固より条約改正に関する全権委任状を携帯せず」、それを取りにもう一度日本に戻るという失態を演じており、そのことも第2巻の同年3月、5月の箇所に説明されていた。  

 ネット上では、「英照皇太后」とされる写真(25)の唐衣の文様が九条家の紋で、やはり九条家出身の貞明皇后が結婚の儀で着用した唐衣と同じと書いている記述も見られたが、九条家の紋は下がり藤らしく、昭憲皇太后の実家である一条家もよく似た下り藤なのにたいし、この唐衣の紋はどちらも五瓜に桔梗に見える。それが何を意味するのか私にはわからないが、いずれにせよ、この文様を理由に写真(25)を英照皇太后と決めることはできない。 

 明治神宮の図録には、掲載された写真の詳しい目録もあり、明治天皇の束帯姿の写真(1)は、寸法が「縦二七、横二一、五」(27×21.5cmか)、制作者が内田九一、年代は明治五年、所蔵・奉納者(年)は千葉胤茂(昭和四九)となっていた。一方、「英照皇太后」の写真(25)のほうは、「縦二七、八、横一九」(27.8×19cm)、制作者は空欄、明治時代、徳大寺米子(昭和四九)である。双方の写真の大きさはほぼ同じで、同じ明治5年に内田九一が撮影した明治天皇のもう1枚の肖像写真(2)の寸法は27×19.8cmで、さらに近い。寄贈・寄託されたのがどちらも昭和49年で、「英照皇太后」の写真に関してはとくに、明治神宮所蔵のこの1枚しか、少なくともネット上では確認できないことを考えると、この当時の誤解がいまにつづいていると考えるほうが自然だろう。図録の写真(25)は、内田九一が初めて皇居に呼ばれた明治5年に撮影された美子皇后の写真と考えるべきだ。  

 慶応2年末に崩御した孝明天皇の写真が残っていないことは周知の事実なのに、英照皇太后が東京に移る前に御所なり実家の九条邸なりに写真家を招いて写真を撮影したと考えるには、無理があるのではないか。  

 二つ目は、内田九一が9月3日に撮影した英照皇太后の写真が実際には何カットか残っていて、私が以前に入手した冊子と絵葉書に使われていた肖像写真が、いずれもこのときの作品であった可能性が非常に高いことだ。今回も特徴的な敷物がヒントになった。よく似た模様の敷物が、昭憲皇太后(美子妃)の肖像写真(13)として有名な内田九一撮影の写真にも写るが、こちらはどうやら少し厚手の絨毯のような敷物で、かたや英照皇太后の明治5年の肖像写真のものは薄手で皺が寄りやすい大きな布状のものに見える。その特徴的な敷物が、ほぼ同じ姿勢を保ちつつ、撮影の角度や表情が異なる皇太后の何種類かの写真に皺までほぼ同じ状態で写っているのだ。撮影のあいだ、皇太后は相当な忍耐力で、重い衣装を着て同じ姿勢を保ちつづけたものと思われる。よく見ると、大半のカットでは、後ろに椅子か、身体を支える器具の先端が覗いているが、私が入手した絵葉書ではそれが隠れている。  

 このときの写真として知られるものは、明治神宮の図録に収録された写真(26)を含め、大半はソフトフォーカスというか、露出過多でピントが甘い。ちなみに、写真(26)の寸法は27.81×19cmで、寄贈者・寄託者を含め、(25)と同様の情報が目録に書かれていた。 

 ところが、私が入手した『御大喪図会』第136号の写真と絵葉書(昭憲皇太后の肖像と間違えているもの)の写真は、いずれもピントがかなり合っており、とくに前者は目の窪みや、現代風にくっきりと整えられた眉までがはっきり見え、カメラのアングルが違うせいか、おすべらかしの頭頂部の窪みがなく見え、意志の強そうな大人の女性を感じさせる写真になっている。そのせいで、これは後日まったく同じ衣装で撮影されたものと思い込んでいたが、長袴の皺にいたるまでが同じなので、いずれも同日に撮影された一連の写真と考えるべきだ。『御大喪図会』には「小川一眞謹製」とクレジットが入っているが、遺影に使われたもう1枚の写真の撮影者と混同されたのではないか。若く優しく見えるソフトフォーカスのカットのほうが、英照皇太后はお気に入りだったのか、それらが名刺大の写真、カルト・ド・ヴィジットなどに焼き増しされた。  

