2023年2月21日火曜日

歴史は意図的にも繰り返される?

 昨年2月にロシアによるウクライナ侵攻が始まった際に、これは双方が壊滅状態になるまでつづくのではないかという悪い予感がした。黒海・カスピ海沿岸のステップは印欧祖語の故地と考えられている。この一帯は定住する農耕民と移動生活を送っていた狩猟採集民が接触していた地域であり、野生の馬はこの地で初めて飼い慣らされた。そのことがヨーロッパから北インドにいたるまでの広大な地域の文明を大きく変えたのだと、『馬・車輪・言語』(デイヴィッド・アンソニー著、筑摩書房)には書かれていた。そんな何千年も昔の事情をもちだして、ウクライナ情勢を説明する人はまずいないだろうが、民族の気質というものは、代々受け継がれる言語や文化と気候風土が相まって、案外長く変わらないのではないか、と私は思っている。 

 前3500年からステップの乾燥化が始まった前期青銅器時代に、ヤムナヤ・ホライズンという広域文化が広まった原動力の一つとして、コリオス(korios)またはメンネアビュンデ(Männerbünde)と呼ばれる制度があったという。「誓約によってお互いにも祖先にも縛られた若者による戦士の同胞団であり、原印欧の通過儀礼の中心をなす部分として強制された襲撃のなかで再構築されてきた」というのが、その大まかな説明だ。コリオスの若者たちの多くは犬の犬歯をペンダントとし、オオカミの毛皮を羽織るか、ほとんど何も身にはつけず、ベルトだけを締めて襲撃に出たのだそうだ。 

 水が豊富にある肥沃な土地で栄える農耕とは異なり、牧畜は総じて農業には不向きな乾燥した土地で、人びとが生き延びる手段として発達する。だが、脆弱な環境で過放牧を防ぐには、広大な面積を必要とする。この時代、黒海・カスピ海沿岸地域では襲撃による牛泥棒や牧草地の確保は、正当化されるどころか、奨励されていた。馬のような大型の動物を裸で、つまり非武装で乗り回すということは、野生を素手で制御できる力を誇示することだったのだろう。ここは騎馬民族の故地であり、家父長制やマッチョ文化の発祥の地なのだ。ヨーロッパ人の優れた側面も、醜い側面も、この地に集約されているような気がしてならない。 

 じつは、いま取り組んでいる国境に関する本で、このコリオスとよく似た風習が古代ギリシャにもあったことを知った。アテナイでは若者は2年間、エペーボスとして国境地帯でパトロールを務めなければ、市民権を獲得することはできなかった。スパルタにはクリュプテイアという、より過酷な制度があり、未開の地で武器は短剣一本で、一人または小グループで生き延びなければならなかった。その過程で命を落とす若者も大勢いた一方で、彼らは奴隷であるヘイロタイを手荒く取り締まる汚れ仕事も負っていた。古代ギリシャの都市国家は文明の手本のように考えられているが、まだまだ力がものを言う世界だったわけだ。 

 改めて調べてみたら、Kóryosという項目がウィキペディアに出来ていて、そこには確かにエペーボスとの関連がギリシャの黒絵式の壺に描かれた若者の写真付きで、裸で戦うことへのこだわりとともに言及されていた。どうやら2年前にダン・デイヴィスというYouTubeで活躍する小説家がこの風習をテーマに小説を発表したために、情報が増えているようだ。過去を史実として知り、伝えることは非常に大切だが、フィクションや映像作品は、過去を単純化し美化することにつながりやすいので、少々危惧している。 

 コリオスの風習は、イギリスのフィングルシャムにある七世紀のアングロサクソンの墓地から出土したベルトバックルにも見られると、アンソニーは書いていた。文字のなかったヤムナヤ時代の風習は、考古学的痕跡にかろうじて残されているだけだが、ギリシャ時代に文字で記録が残されたことで、若者の通過儀礼であるこの風習はヨーロッパ文化のなかで長く受け継がれ、それが後世に繰り返し想起され、民族のアイデンティティやルーツを強化するために意図的に利用されてきたのだろう。日本で言えば、さしずめ武士道だろうか。 

