2022年12月25日日曜日

日の出観測

 昨年の暮れは、アマルティア・センの回顧録の翻訳が予定どおりに終わらず、締め切りを一カ月延ばしていただいていたが、今年も年末まで似たり寄ったりの状況だ。それでも、昨年の冬至前から始めていた二十四節気ごとの日の出観測という、自分で勝手に始めたプロジェクトを一昨日、曲がりなりにもやり終えたので、記念にまとめてみた。

 きっかけとなったのは、『世界を変えた12の時計』(デイヴィッド・ルーニー著、河出書房新社)を訳していた際に、不定時法が使われていた江戸時代の日本で、二十四節気ごとに時間を変えていた事実に気づかされたことだった。アーネスト・サトウが来日したころも、2週間ごとに長さの変わる日本の時間に閉口していたようだったが、ペリー来航時などには、いったいどうやって双方で応接の時間を合わせたのだろうか。ペリー艦隊はクロノメーターを装備し、神奈川の南中時刻を正確に測っていたはずなので、正午だけは双方でおよそ時刻が合っていたのだろうが、長崎からきていたオランダ通詞たちが、舶来の懐中時計をもっていて時刻合わせでもしたのか、それとも当時は1時間くらいずれて待たされたところで、誰も気にはしなかったのか。

  以前に日没点の観測は1年間つづけたことがあったので、冬至と夏至の太陽の沈む位置は58度くらい離れていて、広角レンズでないと収まらないことは知っていたはずなのだが、 東側が開けた場所が近くにはあまりなく、民家の屋根越しにどうにか見渡せる場所に決めたのがそもそもの失敗だった。じつは、最初の数回は日の出の位置がさほど変わらず、これなら大丈夫かと思ってしまったのだ。実際には、solsticeという言葉どおりに、冬至と夏至の前後では、太陽は静止(stit)したかのようにほぼ同じ位置から昇りつづけるが、それ以外の季節では、唖然とするほど南北に大きくずれていく。しばらくすると、屋根が邪魔になって観測地点を数メートルずらさなければ日の出が見えないという間抜けな事態になった。もう少し遠くの、もう少し眺望がある場所で出直そうかとも思ったが、2週間ごとに夜明けの長い散歩をするほど元気ではなかったので、そのままつづけることにした。 

 日没点の観測をしたときは、日の入りが見えるよく晴れた日だけを選んだのにたいし、今回は二十四節気にこだわり、できる限りその前後数日の少しでも晴れている日を選んだため、太陽のこうした動きがよくわかった。それが、いちばんの収穫と言えば収穫か。ただし、曇りや雨天つづきで、せっかく早起きして見に行ったのに太陽のかけらも見えないということもあった。  

 場所の選定も、天気予報の確認も、カメラの設定も、すべてがいい加減だったために、何やらよくわからない結果にはなったが、それでも再び冬至を迎えられたのはよかった。起き抜けのねぼけまなこで、カメラ片手にふらふらと歩いて、東を向いて太陽が昇るのをじっと待つ。その数分間の手持ち無沙汰の時間に、季節の移り変わりや、夏も冬も変わらず近くの木から飛び立っていくヒヨドリのことや、途中で勃発したウクライナ戦争のことや、気候災害に見舞われた人びとのことをぼんやりと考えた。この1年間に最愛の人を亡くし、家や仕事を失い、年末を暗い気持ちで迎えている人も大勢いることだろう。寒い部屋のなかで、いまだに終わらない仕事と格闘中ではあるが、コロナに罹患しても大事にいたらず乗り切ったし、今年も何とか無事に過ごせたことを感謝したい。
 
  皆さまどうぞよい新年をお迎えください。

エクセルのグラフは、すでにやり方を忘れていて、作成する気力がなかったので省略です。

2022年12月15日木曜日

『アマルティア・セン回顧録』

 訳書の宣伝つづきになってしまうが、こちらは2年越しの仕事で、たまたま発売月が重なる結果となった。『アマルティア・セン回顧録』(上下2巻、勁草書房)で、いぶし金と銀の素敵な表紙の見本が先ほど届いた。カバーの図柄はだいぶ前から拝見していたのだが、なかの表紙も高級チョコレートを連想させるお洒落なデザインで、嬉しかった。

 私がアマルティア・センを初めて知ったのは、『人間の安全保障』(集英社文庫、2006年)と題された一連の論考集の翻訳に携わったときのことだった。大学受験を控えた娘をかかえ、経済的にも精神的にも追い詰められていた時期に、下訳の仕事でメールのやりとりをしただけの編集者のもとへ、どんな仕事でもいいからもらえないかと押しかけたところ、思いがけず頂戴したのがこの仕事だった。学生時代に緒方貞子先生の授業は受けていたので、人間の安全保障という、何やらピンとこない概念を緒方先生がセン博士とともに提唱してきたことなどはわかったし、サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」という考え方をセンが非常に問題視していることは、訳し始めてすぐにわかった。しかし当時の私には、それぞれの言葉の意味を深く掘り下げ、抽象的な理論を展開する彼の文章はじつに難解で、編集者のアドバイスをもとに何度も書き直してようやく仕上げたものだった。だが、そこに書かれていた多くのことは、私の頭のなかに不思議と残り、何年も経ってからふと、そう意味かと納得したりもした。『人間の安全保障』はその後、わが家の窮状に合わせるかのように版を重ねてくれたので、彼はわが家の守り神のような存在となっていた。  