 ここで重要なのは、ピントの合っている2枚のカットには、眉がはっきりと見えることだ。その数カ月前に撮影された美子妃と私が考える写真(25)には眉が見えないので、明治5年9月3日撮影の英照皇太后の写真が、本邦初の眉有り既婚女性写真ということになるのではないだろうか? 日本の近代化に向けてみずから行動で示した皇太后の強い意思の表われ、と私は思う。  

 三つ目に、明治神宮の図録は、内田九一撮影の昭憲皇太后(美子妃)の写真(13)を明治5年撮影としているが、これも間違いと思われる。この年の3月に明治天皇が断髪し、10月8日に新制軍服姿で撮影された有名な肖像写真と対にしてよく使われた、くっきりと眉の見える皇后の写真だ。この写真を、明治5年撮影の皇后の写真と思い込んだことからの誤解ではないか。  

 これと同じ写真に手彩色を施した写真が神奈川県立歴史博物館に所蔵されており、図録『王家の肖像──明治皇室アルバムの始まり』に写真10として掲載されている。寸法もほぼ同じだが、明治6年とされ、画像は明治神宮所蔵のものよりずっと鮮明だ。同図録には、『明治天皇紀』の明治6年10月14日の条が引用され、「皇后午前十時御出門、吹上御苑に行啓あり、先ず御梅茶屋に御小憩、尋いで写真場に入りたまひ、和装にて撮影あらせらる」とし、そのあとにこう付け足す。「この軍装の天皇と和装の皇后の写真は市中に出まわった。それらが現在もあちこちで確認できるということは、相当数が売られていたことになる」  

 まだ天皇髷のあった明治天皇の2枚の肖像写真に比べて、軍装の明治天皇の写真も格段に鮮明であり、皇后の写真と同じ絨毯の上で、同様のやや高めのアングルから撮影されている。宮内公文書館には洋装姿の明治天皇の写真とセットで保管された史料(32240)があり、皇后の写真は明治5年撮影としているが、神奈川県立歴史博物館の解説のほうが正しいと思われる。  

 明治6年に内田九一が撮影した軍装写真を最後に、写真嫌いだったと言われる明治天皇の肖像写真は撮られていない。御真影として全国の小学校などにも配られ、最敬礼が教育勅語で定められていたキヨッソーネによる肖像画は、『皇族・華族古写真帖』(新人物往来社)によれば、「天皇お食事の隣室控え襖を隔てて正面よりの御姿をスケッチさせた」もので、その後、キヨッソーネが「天皇の正装を借り受けて自らモデルになり、スケッチ画を元に精密なコンテ画を描き上げ」、写真師・丸木利陽が数十日かけて撮影したという。

 明治31年に失火により御真影を焼いてしまった上田の尋常高等小学校の校長で、作家の久米正雄の父は、責任を負って割腹自殺したと、ウィキペディアの御真影の項に書かれていた。天皇の肖像写真はそれほど神聖視されたのに、皇后や皇太后の写真は撮影当時こそスターのブロマイドのごとくありがたがられたものの、その後は宮内省すら長く顧みないものとなったのだろうか。敗戦後、御真影は焼却処分にされたとも、同じ項に書かれていた。

(左)昭憲皇太后の崩御時に発行された絵葉書(英照皇太后の写真が間違って使われている) 

(右)『御大喪図会』第136号に「小川一眞謹製」とされていた写真

明治5年、内田九一撮影の明治天皇・皇后の写真と思われるものの敷物比較。『五箇條の御誓文発布百三十年記念展』明治神宮刊より

「英照皇太后」と貞明皇后の唐衣の紋比較
(上)『天皇4代の肖像:明治・大正・昭和・平成』(毎日新聞社)に、「英照皇太后」として掲載された写真
(下)同書から、「結婚の儀 貞明皇后」の写真

英照皇太后と昭憲皇太后の写真の敷物比較。『五箇條の御誓文発布百三十年記念展』明治神宮刊より

2021年7月9日金曜日

謎の建築家ブリジェンス その2

 ブリジェンスは、居留地の実力者ショイヤーとの縁故、あるいはヴァルケンバーグ弁理公使のつてで、主要な建築物の仕事を手がけることができたと一般には言われてきた。しかし、彼の仕事の多くがイギリス関連のものであったのに、この2人はどちらもアメリカ人で、接点となった期間も短いことを考えると、これらの縁故だけではなかったのではないか、という疑問が湧く。  