 国境紛争があれば、エペーボスやクリュプテイアの若者たちは駆りだされ、大量に死んでいった。遺体は回収されることなく、ただ「空の墓」の慰霊碑が建てられ、スパルタではその死は美しい理想とされ、裸の戦士たちが踊るギムノペディアと呼ばれる祭りで「ティレアの花冠」とともにたたえられたという。エリック・サティの「ジムノペディ」は、この祭りに着想を得た作品だった。 マティスの「ダンス」や「ダンスII」は、画家本人が意識したかどうかはわからないが、ギリシャの黒絵式の壺に描かれた裸の踊り手たちを思わせる。ひょっとすると、ギリシャのこの祭りがベースにあるのかもしれない。一般には、ストランヴィンスキー作曲で、ニジンスキーが振り付けをした「春の祭典」からも影響を受けたと解説されている。これはロシアの実業家セルゲイ・シューキンからの依頼で制作した作品で、ロシア革命時に没収されて行方不明になり、1930年に再発見され、それ以来エルミタージュの所蔵品となっている。マティスのモデルの多くは、リディア・デレクトルスカヤというトムスクのロシア貴族の家に生まれた女性だったことを、今回、「ロシア・ビヨンド」というサイトで知った。 

 ティレアの花冠の現代版は、戦没者に捧げる赤いヒナゲシの造花だという、国境の本の著者の指摘に、第一世界大戦終結記念のリメンブランス・デーに、イギリスの知人、故イアン・アプリン氏が送ってくれた写真を思いだした。彼の父親は、塹壕戦を戦い、クリスマス休戦の発端をつくった一人だった。日本のお墓では地味な色合の花が一般的なので、最初に写真を送ってもらったときはずいぶんと奇異に感じた。どうやら、塹壕のなかに埋もれたままになった夥しい遺体の上に、戦後、真っ赤なヒナゲシが一面に咲いたことから始まった慣習らしい。ソンムの戦いだけで、行方不明の戦死者が7万2315人にのぼるという。ケンブリッジのトリニティ・カレッジのチャペルの壁に、第一世界大戦で命を落としたカレッジ関係者の名前がびっしり刻まれていることは、『アマルティア・セン回顧録』から知った。

 ヤムナヤ・ホライズンの影響は西へ広がっただけでなく、カイバル峠を越えて北インドにも、さらにはウラル山脈、アルタイ山脈を越えて東にも広がった。コリオスの制度は、要するに徴兵制だ。現代の徴兵制はフランス革命とともに始まったと言われ、それ以前の三十年戦争などは傭兵を中心とした戦いだった。国民国家が誕生して、「国民」が人為的に創生される過程で、ギリシャ・ローマの古典を手本に祖国のために戦って死ぬことが再び美徳とされ、賛美されるようになったに違いない。徴兵制はいまも面倒な隣国と国境を接する大陸の国々を中心に残っており、一時的に廃止されていた国々で復活する動きすら見られる。日本では、国境を広げようと無駄な努力をした1873(明治6)年から1945年の敗戦まで敷かれていた。文明開花した日本が真っ先に取り入れた西洋の慣習の一つだったわけだ。 

 以前に、明治初期の護国神社や招魂社の歴史を調べたことがあったが、改めて確認してみたら、1865年に落成した下関の櫻山招魂場が実際にはその第1号だった。今回、「空の墓」という表現を知ったとき、明治2年5月に箱館海戦で、19歳で死亡した遠い親戚の墓所を探したときに味わった虚しさを思いだしていた。  

 ソンムの戦いの夥しい戦没者を祀ったティプヴァル記念碑の画像をいろいろ検索したあとで、近所にある横浜英連邦戦死者墓地を久々に訪ねてみた。整然と墓標が並ぶ墓地は、相変わらず雑草一本ないほどきれいに手入れがされていた。管理費は、コモンウェルス戦争墓地委員会が基本的に賄っていることを今回初めて知った。埋葬者の多くは20代、30代の若者だが、インド兵のなかには生年月日すら不明の人がいたようで、ただ死亡日だけが記されていた。墓石のない20名のための碑もあった。ほぼ全員がムスリムであったことも印象的だった。  

 何かと戦争について考えさせられた一年を振り返って、こんなことをあれこれ取り止めもなく考えている。

英連邦戦没者墓地のニュージーランドとカナダ兵の墓地。2023年2月撮影


同墓地の墓石のない20名のインド兵のための追悼記念碑


故イアン・アプリン氏、リメンブランス・デーの写真