 その後、もう一度、『アイデンティティと暴力』(勁草書房、2011年)という、国や宗教など、集団のアイデンティティ問題を論じたセンの本の翻訳に携わる機会があった。そのころには多少は彼の人となりがわかっていたし、何であれ集団の色に染められるのが苦手な私には大いに共感するものがあり、この本は自分のものの考え方に多大な影響を与えた一冊となった。当時は娘がケンブリッジのアングリア・ラスキン大学に留学中だったので、ケム川沿いの遊歩道ザ・バックスを一緒に散歩しながら、センが学寮長を務めたトリニティ・カレッジを裏門からちらりと覗いてみた。回顧録には、人間開発指数を一緒に開発したマブーブ=ウル・ハックとともに、彼がこの遊歩道を歩きながら話し合ったことなどが書かれていた。大雪の降った翌朝、ケム川沿いを娘と歩いて行ったグランチェスター村なども本書に登場し、自由に語らえる空間と時間こそが自由な思想を育むのだろうと思った。  

 個人的には伝記の類いは苦手なほうだ。高齢になって書かれた自伝は往々にしてI, me and myself的なものが多く、私が好んで選ぶ分野ではない。昨年4月にセンの回顧録の翻訳のお話をいただいたときは、長年にわたるセンの熱心な研究者が大勢おられるうえに、原稿段階で本文だけでも400ページほどあり、もろもろ不安はあったが、波瀾万丈の彼の人生への好奇心が先立ち、恩返しのつもりもあって頑張ろうとお引き受けすることにした。  

 ところが、蓋を開けてみたら、そんなことは杞憂に過ぎなかった。原書は実際かなり分厚く、前半はとくにベンガル人のご親戚や友人がやたら大勢登場するので、かなり気圧されはした。それでも、途中少しも飽きることなく、最後まで毎日楽しく訳し通すことができた。ひとえに彼の驚くほど変化に富んだ人生と、合間に平易な言葉で語られる哲学や倫理の説得力、それに抜群のユーモアのセンスのおかげだ。エンタイトルメント、エージェンシー、公共の推論など、セン用語とも言える難解な言葉で、彼が本当は何を意味していたのかも、私は本書でようやく理解することができた。彼のこれまでの著書を読んで挫折した経験のある方も、ぜひこの回顧録は読んでみてほしい。 

 10年以上の歳月をかけて書き溜めてきたというこの回顧録では、非常に多くの重要なテーマが論じられており、そこには無神論、平和主義、マルクス主義などの重いテーマに関する深い考察から、センがのちになぜ厚生経済学や社会的選択理論、ゲーム理論などを専門とするようになったかまでが、詳しく語られている。わが家の守り神だったセン自身は、少年時代から断固とした無神論者だったことも、私は本書で初めて知った。今回の仕事で彼から学んだいちばん大きなことは、相手がたとえ誰であっても、批判的精神を忘れずに、盲信はするな、ということかもしれない。 

 彼が人生でかかわってきた人びとがまた壮観だ。彼の祖父キティモホン・シェンはラビンドラナート・タゴールの右腕だったため、幼いころからタゴールの影響を強く受けて育ち、マハートマー・ガーンディー、物理学者のサティエーンドラ・ボースなど、インドの賢者たちとじかに接して育った。モーリス・ドッブとピエロ・スラッファに学びたくてケンブリッジに留学してからは、エリック・ホブズボーム、E. M. フォースター、A. C. ピグー、アイザイア・バーリンなどと交流し、間接的ながらケインズやヴィトゲンシュタインも身近な存在として登場し、アメリカではポール・サミュエルソン、ロバート・ソロー、ケネス・アロー、ジョン・ロールズなどとの交友関係が描かれる。 

 第二次世界大戦中に200万とも300万ともいう人が命を落としたベンガル飢饉を体験し、植民地時代からインド・パキスタンの分離独立という動乱の時代に多感な時期を過ごしたセンが、親族や知人、のちには教師や友人たちとの対話から学んだことの大きさに何よりも圧倒された。ベンガル人がアッダ(無駄話)と呼ぶ日常の議論こそが、物事の裏の裏までを突き詰めて考える彼の思想の根底にあるに違いなく、それはまた民主主義の根幹をなすものだろうとも思った。センはタゴールのシャンティニケトン(サンティニケタン)学校の生徒だった時期から、学校に行けない近隣の子供たちのために友人たちと夜間学校を開く活動もしていた。後年、ノーベル経済学賞を受賞して欧米の各地の大学で活躍した彼の目が、つねに社会の下層で虐げられてきた人びとに向けられてきた理由がそこからよくわかった。  

 日本との関連もそれなりに書かれていた。駐タイ大使を務めた岡崎久彦とは留学生同士でかなり親しかったようだ。日本ではパール判事として知られるラダビノド・パルについて、彼と議論したことにも触れられている。そもそも、センの人生の最初の大きな転機は、ダッカの進学校から自由に学べるシャンティニケトンに転校したことで訪れたのだが、その原因が当時ダッカまで迫りつつあった日本軍にあった。非暴力主義を貫いたガーンディーと正反対に、日本軍と手を組んででも武力によるインド独立を目指したスバス・チャンドラ・ボースに関する鋭い考察もあった。

 この回顧録で論じられていることは、いずれも興味をそそられるテーマばかりで、翻訳しながら関連の書籍を買ってはみたものの、あまりに多忙でまだ積読状態のままだ。随所で『リグ・ヴェーダ』や『ラーマーヤナ』、『バガヴァッド・ギーター』が引用されるので、いつかこれらの古典もじっくり読みたくなる。「マルクスをどう考えるか」という章も非常に考えさせられた。彼が共産主義をソ連と強く関連づけて理解している点は、エンゲルスの評伝を訳した身としては惜しい気がしたが、ソ連の影響を強く受けた時代に周辺諸国で生まれ育った人にとっては、それはあまりにも大きな現実であったのかもしれない。厚生経済学に関しても、福祉という言葉の意味とともに、いつか私なりの感想を書いてみたい。  