 リチャード・ブリジェンスの名前で検索すると、南米沖にあるトリニダード・トバゴの植民地を描いた絵が数多く見つかる。これらの絵の多くは、ブリジェンスの父で、建築家、家具職人、作家および画家であったリチャード・ヒックス・ブリジェンスが、自著『西インドの情景』のために描いた挿絵で、奴隷制の実態が描かれた作品として近年注目されている。ブリジェンスの母マリアが、イギリス植民地だったトリニダード島の砂糖きび農園を相続したため、1820年8月17日にロンドンで洗礼を受けた長男リチャード・パーキンスと、1825年生まれの男女の双子を連れて、一家はこの年に移住した。ブリジェンス家にはさらに3人の子供が生まれたことなども、ネット上の祖先探しのサイトなどからわかる。なお、横浜外国人墓地の墓標によれば、幕末の日本に来日したリチャードは1819年4月19日生まれである。 

 父同様に多才だった息子リチャードは、弟ヘンリー・フレデリックとともにアメリカでしばらく地図製作やリトグラフによる印刷業を営んでいた。リチャードは1854年にはサンフランシスコの初期の市街図を作成したほか、フォート・ポイントの設計にもかかわった。その後、1865年になって妻子を追うように、彼もサンフランシスコから太平洋を渡って日本にやってくるのだが、不思議なことに彼の名前は1867年になってようやく在留外国人人名録である『ジャパン・ディレクトリー』に居留地124番、建築家および土木技師として見つかるという(Meiji-Portraitsの彼の項より)。ところが彼はその年の9月には山手120番地に完成したイギリス公使館と、翌年8月に竣工した築地ホテル館を設計しているのだ。どちらもオールコックに代わって1865年6月に赴任したイギリス公使のハリー・パークスと幕府間の取り決めで推進された建設プロジェクトで、前者は浅海を埋めて最初の鉄道を通した高島嘉右衛門が、後者は清水建設の創業者の婿養子の二代目清水喜助が施工している。  

 来日後1年やそこらで、まだ定職もないような時期にブリジェンスが大きな仕事を受注できた背景には、ショイヤーの急死後に遺言執行者に彼が指定され、ショイヤーが「今日流のいい方をすれば、土地ころがしで財を成していった」(澤譲著、『横浜外国人居留地ホテル史』)人物であったことは何かしから関係するだろう。また、1866年暮れに横浜の居留地では豚屋火事という大火事があって、ちょうど建設ラッシュであったことも無関係ではないはずだ。しかし、それだけではない。彼について書かれたわずかばかりの記述はなぜか写真史と関係するものが多い。

「その1」でも引用したように、『写真事歴』にはこんなことが書かれている。 「米人ショーヤの妻の妹婿ビジンなる者製図師にして、石板の術を知る。蓮杖これと交を結び、其勧誘に従い、石板機械を購求し、且つ其術を伝習せり」。ここから、ブリジェンスが写真師の下岡蓮杖にリトグラフを教えたことがわかる。  

 この前段には、蓮杖がショイヤーの妻アナに日本画の手ほどきをしながら、油絵の描き方を教わっていたことや、写真術をどう習得したかが書かれている。「是より先き米国の写真師ウンシンなるもの始めて本邦に渡来し、ショーヤの家に寄寓せしかば」、蓮杖がこれ幸いにと写真術を習おうとしたことも書かれている。だが、「言語通ぜず、且つウンシン吝で秘して教えざること多く」、なかなか学べなかったという。このウンシンは、ジョン・ウィルソンという、プロイセンのオイレンブルク使節団に写真家として雇われたこともあるアメリカ人で、この使節団で通訳を務めた際に暗殺されたヘンリー・ヒュースケンの遺体写真を撮影したことで知られる。ウィルソンはその後、文久遣欧使節とともに1862年1月に離日した。 

『写真事歴』にはつづけて、「横浜在留の宣教師の女ラウダなるもの、亦ウンシンに就て写真術を学べるより、蓮杖これを拮頑してほぼ其術を窺うを得たり」とも書かれている。「拮頑」は強引に迫って、という意味だろうか。これより15年後に書かれた『横浜開港側面史』には、無名の一老翁談として、「米国婦人ラウダと云う人から写真術の秘法を教えて貰った」としていた。  

