2018年11月29日木曜日

『動物たちのセックスアピール』

 9月のコウモリ通信に書いた性選択の本が、どうにか無事に『動物たちのセックスアピール──性的魅力の進化論』という邦題で河出書房新社から刊行された。原題はA Taste for the Beautiful—The Evolution of Attractionという。濃いピンクの帯に白抜きで書かれた「魅力」の文字に、キラリンとばかりに星がついていることに、いまごろになって気づいた。最近は科学書のコーナーが棚の片隅にしかない本屋さんも多いが、うちの近所の本屋さんはこれまでに何度か宣伝をお願いしたこともあったせいか、数冊平積みしてくれていた。地元の応援は何よりもうれしい。  

 この本は一般の読者向けに平易に書かれた進化生物学の本なので、訳すに当たって著書の意図を測りかねるようなことは少なかった。それでも、生物の生態の細かい状況や実験の手順の説明などは、文字だけでは正確な状況が思い描きにくく、毎度のことながら大量の動画や論文を検索して参照した。インターネットのおかげだといつも感謝しているが、その分、誰でも簡単に検索できるわけだから、訳者がその手間を惜しめば、すぐに誤訳と指摘されてしまう。  

 今回はニワシドリ科の鳥の求愛の動画をいやというほど視聴したし、特殊な羽の形状に関する説明があったキガタヒメマイコドリの論文もずいぶん探した。左右の翼の一部の羽軸が棍棒状に太くなっていて、そのためにClub-winged Manakinと英語では呼ばれる鳥だ。この鳥にはもう一本、先端部が反り返った羽があり、左右の翼を頭上に高く上げて高速でぶつけ合う際にこの反り返った羽が、棍棒状の羽軸にあるギザギザの畝をこすり、ピッピーッと甲高い音を鳴らす。翻訳中にこの鳥の研究者ボストウィクによる動画や論文をかなり見たつもりだったが、今回このエッセイを書くために改めて探すと、別のもっと詳しい動画が見つかった。それによると、棍棒状の羽は次列風切りの6番と7番で、先端が反り返った羽は5番だった。しかも、左右の翼を毎秒107回という高速でぶつける際に5番の羽が同じ翼内の6番の羽の7本の畝を往復でこすり、107x14=1498回という振動数になり、それが計測すると1.5kHzのバイオリンのような音となるのだと説明していた。本書の著者は反対側の翼の羽とぶつかると解釈しており、私もそう訳したのだが、それはまあ仕方がなかったか。今回の動画でも、やはり畝があると思われるもう1本の棍棒状の羽、つまり7番に関する説明はなかったので、仕組みが完全に解明されたわけではないのかもしれない。  

 こうしたことは、本書のなかではわずか2文の説明があっただけなのだが、私は大いに悩まされた。一連の畝をこすって音をだすということすら、最初は意味がわかりかねた。考えた末に浮かんだのが中南米のギロという楽器だった。ひょうたんなどに刻み目をつけ、棒でこすって音をだす打楽器だ。ウィキペディアの英語版でこの楽器の説明を見ると、アステカ族がオミツィカワストリ(omitzicahuastli)という類似の楽器を使っていたことや、それが小さな骨に刻み目を入れたものを棒でこする楽器だったことなどが書かれていた。ひょっとして、誰かが森でキガタヒメマイコドリの羽を拾い、そこからヒントを得たのではないか。そう思ってちょっと調べてみたが、アステカ族はメキシコ中部が本拠地で、キガタヒメマイコドリの分布はエクアドル北西からコロンビアのアンデス山脈西側であるようなので、残念ながら両者を結びつけるのは、誰かが遠くまで旅をしたのではない限り、やや無理がありそうだ。  この本のテーマである性選択の理論は、性的二形がなぜ進化したかを解明するものなので、そこにはまず雌雄ありきという大前提がある。著者によれば、性差は生殖器ではなく、配偶子、つまり精子と卵で見分けられるのだという。その配偶子のサイズとそれをつくるためのコストが雌雄をそれぞれに変化させる。雌の卵は限られた資源だが、雄の精子は数時間で補給でき、大半の配偶システムでは、繁殖可能な雄がいつの時点でも余るようになる。そのため、雄はつねに競合相手に勝とうと鋭意努力することになり、それが性的な美を進化させることにもつながったという考えだ。  冒頭からのこうした説明は非常に説得力があり、第2章に「雄ならばできる限り多くの相手を得ようと努力するはずだ。つまるところ、彼らは雄ではないか?」と書かれたくだりでは、私はとくに問題も感じずそのまま訳していた。ところが、校正者はそこに疑問を覚えたようだ。なぜそう言えるのかと。  

 じつは現在、またもや性に関する本を翻訳中なのだ。『動物たちのセックスアピール』がテキサス大学オースティン校の性選択分野では著名なマイケル・J・ライアン教授であるのにたいし、今度の本は若いインド系イギリス人女性科学ジャーナリストによるもので、従来の進化生物学のあり方そのものに挑む内容となっている。もちろん、進化論を頭から否定して人類はアダムとイブから誕生したと主張するような書ではなく、フェミニズム的な立場から性差という考えそのものに疑問の目を向けるものだ。それどころか、ダーウィンも所詮、ヴィクトリア朝時代の社会の風潮に染まった人であり、性差別主義者だったと指摘するのだ。フェミニズムもジェンダー問題も私にとってはまったく新しい領域なので、またあれこれ読んでいる。そのなかで、配偶子のサイズから男はいくらでも精子を提供できるため好色で、相手構わずとなり、女は卵子が希少なので、えり好みをして最もよい相手とのみ関係をもち貞淑だと考えるのは間違っていると主張する生物学者すら、最近ではいることを知った。これでは、ライアン教授の最初の前提が崩れることになる。校正者が疑問をいだいたのは、もっともだったのだ。  

 役者は、悪役を演じるときも舞台の上ではその役になりきるのだろうが、訳者も一冊の本に取り組んでいるあいだは著者の思考に寄り添い、いわば著者に成り代わって語らなければならない。性選択の理論は数カ月にわたって苦労しながら理解してきたものだが、いまはその根幹を揺すぶられているような気分で、正直言って頭のなかは混乱気味だ。性選択の理論に興味がある方だけでなく、ジェンダー問題に関心がある方も、ぜひまずこちらの本をお読みいただき、来年、次の本が刊行されたら、双方を読みくらべていただきたい。