 翻訳の作業そのものは、センのその他の著書に比べて文章が平易であったことにも助けられ、慣れない経済学関連を含め、楽しかったのだが、この回顧録にはとにかく大勢のベンガル人が登場し、ベンガル語を使った説明も随所にあり、それがずっと悩みの種だった。ベンガル語の発音入門サイトを探し、グーグル翻訳で音声を聞いて頑張ってはみたものの、細かいルールはどうしてもわからない。ベンガル語は世界で7番目に話者の多い言語なので、今後を考えると、これはやはり専門家に見ていただくべきと考え、編集者にお願いしたところ、東京外国語大学の博士課程に在籍されているベンガル語専門の石川さくらさんをご紹介いただいた。 

 400語にもおよぶベンガル語の単語をエクセルでお送りして、カタカナに直していただいたデータをもとに、もう一度、翻訳原稿に手を入れるといった作業を経て、ゲラが出てきたころには、私はグレタ・トゥーンベリの『気候変動と環境危機』という、同じくらい大部で重要なうえに急ぎの仕事に忙殺されていた。双方の仕事のゲラが入れ替わり立ち替わり送られてくる状況下では、この回顧録の年内刊行を実現させるだけで精一杯だった。そのため、この紹介記事も何とも中途半端な内容となってしまった。  

 せめてもとの思いから、先月、都内に出た機会に、本書で触れられていたチャンドラ・ボースの墓所である杉並区蓮光寺と靖国神社の「パール博士顕彰碑」を訪ねてきた。チャンドラ・ボースとインパール作戦については、あまりにも勉強不足でいまは何も書けないが、本堂と寺務所しかないような杉並の住宅街の小さなお寺に、1975年に建てられたという彼の記念碑と、1990年建立の胸像があった。終戦直後の1925年8月18日に日本から脱出しようとして飛行機事故で死亡したボースの遺骨は、当時のご住職が引き取られ、それ以来ずっとこの寺の本堂に安置されているとのことで、毎年の命日は午後1時から法要が営まれている。記念碑の横に置かれた芳名帳に、驚くほどの数のインド人が名前と長いメッセージを書き込んでいた。ボースはインド人にとって決して忘れることのできない祖国の英雄なのだろう。  

 東京裁判とパール判事、ことラダビノド・パルについても、回顧録に書かれていた以上の知識が私にはほとんどない。彼の反対意見書は1235ページにもおよび、さすがのセンもその要約だけ読んだという。近年、再び彼が注目されていることは知っていたものの、靖国神社の遊就館前に2005年建立の記念碑があることは知らなかった。翻訳中に検索したところ、この碑の銘文として刻まれた意見書の結語が、実際には彼の言葉ではなく、南北戦争時代の南部側の唯一の大統領ジェファソン・デイヴィスの言葉の引用なのに、わざわざ引用符を外して碑に刻まれていることを元渋谷区議の方のブログで知った。改めて検索したところ、2019年3月にワシントン&リー大学法学大学院のマーク・ドランブル教授がOpinioJurisというサイトに詳しい論考を掲載していた。同教授によると、パル判事は引用元を明示しておらず、反植民地主義であるはずの彼が、白人至上主義のデイヴィスの言葉を引用したことへの驚きが書かれていた。この問題は実際にはかなり複雑と思われ、ドランブル教授の論考へのコメントを読むと、センが回顧録に書いていた当時のインドの時代背景をよく考えなければ、とうてい理解できそうにはない。  

 思いつくままにここに書いたことは、この回顧録の魅力のごく一部でしかない。「最高の知性はどのように生まれたのか」という本書上巻の帯の宣伝文句は、決して誇張ではなく、この作品をよく表わしていると思う。早いところではクリスマスごろには書店に並ぶかもしれない。ご自分へのクリスマス・プレゼントに、年末年始を豊かに過ごすために、お買い求めいただけたらとても嬉しい。

左: 原書 Amartya Sen, Home in the World: A Memoir 
右:邦訳版 『アマルティア・セン回顧録』(勁草書房)

軽井沢町碓氷峠見晴台に1980年に建立されたタゴール碑。1916年8月に日本女子大の成瀬仁蔵学長の招きで軽井沢の三井邸に滞在し、講話したことを記念したもの。2016年秋に、軽井沢で姪が結婚式を挙げた際に母と偶然ここを訪れた。

杉並区蓮光寺のチャンドラ・ボースの記念碑
2022年11月撮影

靖国神社のパール判事顕彰碑
2022年11月撮影

2022年11月28日月曜日

『気候変動と環境危機』その2

 先ほど、ついに見本が届いた。最後の2カ月間は、プレッシャーから胃が痛くなるほどの仕事だったが、ヨーロッパ各国に遅れること1カ月余りで、何とかこれを日本の読者にお届けできるようになって、肩の荷が下りた気がする。

 時間との闘いだったので、細かい点では見落としがいくらでもあるだろうし、疑問にたいする回答が得られず、やむを得ず判断して訳した箇所もある。実際、グレタが11歳のときに診断されたという場面緘黙症は、ルビの振り間違いに気づいたのが遅過ぎて訂正が間に合わなかったし、彼女の姓も、植物学者ツンベリーと同じ綴りなのに、なぜトゥーンベリなのかと思いつつも、慣例に従ったところ、現在は実際の発音に近いトゥンベリ表記が増えていることに、あとから気づくはめになった。多くの方が初版を読み、ご指摘いただければ、ぜひ版を重ねて改善し、気候運動のための行動指針として末長く活用できるものにしたい。