 宣教師の女ラウダは、横浜開港直後の1859年11月に来日し、成仏寺にいたアメリカ・オランダ改革派教会所属の宣教師、S・R・ブラウンの長女ジュリアのことだ。ブラウン師の家族はしばらく上海にいて、1860年になってから来日した。成仏寺の前にブラウン一家がヘボン夫妻らとともに写るステレオ写真が写真史家のテリー・ベネットの『PHOTOGRAPHY in Japan』に掲載されており、1840年マカオ生まれの若いジュリアも写っている。  

 このジュリアが1862年9月に結婚した相手がジョン・フレデリック・ラウダーだった。ウィルソンが離日した時点ではまだ結婚前なので、ブラウン姓だったはずだ。だが、父のブラウン師はフィリップ・ペルツ師に、「イギリス領事館勤務の英国紳士」である結婚相手のラウダーについてこんなことを書いている。「この人は前の江戸駐箚イギリス全権講師で、いまイギリスに帰任し、最近ナイトの位に列せられたラザフォード・オールコック卿の後妻ミセス・ラウダーの連れ子です。[……]なお、ラウダー氏は、上海の最初のイギリス領事館付牧師の息子です。この牧師は上海に赴任してから、一年後に、夫人と三人の息子と三人の娘とを残して、海で溺死しました」(『S・R・ブラウン書簡集』)。  

 なんとも複雑な関係だが、ベネットが成仏寺の写真に関連して、こんな逸話を紹介している。ラウダーは上海で牧師の父を亡くし、未亡人となった母がオールコックと再婚することになったため、イギリス外務省領事部門の通訳生として17歳で来日した。そこで第一次東漸寺事件に遭遇し、拳銃をもって継父となる公使の護衛に務めた。この若い通訳生が3歳年上のジュリアを妊娠させたため、居留地内で大スキャンダルになり、周囲は2人をそれぞれの祖国へ帰国させようと試みた。しかし、若い2人は結婚を決意して、赤ん坊が生まれるわずか48時間前に夫婦になった、というものだ(F・Parker、Jonathan Goble of Japanからの引用)。  

 そんな意外な事実が判明しても、下岡蓮杖がジュリアから写真術を習ったのがいつの話だったのかはっきりしないし、オールコックとジュリアの関係が見えてきても、それがブリジェンスにどうつながるのかは不明だ。ラウダーはその後、長崎の領事館で書記官となり、1868年1月には大坂の領事代理として、アメリカの海軍少将の海難事故についてヴァルケンバーグとやりとりしていたことなどが確認される。ラウダーは明治初期に横浜の領事代理もしばらく務めたが、1870年に土佐藩士5人の付き添いも兼ねて一時帰国し、法廷弁護士の資格を取って1872年に横浜に戻り、イギリス外務省を辞任して明治政府のお雇い外国人となり、横浜税関の法律顧問に就任した。1870年に、現在の横浜開港資料館がある場所に完成した横浜領事館や、1873年に竣工した横浜税関、および土佐の後藤象二郎の蓬莱社の建物などは、横浜ユナイテッド・クラブの会長なども務めたラウダーが何かしらかかわっていそうだ。  

 結局のところ、ブリジェンスがどうやって横浜で地歩を固めたのかは残されたわずかな証拠から推測するしかないが、イギリス公使館という大きな仕事を受注できたことは運の始まりだった。横浜の山手に建設されたイギリス公使館は、江戸の高輪接遇所と併用されたとはいえ、パークスが拠点とした場所であり、1868年の4月には江戸開城を前に勝海舟も西郷隆盛もここを訪れている(萩原延壽著、『遠い崖、江戸開城』)。  

 ブリジェンスがイギリス公使館と築地ホテル館で使ったナマコ壁は、「木造の壁体の表面に平瓦を張りつけ、目地──継ぎ目──に漆喰を盛り上げる」江戸時代からの左官技術で、「ふつうの土壁より風雨にも火にも強」い。「工費のかさむ木骨石造の代りにナマコ壁を使って火に強い木造西洋館を手早く作ってみせ」、その結果、「ナマコ壁の西洋館という和洋折衷スタイルを編み出した」(藤森照信著、『日本の近代建築──幕末・明治篇』)。蒸し暑い気候に適したベランダと鎧戸のあるコロニアル様式も、現地の建築を取り入れた折衷案も、トリニダードという西洋の通常の建築資材が容易に手に入らない植民地で育った彼の経歴が、何かしら影響したに違いない。  

