2015年9月30日水曜日

錦の御旗

 あれは錦の御旗が揚がったのだと、安全保障関連法が成立した瞬間に思った。「宮さん、宮さん、御馬の前にひらひらするのは何じゃいな」と歌われた錦の御旗は、慶応4年1月4日(1868年1月28日)、午前8時、征討総督となった仁和寺宮が、薩摩藩本陣が置かれた東寺から鳥羽街道へ進軍を開始したときに最初に掲げられたようだ。「あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ、知らないのか、トコトンヤレナ」という品川弥二郎の歌詞からもわかるように、沿道で見守る群衆はもちろん、じつは誰も見たことのない旗だった。  

 それもそのはず、錦の御旗は大政奉還に先立つそのわずか数カ月前、蟄居中の岩倉具視が玉松操という攘夷・討幕を目論む策略家に考案してもらったものだからだ。実物はおろか絵図すらないものを、平安時代から南北朝時代のわずかな記述をもとにつくりあげた。材料の大和錦と紅白緞子は、大久保利通が妾の帯にするという口実で京都の西陣で10月に買い求め、それを品川が長州に運んだ。岡吉春という有識家が平安時代に書かれた「皇旗考」をも参考に、養蚕局に籠って金糸・銀糸を使って刺繍を施させるなどして、一カ月でひそかに幟に仕立てたという。山口市後河原に製作所跡を示す石碑がある。山口市文化政策課のサイトに、これは長さ約4.5m、幅1.35mほどの大きな幟旗で、表に金で日像、裏に銀で月像があり、その上にそれぞれ赤および白セイゴの二つ引きがついており、牡丹に七宝唐草のつなぎ模様があったという明治38年の記事がある。ただし、明治21年に絵師に描かせた「戊辰所用錦旗及軍旗真図」では日月章はそれぞれ別旗だし、神号の書かれた旗もある。司馬遼太郎は「加茂の水」で錦旗は2旒で菊花章入りの紅白旗が10旒あったとしており、結局いまや誰にも実体はわからないようだ。仁和寺が所蔵する錦旗はなんら図像のない金色で、間に合わず仏壇に使われる打敷で代用したのではないかと推測されている。そのせいなのか、明治5年刊行の『近世史略』に「総督仁和寺宮進マントン錦旗前駆ニ翻カヘル賊ノ弾丸或ハ錦旗ニ中ル」と書かれた箇所を、アーネスト・サトウは “the gold brocade standard of the Mikado”と訳している。菊紋は、1869年にようやく太政官布告をもって使用が公式に制限されているので、幕末にはまだ皇室のシンボルとしての認識は薄かった可能性がある。  

 鳥羽・伏見の戦いが勃発する数週間前の慶応3年12月8日、夕方から開かれた朝議で岩倉具視の謹慎処分が解かれた。公卿たちが未明に退廷したあと、待機していた薩摩藩などが御所の門を固めるなかで岩倉が5年ぶりに参内し、玉松操が起草した王政復古の大号令が発せられた。これによって幕府だけでなく、朝廷側の摂政関白も廃止され、太政官代として総裁、議定、参与の三職が置かれた。公武合体を望んでいた孝明天皇は1年前に35歳で急逝しており、「幼冲の天子」はまだ16歳だった。公武合体派の摂政・二条斉敬や、中川宮など21名の殿上人は参内を禁じられた。小御所会議と呼ばれるクーデターだ。担ぎだされた「宮さん」の仁和寺宮は仁和寺の門跡だったが、勅命によって12月に還俗し、新政府の議定に任ぜられていた。いわゆる官軍が目印として筒袖につけていた錦の切れ端を、江戸の人びとは当初、「密カニ之ヲ嘲リ呼テ錦切ト言フ」とばかにしていたが、5月の上野戦争で彰義隊がほぼ全滅するにいたって、「錦切レの威遂ニ都会ニ振フ居ル」と、『近世史略』にはある。前述したように、当初は錦旗に発砲した人もいたわけなので、この幟旗のもつ意味は4カ月たって「錦切れ」とともに、ようやく人びとのあいだに浸透したのだろう。  

 体格のよい若手議員がスクラムを組んで委員長のまわりに防壁をつくり、「議場騒然、聴衆不能」のなかで打ち合わせどおり与党議員だけが起立した瞬間は、傍目には何が起きたかわからなかった。だが、御所の9門が封鎖されたなかで開かれた幕末の小御所会議も、じつは同様だったのではなかろうか。言論の府における暴挙を恥じるどころか、「防衛大学名物の〈棒倒し〉を参考」にした「鉄壁の守備」だとメディアが喧伝したところも、まがい物の錦の御旗の威力を平然と歌った「トコトンヤレ節」と似ている。大久保利通は子孫の活躍ぶりに満足だろうか。強引なやり方で成立させた法律がどれだけの威力をもち、国を変えてゆくのかはまだわからない。いつのまにかみな口を閉ざし、反対派としてデモの先頭に立った人が、かつての旧幕府軍のように朝敵として迫害されたり、革命に付き物の内部粛正に発展したりする事態だけは避けたい。  

 国を二分する争いの発端は、江戸時代には黒船来航に始まる西洋諸国の脅威だったが、いまは隣国の台頭という脅威、つまりは外圧だ。内戦は多くの禍根を残すだけでなく、外国からの干渉も招く。本来ならば国民が心を合わせて、こうした時代の変化に柔軟に対応すべきなのに、なぜか国内の強引な権力闘争にすり替わってしまう。「日本人が議論しないという習慣に縛られて、安んじるべきでない穏便さに安んじ、開くべき口を開かず、議論すべきことを議論しないことに驚くのみである」と、福沢諭吉が『文明論之概略』(斎藤孝訳、ちくま文庫)で述べている状態は、1世紀半を経ても変わらない。なんとも権威に弱い国民だ。国の進路が変わる重大な争点も、他人事のようにやり過ごして保身に努める大半の人を見ると、人の中身はすぐには変わらないことを痛感する。

錦の御旗:「戊辰所用錦旗及軍旗真図」国立公文書館デジタルアーカイブ

 旧500円札には岩倉具視が描かれていた

「加茂の水」は本書のなかの一篇