 さて、前回の記事に書いたように、その2は私にとっては不得意な倫理面からこの驚異的な本について触れておきたい。下訳時代に、否応なしに移民問題やアメリカの政治問題について訳したおかげで、アマルティア・センの著作とかかわったことが、今回少しは役立ったかと思う。

 訳し始めてすぐにぶつかった言葉が、グローバルノースとグローバルサウスという用語だった。要は、南北問題だ。この本を最初から最後まで一気に通して読む人は少ないだろうとの編集側の判断で、こうしたカタカナ語に各章ごとに訳語を入れたので、目障りでないことを優先して「北の先進国」と「南の発展途上国」と短い言葉を入れることにした。厳密には、南にもオーストラリアやニュージーランドがあるし、「南」は南半球ではなく、むしろ赤道を中心におおむね亜熱帯までに含まれる暑い地域にある、メキシコ、アフリカ、インド、中国以南の発展途上国を指し、かつ基本的に西洋人を中心としない国々を意味する。ここには人種問題もかかわってくるのだ。

 気候問題になぜ南北問題や人種問題が重要な意味をもつのだろうか。それは、人為的な温暖化の発端となった化石燃料の大量使用が、いち早く産業革命を遂げた欧米諸国から始まったからであり、温室効果ガスのなかでもCO2はとくに頭上の大気のなかに何百年もととどまりつづけるからだ。いま問題になっているCO2の大部分は、過去150年ほどのあいだに先進国が排出したものなのだ。これは累積的な危機だと、グレタは繰り返し述べていた。 

 欧米諸国には、大航海時代に始まり、各地に植民地を築いた過去もある。たとえ大半の地域が政治的な独立を勝ち取っていても、その多くは経済的にはいまだに旧宗主国や多国籍企業の支配下にある。数世紀にわたって植民地となってきた地域は、大半が農産物や木材、鉱物など一次産品の産地だ。独立後も、たいがいは環境破壊につながる単一栽培や採掘をつづけるしかない状況に追い込まれている。同様のことは先進国の内部でも言える。「犠牲区域」と呼ばれる環境からの脅威や汚染にさらされる低所得世帯や有色人(非白人)に関するジャクリーン・パターソンの報告には、非常に考えさせられるものがあった。 

 地球温暖化の影響を真っ先に受けるのが、人間には住みにくい気候の地域だという事実も忘れてはならない。あまりにも暑過ぎたり、寒過ぎたり、乾燥し過ぎたりする地域は、過去のさまざまな状況下でその僻地に追いやられた人びとが、工夫を凝らしてどうにか生き延びてきた場所なのだ。『気候変動と環境危機』には、グレタとお父さんがアメリカへの旅のなかでサウスダコタ州パインリッジ居留地の友人を訪ねる印象的なエピソードがある。友人は1890年にアメリカ第7騎兵連隊に虐殺された先住のラコタ人の生き残りの子孫だ。そこを訪れる前に立ち寄ったリンドストロームは、同時代にスウェーデンからの移民が築いた町だった。両者の格差にグレタが何を思ったかを、ぜひお読みいただきたい。 

 スウェーデンは植民地主義とは無縁のように思いがちの国だが、実際にはアメリカに大量の移民を送り、その国内でも先住のサーミ人を最北の地に追いやってきた。自然とともに暮らす人びとは、温室効果ガスをわずかにしか排出しないにもかかわらず、いまでは気候変動によって残された最後の砦すら奪われつつある。温暖化によって環境が激変した最北の地の悲劇を書いたサーミ人ジャーナリストのエリン・アンナ・ラッバの章はじつに印象的だ。 

 ひるがえって日本はどうか。1853年にペリー艦隊がやってきて、そのわずか数十年前に実用化された蒸気船で使う石炭の供給地になることを要求されると、石炭など使い道がないと思った江戸幕府は、これを素直に受け入れた。だが、西洋の技術を即席で学んだ日本人は、ついでに植民地主義も学んで、明治になると北方の地に屯田兵を送り、アイヌ人を追いやって森林を伐採して「開拓」、つまり植民地化し、炭鉱を掘り、近海のラッコを絶滅させた。その後は朝鮮半島や中国大陸、東南アジアやインドの奥地、太平洋の南北広範囲にわたる島々にまで進出したことは言うまでもない。 

 敗戦によってそのすべてを失ったのもつかの間、日本は戦後の高度成長期に一大工業国に変貌を遂げ、猛烈な環境汚染を引き起こし、やがて経済力で他国を支配するようになった。その過程で、先進国に倣って労働力が安く、環境基準の甘い他国に、製造部門を環境汚染とともに送りだし、自分たちは公害の減った環境で利潤と恩恵だけを享受してきたのだ。私の子どものころはまだ、隅田川を渡るたびに車の窓を閉めなければならないほどの悪臭が漂っていた。一時よりはだいぶ落ちぶれたとはいえ、私たちがまだそれなりに健全な暮らしを営めるのは、日本人ががむしゃらに働いたからだけではない。その陰に名前も存在も知らないような異国の地で資源や安い労働力を搾取されている膨大な数の人びとがいて、国の融資や補助金を受けた化石燃料を使って、大量の温室効果ガスを排出しながら、世界各地に産物を輸送できるからなのだ(ついでながら、以前にも触れたwell-beingの訳語は「健全な暮らし」としてみた)。 