 ミヒャエル・モーザーの写真で『ファー・イースト』の表紙を飾った山下町のイギリス領事館は、木骨石貼りという工法で、耐火性を高め、見た目は石造建築という工法で建設されたが、不恰好だとして不評だったらしい。私が祖先探しを始めて最初に読んだヒュー・コータッツィの著作『ある英人医師の幕末維新』の表紙には、この建物を描いた歌川国政作とされる横浜絵が使われていた。 

「その2」を終えるに当たって最後に一言付け加えておく。ラウダーは1902年1月に死去して外国人墓地に葬られた。この年の11月22日付の『ジャパン・ウィークリーメイル』に、ジュリアが43年間、住みつづけた日本を永久に後にし、イギリスへ渡ったという記事あることを、ジュリアについて散々やりとりしたアメリカの歴史家から教えられた。彼女が乗船したイギリスの蒸気船ドーリック号はハワイ経由サンフランシスコ行きなので、アメリカへ帰国した可能性もある。ラウダーの墓は草木が生い茂ってしまっているが、四角く縁取りされた壁面にジュリアの名前と生没年が刻まれているので、1919年8月18日に死亡という通知だけがもたらされたのだろうか。  

 ブリジェンスに関しては、肝心の町会所をはじめ、いくつか書いていないことがあるので、また追い追い記事にしたい。

(上)Far East、1870年8月1日号に掲載された山手120番のイギリス公使館 
(下)『横浜浮世絵』(有隣堂)より。「横浜高台英役館之全図」喜斎立祥(二代広重)明治2年



Far East、1870年8月16日号に掲載された築地ホテル

1870年に建設された横浜のイギリス領事館。Far East、1871年7月11日号の表紙に使われた。

2021年7月2日金曜日

謎の建築家ブリジェンス その1

 横浜の開港史と深く関わった建築家リチャード・パーキンス・ブリジェンスについて、以前にもコウモリ通信に書いたことがあったが、少し前に現在の開港記念会館の場所にあった町会所の時計台について調べ直したこともあって、重い腰を上げてブリジェンスについてまとめることにした。かなり込み入っているので、すでに忘れかけている記憶をたどり、調べ直しながら数回に分けて書くことにする。  

 汐留に、ブリジェンス設計の初代新橋停車場を2003年に再建した建物があることは、多くの方がご存じのことと思う。当時の石段などを活かしながら復元され、鉄道歴史展示室とレストランになっている。汐留の再開発で見つかった新橋停車場の遺構の上に、古い写真をコンピューター分析して寸法などを割りだす先端技術を使ったものという。この初代新橋駅の近くには、ブリジェンスが設計した後藤象二郎の蓬莱社があり、蓬莱橋と呼ばれた石橋もあったはずだが、いまではその名を残す交差点しかない。ここにある陸橋から眺めると、ガラス張りの高層ビルに囲まれて、所在なさげな旧新橋停車場の全容がようやく見える。  

 ブリジェンス設計の建物で現存するものは残念ながらない。二代目神奈川県庁舎となった建物の門柱だけが、あじさいの里という瀬谷区の個人宅の門として残っている。ただし、上のランプは戦時中の金属供出で失われ、戦後につくり直したものという。『ファー・イースト』誌に掲載されたこの建物は、もともと1873年に横浜税関庁舎として建てられ、その後、税関がもっと港寄りに移転したため、前年に火災で庁舎(横浜役所と呼ばれていた)を失っていた神奈川県に1883年に譲渡された。  

 以前の記事でも書いたように、ブリジェンスが横浜にあったイギリスの公使館や領事館など、数多くの明治初期の西洋建築の設計を手がけることになった背景には、彼をめぐる複雑な人脈があった。初回は、横浜の競売人だったラファエル・ショイヤーとその妻アナとの、比較的よく知られた関係についてまとめたい。  

