2023年5月28日日曜日

遺品整理

 母が急逝して1カ月余りで、UR都市機構の賃貸を引き払ってきた。週末ごとに都合をつけて何人かで集まって片付け作業をして、16年間、母が工夫を凝らして独り暮らしをしていた痕跡を一つひとつ消していった。最終日の昨日は業者をお願いし、エアコンの撤去や、冷蔵庫や食器棚など大きなものの運びだしをしてもらい、あっと言う間にもぬけの殻となった。

 遺品整理をするなかで、いくつもの発見があった。母は最後まで地域の活動をいろいろやっていたので、資料や帳簿類、現金、鍵などをあちこちに引き継がなければならなかった。生協の脱退手続きをした際に見つけた組合員証の加入日は1973年11月28日だった。母は生協が始まる以前の卵の共同購入のころから、長年にわたって生協の会員だった。私が子どものころは近所の本屋さんが何種類かの月刊誌を配達してくれていたが、母は晩年になっても岩波の『図書』だけは購読をつづけており、何年間分もを処分しなければならなかった。  

 ベランダにはたくさんの鉢が残されており、その一部は大叔母か祖母の友人から株分けしてもらったクンシランやコモチオーニソガラムだった。玉ねぎにしか見えず、やたら増える後者は引き取り手がなかったが、高校生のころに描いた戯画を長いこと祖父母宅に飾ってもらっていた思い出深い植物なので、小さいものを一鉢引き取ることにした。ネット検索してみたらどちらも南アフリカ産の蘭で、玉ねぎのほうも花が咲くらしい。そう言えば、地味な薹が立っているのを見たことがあるかもしれない。  

 大きな発見の一つは、祖母が『十年会会誌』という祖父の同窓会誌に寄稿した追悼記と、推敲の跡がよくわかる手書き原稿だった。「二女[うちの母]が小学校の頃に、学校の代表でピアノを放送(まだテレビはなく)した事がありましたが、私などはミスをしたらと、ドキドキして聞いておりましたが、主人は、ラジオの前にすわって涙をボロボロと流しておりました[……祖父は]それまでピアノなどさわった事もないのにバイエルを練習しはじめました」などと、書かれていたのだ。ピアノで生計を立て、75歳まで教えつづけた母の源泉はここにあったかと、読んでこみあげるものがあった。 

 几帳面な母は確定申告のために細かく帳簿を付けており、最後の生徒がやめたときは「3月で終了」と一言書き、そこで帳簿は終わっていた。その生徒のお母さんが私の高校の同級生で、その後も何かと母の面倒を見てくださり、葬儀にもお嬢さんときていただいたうえに、金杉小学校の「ひまわり憩いの広場の会」の手作りひまわり油を、母の死後に5本も届けてくださった。母は毎年、この油や梨を頂戴していたようだ。彼女の友人で、やはり私の高校同級生夫婦のお二人が、今年正月に母のために買い換えたばかりの安物の洗濯機を活用してくださる方を見つけ、週末に引き取りにきてくださったときには驚いた。 

 母がまだ入院中に、戦後すぐに曾祖母の親戚が書いたと思われる手紙や、古めかしい黒い手帳も見つけていた。手帳のほうは母の字ではなさそうだと思ってよく見たら、「関西修学旅行記(大正十四年十月五日−十日)」とあり、どうやら祖母の高校時代のものらしい。奈良・京都・琵琶湖周辺の地図とともに、各訪問地の説明が細かく書き込まれていた。その手帳の後ろのほうの1ページが、これは母の字だとわかる筆跡で小遣い帳に使われていた。「12. 11、 6円50銭、ルース台風義援金」にという項目から察するに、1951年、母が16歳の1カ月の小遣い帳らしい。1カ月に2回も「キャラメル二ヶ」を40円で買っているほか、本代(たけくらべ、50円、解析Ⅰの研究、220円)、新聞代5円、レントゲン代10円など、高校生にしては不思議な出費もあった。

 緩和剤で昏睡していた母の病床には、数日おきに島津製作所の簡易のレントゲンの機械が運ばれてきていたし、病室にもち込んで校正していたゲラには、キュリー夫人がレントゲンを医療用に実用化させたことなどが書かれていたので、何やら不思議な因縁を感じた(余談ながら、島津製作所のロゴマークの丸に十文字は薩摩の島津家から使用を許可されたものだが、血縁ではないらしい)。 

 母の家がなくなると、私や娘にとって生まれ故郷の高根台に行くことも少なくなるだろう。母が新聞記事を見つけたことをきっかけに、大晦日の晩には近所の飯山満の光明寺まで除夜の鐘をつきに行っており、娘はその体験をもとに絵本『じょやのかね』(福音館)を制作していた。孫はまだ幼く、真夜中に30分近く歩くのは厳しいと判断して去年の大晦日のお参りも見送ったのだが、そのことが心残りだと娘が嘆いていた。母は数年ほど前から、くたびれるので行かないと二年参りには参加しなくなっており、この正月はやはり徒歩30分ほどの滝不動への初詣にも行かなかった。 

 大量の食器や調理器具を整理するなかで、母が栗きんとんをつくるのに使っていた鍋やお重は、みんなにとってとりわけ思い出深いものだったようだ。食事には人一倍こだわる母だったので、どの食器もそこに盛り付けられていた母の料理を思いだすため、捨てにくかった。 

 葬儀屋さんに頼んであった位牌を受け取りに行きながら、四叉路にある地元では有名な高根木戸道標の脇を通った。「中 大穴みち」(大穴道)、「右 大もりみち」(古和釜)、「左 じんぼう新田道」(神保道)、正面上部には弘法大師が刻まれているらしく、文化5年の道標だ。この道標の先、北側が幕府の牧だったというから、私はそこで育ったことになる。 

 小学校からの通知表とともに見つかった私の母子手帳には、船橋の海神町5丁目と読める産婦人科の住所が記載されていた。私が生まれる直前に中野区鷺宮から高根台団地に越したようで、当時は家に電話もなく、高根木戸の駅まで電話をかけに行ってタクシーを呼び、未舗装だった道標の立つ道路を揺られながらいちばん近い産院まで行ったのだと聞かされていた。 

 死後の諸々の手続きや引越し作業、校正に加えて、頭の痛い問題もあり、母の死を悲しむ間もなくこの1カ月は過ぎてしまった気がする。管理事務所まで歩いて行く道すがら、昔の団地のように小さいシロツメクサが一面に咲く草地を歩いた。建て替え時に大きく土を入れ替えたと思われる場所では、ブタナやユウゲショウなど丈の高い外来種が咲き乱れており、娘が子どものころから見かけるようになった丈の低い外来種のオキザリスやニワゼキショウは、隅に追いやられていた。団地がまだ残る一画も、外壁が見慣れない色に塗られており、外国人居住者にわかり易いようにするためか、TAKANEDAI DANCHIの何号棟と書き込まれていた。

 再校正や納骨を終え、お知らせをし損ねている母の友人・知人に連絡を終えるころには、母のいない新しい日常に慣れているのだろうか。

母の追悼アルバムをつくるために写真探しをしたなかで、この1枚がいちばん堪えた。八ヶ岳の山を一緒によく登り、原村のカナディアンファームでみんなでよく食事をした

母の大学の卒業アルバムにあった写真

私が描いたコモチオーニソガラムの絵

 祖母の修学旅行時の手帳

 母の小遣い帳

 高根木戸道標

 高根台の草地

 高根台団地(2023年5月撮影)