 世界の平均気温が産業革命前からわずか1.1℃ほど上昇した現在でも、極地や熱帯域の上昇幅はとくにいちじるしい。それによって雪や氷が解けるかどうか、雨が降るかどうかだけなく、海面の上昇幅も変わり、結果的にもはや人が住めない環境に変わり始めている。こうした地域で気候変動の犠牲になっている人びとの声は通常は聞こえてこない。自分には無関係なこととして、私たちは敢えて耳を塞いできたのかもしれない。『気候変動と環境危機』を私が高く評価することの大きな理由は、寄稿者のなかに気候変動に翻弄されている当事者、もしくはその立場を代弁する人びとが多数いる点だ。 

「気候正義」という、耳慣れない言葉が強烈な意味をもって迫ってくるのは、こうした背景を考えればこそだ。正義という言葉は、本来、虐げられた弱者に発する権利のある言葉だろうと思う。少々温暖化すれば、むしろ住みやすくなるようなスウェーデンの都心部で生まれ育ったグレタは、自分が加害者の立場にいることをよく自覚している。その彼女が、グローバルサウスで気候変動の最前線に立たされている人びとに深く共感するのは、先進国に住む若者世代の未来も、過去1世紀半にわたって化石燃料を消費し、開発の限りを尽くしてきた私たちやその親・祖父母の世代のせいで、もはや保証されなくなったからだ。しかも、科学者が地球温暖化の事実に確信をもって世に訴え始めてからの30年間に、事態は悪化の一途をたどってきたのだ。

 この問題に関して、現在、温室効果ガスの最大の排出国となっている中国や、急速にそのあとを追うインドなどをただ非難することがいかに間違っているかという点も、本書は過去の排出量という観点と、格差に配慮したうえでの平等である衡平さ(equity)という点から、力強く訴える。誰しも自分がどの国に生まれるかは選べない。先進国に生まれただけで、どれだけの下駄を履いてきたかを、よく自覚しなくてはいけない。新興国を責めることはできないという主張は、先進国に追いつけ追い越せとばかりに急成長を遂げるこれらの国々の人口の多さや、世界の製造業を一手に引き受けているような現状を考えても、妥当と思う。 

 だがその分を補うために、多年にわたって豊かな暮らしを送ってきた先進国が、率先して温室効果ガスの排出を一気にやめることで、気候の緊急事態を食い止めなければならないという主張には、正直驚かされる。ノブレス・オブリージュのような甘いものではない。身を切らんばかりの覚悟だ。当然ながら、本書にはジェイソン・ヒッケルによる脱成長の章もある。最も単純な気候変動対策は、これまでやってきた一部の行為をやめることなのだ。

 グレタ自身は、アクティビストとして飛行機に乗らない決断をし、ヴィーガンになっているし、遠出するときは電気自動車をレンタルしている。だが、ほかの人にそれを強要はしない。それぞれ住む場所によって、手に入る食料は異なるし、飛行機にどうしても乗る必要がある人もいるからだ。こうした細かい対策についてこだわり始めると、それだけで議論に明け暮れ、価値観の違いから「文化戦争」に陥ってしまうからだとも書いている。いま重要なのは、できる限りすみやかに気候運動を全世界に広めて、可能な限り多くの人にこの現状を認識してもらうことであり、本書はそのために彼女が考えついた最善の手段だったのだ。 

 30年ほど前、仕事で出会った若いイギリス人に、なぜベジタリアンになったのか尋ねたことがあった。すると彼が、肉の生産に必要な飼料の代わりに、人間が食べる作物をつくれば、何倍も多くの人が食べられるようになるからだと説明してくれた。私はそれでも肉を断てずに、いまにおよんでいるが、ここ10年ほどは大幅に消費量を減らしている。本書を読んで、牛肉はもうやめようと決心したのだが、そう思った途端、牛タン家で同窓会が開かれたため、食べてしまった。飛行機はもうだいぶ乗っていないが、これもまだ諦めきれない。ただ、近距離の国内線はやめようという本書の提言に従って、今度、九州を旅するときは、横須賀からフェリーに乗るか、新幹線にするか、在来線を乗り継ぐかなどと思案中だ。車は手放して久しく、移動手段はもっぱら徒歩か自転車、孫のお迎え時には娘宅の電動アシスト自転車なので、これに関しては及第点がもらえそうだ。気候と環境問題について、「年がら年中、うるさいほど、邪魔なほど語ろう」という本書の提言も、こうしてブログにしつこく紹介記事を書くことで、多少は実行しているつもりだ。  

 私の生きてきた時代は物質的に豊かになる一方だったので、いったん慣れた便利さを手放せるだろうかという不安はもちろんある。持続可能でないと判断された多くの産業に人生を賭けてきた人にとっては、自分の世界が崩されるような恐怖感があり、死活問題にもなるだろう。気候変動に対応できる社会への「公正な移行」を提言したナオミ・クラインの章は、とりわけ行政に携わるすべての人にとって必読の章だ。  

 私がこの大著のなかでもとくに秀逸と思った寄稿文は、ベンガルのノンフィクション作家オミタブ・ゴシュの「認識のずれ」と題された論考だった。かつて香料諸島とも呼ばれたインドネシアの群島の一つ、テルナテ島の悲劇について書いたものなのだが、激しい言葉で糾弾する代わりに、抜群のユーモアとともに素晴らしい解決策を示してくれる。ぜひ読んでみてほしい。