 ショイヤー夫妻ついて調べているうちに見つけた史料が開港直後に来日したオランダ商人デ・コーニングの書だった。これはあまりに面白かったので企画をもちかけ、『幕末横浜オランダ商人見聞録』(河出書房新社)として翻訳出版させていただいた。来日当時、アナは30歳前後の美人で、それまで居留地にほとんど西洋人女性がいなかったこともあって、パリの最新流行のドレスに身を包んだ彼女を一目見ようと、居留民も日本人も寄ってたかって眺めたという滑稽なエピソードが同書では紹介されていた。デ・コーニングは彼女のことを、「とびきり美しいスペイン系アメリカ人のクレオール」ではないかと思ったようだが、実際にはアナは1827年、アイルランドのロンドンデリー生まれだったことが、フロリダ州ジャクソンヴィルにある彼女の墓標からわかる。  

 開港当初、このショイヤー夫妻が住んでいたのは、ペリー上陸のハイネの絵に描かれた「玉楠」のすぐ裏手にあったアメリカ25番で、玉蘭斎(歌川貞秀)の大絵図には「画ヲ能ス女シヨヤ住家(ホイス)」と書かれていた。玉蘭斎は1860年に「玉板油絵・大胡弓・笛・二線」という題名の西洋美人の絵を描いているほか、『横浜開港見聞誌』(国会図書館では「横浜文庫」)でも、同一人物ではないかと思うアメリカ婦人の絵を複数描いており、いずれもモデルはショイヤー夫人のアナではないかと私は推測している。日本人画家たちと交流のあった女性だからだ。  

 この「米人ショーヤの妻の妹婿ビジンなる者製図師にして石板の術を知る」と、写真家の下岡蓮杖について『写真事歴』(山口才一郎著、1894年)に書かれていたことから、アナの妹が、ビジン、つまりブリジェンスの妻ジェニーだったと考えられている。ブリジェンスの名前は、耳で聞きとれる音と綴りが一致しなかったためか、表記が定まらず、彼が忘れ去られた一因はそこにもあったようだ。下岡蓮杖は、ハリス領事の通訳だったヘンリー・ヒュースケンに下田で写真の原理を習ったあと横浜にきて、このユダヤ系アメリカ人のショイヤーのもとに手代として住み込んでいた。  

 ブリジェンスが横浜にきたのはショイヤー夫妻の来日より数年後のことで、日本には、1864年4月30日に夫人のジェニーと子供がまずサンフランシスコからやってきたことが『ジャパン・ヘラルド』紙から判明している。同じ船でE・ショイヤーという人物も来日しているので、幼児連れで太平洋を横断する若い母親の付き添いだったのかもしれない。翌年の3月25日付の同紙の乗客リストに、ブリジェンスという名前があるため、彼自身は1年遅れて来日したようだ。  

 夫人のジェニーは町会所が焼失した翌年の1907年まで生き、亡くなった際に『横浜貿易新報』に「横浜開港以来女子建築家として夙に在留外人間に知られたるブライトゲン夫人」という死亡記事が掲載されていた。ブライトゲンは、もちろんブリジェンスである。姉のアナは高橋由一などに絵を教えたことで知られるが、妹のジェニーも「夫ブライトゲンに死別れたる後は健気にも女子の腕にて専ら夫の事業を引継ぎ家屋の築造設計の業を営」んだという。1983年にこの古い新聞記事をもとに墓を探し当てた横浜開港資料館の堀勇良氏が、「謎のアメリカ人建築家」という記事を『市民グラフヨコハマ』第46号に書いたときは、まだどうにか墓碑銘が読み取れ、そこには「R. P. BRIDGENS BORN 19TH APRIL 1819 DIED 9TH JUNE 1891」とあり、別の面には「JENNIE M. BRIDGENS」の刻字が読めた。しかし、私が何度も外国人墓地をうろついて2018年にようやく墓石を見つけたときには、表面はさらに風化してかろうじてRとBRIDGENS、DIEDの文字が読める程度になっており、上に立っていたはずの相輪のような突起物も落ちていた。  

 ブリジェンスが来日した年の8月21日に、ラファエル・ショイヤーは居留地三次会の初代議長に選出され、その席上で「大演説の終了直後に心臓発作で急死した。享年六十六歳であった」と、藤倉忠明氏の『写真伝来と下岡蓮杖』には書かれていた。ショイヤーは横浜外国人墓地の22区に葬られている。「ショイヤー夫人の館にショイヤーの遺産管財人として居留する建築家ブリジェンス」とも、同書には書かれており、ラファエル・ショイヤーの事業の処理を、ブリジェンスが引き受けていたことが窺われる。「建築絵画師のビギンと云ふ人から、始めて石板印刷術を習ひました」と、『横浜開港側面史』で蓮杖本人も語っている。