 本書の短いプロモーション動画が公開されたので、ぜひご覧ください。
 

『気候変動と環境危機: いま私たちにできること』グレタ・トゥーンベリ編著、河出書房新社(右)。左側が原書。

倫理面にいくらか関連のあるこれまでの訳書。下訳時代のものには、部分訳のものもある。

2022年11月16日水曜日

『気候変動と環境危機』その1

 すでに2回にわたって関連記事を書いたが、12月初めに刊行予定のグレタ・トゥーンベリ編著の大作『気候変動と環境危機:私たちにできること』(原題:The Climate Book、河出書房新社)がいったいどんな本なのか、もう少し内容を紹介しておきたい。この本は、気候科学はもちろんのこと、林野火災やプラスチック汚染などの環境問題も広く網羅し、人類がかかえる大難題を技術の力で乗り越えようとする地球工学などの実態にも言及しており、じつに多岐にわたる広い分野にまたがるものだが、それだけでは終わらない。これは科学面だけでなく、倫理・政治・経済にも深く突っ込んだ作品なのだ。

 私はこれまで翻訳の仕事を通じて気候科学や農業、水の問題などにはかなりかかわってきたほうだと思うが、「気候正義」という言葉を、グレタ当人を含め、多くの寄稿者が使用していることには、当初だいぶ戸惑いを覚えた。道徳や倫理問題は、私の得意な分野ではない。正直言えば、何であれ正義を振りかざされると、私はげんなりしてしまうほうだ。だが、幸か不幸か、同時並行して校正作業に取り組んでいた作品が、『アマルティア・セン回顧録』(上下2巻、勁草書房、12月下旬刊予定)だった。これは私の苦手な倫理問題をじつに明解に説明してくれた傑作だったため、まるで異なる分野の双方の仕事を行き来しながら、これまではとは違う観点から気候問題を考えるまたとない機会となった。科学面と倫理面は、どちらも非常に入り組んだ問題なので、この紹介記事は前後2回に分けて書こうと思う。

 まずは科学面から。気候科学の歴史についてはすでに多くの本が書かれており、私ですら『異常気象の正体』、『CO2と温暖化の正体』、『地球を支配する水の力』(いずれも河出書房新社)を訳してきたので、詳しくはぜひそちらをお読みいただきたい。19世紀なかばにジョン・ティンダルがポーターと一緒にアルプスに登って氷河の動きを実測し、水蒸気の実験を行なったことや、グレタの祖先のスヴァンテ・アレニウスが19世紀末に人類が地球を温暖化させている可能性について初めて指摘したこと、20世紀前半にアルフレート・ヴェーゲナーがグリーンランドを探検して現地で帰らぬ人なったこと、その後にミルティン・ミランコヴィッチが天文学を研究してミランコヴィッチ・サイクルの理論を打ち立てたことなどは、これらの本でよく説明されていた。 

 戦後になってアレニウスの理論がようやく研究され始め、それを受けてC・D・キーリングが大気中のCO2濃度を測り始め、1958年3月からはハワイのマウナロア山の観測所で連日測定するようになった。観測を始めた当初は315.1ppmだったものが、2004年には開始時より20%近く増えて377.43ppmになったと訳したのを覚えている。CO2は現在も毎日マウナロアで測定されており、インターネットで確認できる。この記事を書いている11月14日現在で417.94ppmだが、季節的に高くなる5月27日には421.99ppmだった。産業革命前は280ppmであり、グレタが生まれたころからさらに12%ほど増えている。

 温室効果ガスはもちろんCO2だけではない。メタンをはじめとするそれ以外の気体がどの程度作用するかといった問題は、グレタの本で専門家が詳しく解説しているが、温暖化の原因はわかっていないとか、CO2は無関係などといまも固く信じておられる方は、まずこれまで刊行されてきた気候科学の書物を再読することをお勧めする。本書では、気候変動の否定論がどのように形成され、意図的に広められてきて、そのために貴重な30年間が論争で失われ、その間に増えに増えた温室効果ガスと悪化の一途をたどる生態環境が、もはや取り返しのつかない時点にまで地球上の生命を追いやりつつあることが、ナオミ・オレスケス、ケヴィン・アンダーソン、ジョージ・モンビオなど、数多くの寄稿者によって暴かれている。2021年8月9日にIPCCの第6次評価報告書が発表され、「人間の影響が大気、海洋及び陸域を温暖化させてきたことには疑う余地がない」と初めて表明されたことで、やはり寄稿者のサムリル・ホクの言葉を借りれば、「気候変動が公式に到来した」のである。 

 気候科学は冷戦期にいわば偶然に始まったような分野で、当初は軍やエネルギー産業が研究費の多くを拠出していた。グリーンランドの氷床を掘削して柱状(コア)試料を取りだす試みは、北緯69度線の近くに数珠つなぎに設置されたソ連監視用のレーダー網の基地から始まり、氷の下の都市と呼ばれたキャンプ・センチュリーで53メートルの深さまで掘ったものだった。原子力技術は放射性炭素をはじめとする同位体を使った年代測定法に応用され、地質学や考古学を根本的に変え、氷床だけでなく海底や湖底から同様のコア試料を掘削し、世界の大洋の海水に含まれる放射性炭素年代を測定して世界の大洋の海流の仕組みを解明する研究にもつながった。 