 翌1866年1月にアメリカの弁理公使として元北軍の将軍ロバート・ブルース・ヴァン・ヴァルケンバーグが赴任してきた。任期は短く、1869年11月には離日しているが、その間に幕府が発注した軍艦ストーンウォール(甲鉄艦、のちに東艦)を、戊辰戦争勃発による局外中立を理由に引き渡さず、1869年2月になって薩長軍側に斡旋したことで知られる。  

 幕府に対抗できるだけの軍艦を購入したいと焦る薩摩の五代友厚と寺島宗則に、「諸外国に局外中立を要求する通牒をすぐに発するよう助言した」のはサトウだった。「そうすれば、アメリカ公使が〈ストーンウォール・ジャクソン〉を徳川側に引き渡すのを防げるし、回航待ちのフランスからの二隻の甲鉄艦も食い止められるからだ」と、『一外交官の見た明治維新』には書かれた。同艦と対抗できるのは「この近海では英国の甲鉄艦オーシャン号あるのみ」という状況で、「大君がストーン=ウォール号を手に入れる場合、ただちに制海権を獲得するであろう」ことを危惧したと石井孝氏は『増訂明治維新の国際的環境』に書いていた。ストーンウォール号は、私の遠縁の若者が戦死した箱館湾海戦では旗艦となった。

 そのヴァルケンバーグの夫人アナの旧姓がショイヤーなのを発見したときは唖然とした。ネット上で見られる家系図調査のいくつかのサイトの情報からは、彼らが1867年11月25日に横浜で結婚したことがわかる。ヴァルケンバーグも最初の妻を1863年に亡くしていた。アナは夫ラファエルの死後、この弁理公使と再婚して、アメリカにともに帰国したのである。横浜の墓地にラファエルのみが眠っている理由がこれでわかった。  

 ここまでのことは、私が以前に調べ、当初は『埋もれた歴史』に書くつもりだったものの、大幅に削らざるを得なかった原稿の一部だった。しかし、ネット上の情報は歳月とともに驚くほど増える。今回、原稿を書くに当たって再度、典拠や文字、数字を確認するため検索をかけていたら、少々驚くべき新情報を見つけた。外国人に日本を教えるためのブログに、「米国と〈サツマみかん〉」と題して書かれていたなかに、ヴァルケンバーグ夫妻(記事ではヴォルケンバーグと記載)が九州を旅した際に日本の温州みかんを食べ、夫人のアナがそれを大いに気に入ったため、日本から帰国して9年後に苗を取り寄せて、サツマと名づけて1878年からフロリダ州で栽培を始め、それがアメリカ南部でこのみかんの栽培が始まった最初だというのだ。もう一説あることも紹介されており、それはなんと、横浜の開港当初にいた重要人物ジョージ・ホール医師が、1875年に日本を再訪した際に入手した温州みかんの苗を翌年から栽培しだしたというものだ。ジョージ・ホールがかなりの植物採集マニアだったのはよく知られているので、どちらも事実だろう。サツマの名称を誰がつけたかについては、イギリス編も書かれていたので、後日読んでみたい。もっとも、この記事を書いた方は、アナの驚くべき経歴は調べなかったようだ。  

 ネット上にはほかにも、1870年春にヴァルケンバーグ家の人びとが親族の金婚式に集まったときの集合写真も掲載されており、写真のなかのアナは、相応に年を取ってはいるが、まだ豊かな黒髪を結いあげ、玉蘭斎の絵にあるようなたくさんのフリルのついたドレスを着て写っていた。  

 次回はさらに複雑な人間関係を解さなければならないが、ブリジェンスについて知ることは、幕末・明治の過渡期の居留地をめぐる人間関係を知ることでもあるので、引きつづきお読みいただければありがたい。

 町会所、『横濱銅板畫』より

 新橋停車場、明治40–大正7年

横浜の三代目大江橋(1922年7月竣工)。奥に見えるのが横浜駅。翌年の関東大震災で大きく損傷する前の撮影。

 横浜税関、『FAR EAST』より

 あじさいの里、2017年9月撮影

『横浜開港見聞誌』国会デジタル図書館の「横浜文庫6編、[3](右)、[4](左)

横浜外国人墓地のブリジェンス夫妻の墓、2018年2月撮影

 同、ラファエル・ショイヤーの墓、2017年9月撮影