 1957年に10カ月間、大西洋をヨットで縦断し、毎日、海水を汲んで揺れる船上で放射性炭素の測定を行なったのが、コロンビア大学で博士号を取得したばかりの高橋太郎だったことは、ウォレス・ブロッカーの『CO2と温暖化の正体』を訳した際に知った。2019年12月、盟友ブロッカーの死から数カ月後に89歳で永眠した彼の追悼記事がラモント=ドハーティ地質研究所のサイトにあり、そこにはヴィーマ号で調査中の若い彼の写真が掲載されていた。気候科学分野で初めてノーベル賞を受賞した眞鍋淑郎に関しては、1988年にNASAのジェームズ・ハンセンとともにアメリカ議会の公聴会で地球温暖化の事実を証言した折に、一緒に証言に立ったマイケル・オッペンハイマーをはじめ、何人かがグレタの本で言及しているが、眞鍋氏より1歳年上の高橋太郎のことは触れられていない。追悼記事によると、アル・ゴアが1990年代にブロッカーや高橋氏とCO2の上昇の脅威について話合いをもった際に、地球が2℃ほど温暖化することが人類にとってそれほど悪いことだろうかと思い、この問題にゴアほどの熱意を感じなかったそうだ。それには1970年代末から80年代初めにかけて、彼とブロッカーが石油タンカーにモニターを設置して、海洋表面のCO2データを集めるプロジェクトをエクソンとともに実施していたことも、いくらか関連するかもしれないと、この記事を読んで思った。化石燃料産業は研究費の出資者であり、内部の研究者とも顔馴染みだっただろう(高橋氏の追悼記事は、「黒猫の旅」という若手研究者のブログで訳文が読める)。

 モービルと合併して石油最大手となったエクソンモービルは、『気候変動と環境危機』ではかなり槍玉に挙げられている。誰よりも先に温暖化の実態を把握していながら、自社の利益のためにそれを伏せ、温暖化否定論を唱える研究者に肩入れをしてきたのだと。コロナ禍の各国による前代未聞の財政支援で化石燃料産業が大いに潤ったことも指摘されていた。先日の新聞記事によれば、ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、「米欧石油ガス企業28兆円〈棚ぼた〉」なのだそうだ。エクソンモービルは4〜6月期の最終利益が178億ドル、7〜9月期は196億ドルと、四半期として過去最高を更新していた。  

 エネルギー産業にとどまらず、本書では温室効果ガスの排出量の多い部門を一つひとつ検討していく。私が10年ほど身を置いた旅行産業も航空産業とともに厳しく追及されているが、日本人の感覚からすると意外かもしれないが、農業と林業も例外ではない。その多くは、地平線いっぱいに広がる広大な農地に、帯水層から汲みあげた水をセンターピボットで給水するため、空から見ると異様な円が並ぶ光景がつづくグレートプレーンズの穀倉地帯や、熱帯雨林の大規模な伐採が進むブラジルやインドネシアなどが非難の対象だが、そこからの産物に世界中が依存している現状を忘れてはならない。日本の農林業の事情はだいぶ異なると思いたいが、農薬や肥料、水資源の使用という観点からも、本当に持続可能かどうかよく検討する必要があるだろう。日本からの、それどころか東アジアからの唯一の寄稿者が水文学者であり、水不足に関する重要な章を執筆した沖大幹で、沖氏には翻訳中にその他の章の多くの疑問点にも答えていただき、たいへんお世話になった。

 エネルギー産業は比較的新しいものだが、農耕と畜産は文明の歴史と切り離せない。だが、地球の生態環境のなかで、自分たちもその一部でしかないという意識が欠如したまま、武力や財力や技術力にものを言わせて、限りある資源を独占してきた人類の文明そのものが、いま方向転換を迫られているのだ。気候問題とは、要するにエネルギー問題であり、食料問題なのだというのが、翻訳を通じて長年この問題とかかわってきた私が理解したことだ。  

 では、どうするのか。それを考える多くの材料を本書は与えてくれる。再生可能エネルギーに切り替えることは当然ながら重要視されているが、肝心なことは、化石燃料とは異なり、太陽光と風力による発電では、富と権力も分散しなければならないという点だ。それが石油や天然ガスのように万能ではない点も、受け入れなければならない。大気中の温室効果ガスを人為的に除去する回収と貯留の技術についても、本書は多くのページを割いているが、その多くが眉唾物であることも明らかになる。 

 前述のブロッカーの書の最後には、晩年に彼が唯一望みを託していることとして、こうしたCO2回収装置や処分場のことが言及されていた。原書(Fixing Climate)は2008年、訳書は2009年に刊行された。それから十数年を経た現在、こうした技術的な試みがどれだけ実を結んだ、いや、結ばなかったのかが、『気候変動と環境危機』では明らかになる。エネルギー問題全般に言えることだが、たとえ理論的・技術的に可能でも、資源として意味があるのは、それを得るために投入する以上のものが生産される場合に限られる。つまり、すでに大気中に蓄積している温室効果ガスの濃度を少しでも下げるためには、回収と貯留技術は役立ったとしても、莫大な費用がかかるこの技術と化石燃料の使用の継続を組み合わせることには意味がないのである。  

 現状がよく見えてくると、八方塞がりのような暗い気持ちにならざるをえない。しかし、ほんの150年前までほぼ人力一筋の循環型経済のなかで暮らしてきた日本人なら、新たな活路を見いだせるだろうと私は信じたい。

追記:この本の参考文献はこちらのサイトで見ることができます。
 

『気候変動と環境危機:いま私たちにできること』
 原題:The Climate Book
 グレタ・トゥーンベリ編著、河出書房新社 
 12月2日刊予定

The Climate Book
原書 
翻訳作業はPDFとプリントアウトで終わっているが、やはり原書が欲しいと思い、取り寄せてしまったもの。
極小のダーラナホースは耳までの高さが5.5cm。
ずっしりと重い巨大な本だ。

これまで気候・環境関連で私が訳した本。ジャンルを問わず訳してきたつもりだが、この分野のものはやはり多かった。

気候関連のニュースが新聞の一面トップを飾ることはないというグレタの嘆きを訳したあと、10月9日の毎日新聞のトップと3面に、長年にわたって懐疑派と論争を繰り広げ、果敢に闘ってこられた江守正多さんの特集記事が掲載され、嬉しかったので保存版にすることにした。

2022年11月7日月曜日

マレーナ・エルンマン

 この記事のタイトルを見てすぐに誰のことかわかった人は、かなりのオペラ好きか、環境問題に深くかかわってきた人に違いない。翻訳中にどんな人だろうと興味本位で検索したところ、最初に見つけた動画が衝撃的で、それまで漠然といだいていた先入観がすべて吹き飛んだんだことを覚えている。

 2015年5月に来日して、N響の第1809回定期公演に出演したこともあるというこのメゾ・ソプラノのオペラ歌手は、2009年にはメロディーフェスティバーレンで優勝して同年のユーロビジョン・ソング・コンテストのスウェーデン代表となるなど、ポップ歌手としての側面も備えた歌姫だった。来日時には「東京からおはよう」と書いてセルフィーを投稿し、何万という「いいね」をもらったのだという。先日ようやく図書館から借りて読んだ『グレタ たったひとりのストライキ』(海と月社)で、このエピソードを知って改めて調べ直し、これは書いておかねば、と思ったしだいだ。そう、彼女の娘が、グレタ・トゥーンベリなのだ。

 来日時の情報が残っていないか検索してみると、何人かのオペラファンが書いた「マレーナ様」の記事が見つかった。そこに貼られたリンクを頼りに、いくつか彼女の動画を観て、さらに驚かされた。私が最初に見つけた動画は、ロッシーニのオペラ『チェネレントラ』からの「悲しみと涙のうちに生まれて」のアリアのコメディー版だったことが、彼女の本格的なオペラ公演の動画を観てわかったのだ。コメディー版では、ストラップレスドレスがずり落ちそうでうまく歌えず、観客の男性に後ろから引っ張り上げてもらうという設定で、満場の笑いを誘っていたが、オペラ公演では、映画『ミッドサマー』の登場人物のような北欧の美女姿で、この長いアリアを歌いきっていた。ABBAのチキチータを、本家に劣らず見事に歌う2009年と思われる映像もあった。

『グレタ たったひとりのストライキ』によると、マレーナはオペラの大衆化に尽力し、ヨーロッパ各地のオペラハウスと数年単位の契約を結ぶ一方で、スウェーデン国内ではオペラ文化の普及に努めた人だったようだ。彼女の多才ぶりに驚かされたのは、2014年1月(たぶん)にチューリッヒ歌劇場で上演されたヘンデルのオペラ『アルチーナ』で、ルッジェーロという騎士を演じた彼女の動画だった。ルッジェーロはもともとカストラートの歌手が演じていた役らしく、「ズボン役」となった彼女は、さほどメイクもしていないのに、宝塚ばり、いや、それ以上のカッコよさで、かなり低音の歌声ときびきびした踊りを披露していた。歌い終えたあとでハンドスプリング(前方転回)を難なく決めてみせたのを見たときは、唸ってしまった。15年前に投稿されたものだが、ヨハン・シュトラウス2世の『こうもり』の「私はお客を呼ぶのが好きだ」の動画でも、口髭をつけて気障なオルロフスキー公爵を好演していた。コミカルな持ち味を存分に発揮して観客を魅了する彼女を、「マレーナ様」と呼ぶファンがいるのもうなずける。

 だが、世界各地の舞台で彼女が華やかな公演を繰り広げていたこうした時期に、当時小学校の5年生だったという長女のグレタが摂食障害になっていた。もともとのきっかけは、学校の授業で見た太平洋のプラスチック汚染などのドキュメンタリー映画で、同書では時期が明確に記されていないが、8歳ごろのことだったのかもしれない。いずれにせよ、グレタは2014年秋に2カ月にわたってほとんど食事のできない状態がつづいて、10キロも体重が減ってしまい、アストリッド・リンドグレーン子ども病院で精密検査を受けることになった。リンドグレーンの作品を愛読していた私には、おさげ髪のグレタが、やかまし村のリーサと重なって見えた。 

 各地を飛び回らざるをえないマレーナに代わって、アスペルガー症候群で場面緘黙症と診断された彼女を支えたのは、父親のスヴァンテ・トゥーンベリだったようだ。舞台で活躍する声楽家が、本番に備えて自分の体調管理と練習にどれだけの神経を使っているかを考えれば、当時のこの一家の悲惨な状況がよくわかる。来月初めに日本でも刊行予定のグレタのThe Climate Book(『気候変動と環境危機:いま私たちにできること』河出書房新社)のなかに、スウェーデンの国民的歌手の母親はほとんど登場しないが、一緒に大西洋をヨットで横断したことでも知られる父親のスヴァンテのことは、アメリカのミネソタ州リンドストロームとサウスダコタ州を一緒に訪ねたエピソードで触れている。闘病中に父親と一緒に読んだ、ヴィルヘルム・ムーベリの『移住者』シリーズの舞台となった地を訪ねたときのことだ。
  
 グレタの名前を最初に聞いたころから、長崎の出島の植物学者ツンベリーと関係がないだろうかと思っていたが(実際あるとする情報もちらほら見つかるが)、驚くべきことに、彼女の父親はスヴァンテ・アレニウスの子孫だそうで、彼にちなんで名づけられていることも『グレタ たったひとりのストライキ』には書かれていた。人類が二酸化炭素を排出することによって地球を温暖化させる可能性をアレニウスが1895年末に最初に指摘したことは、いまでは多くの人が知っているだろう。父親のスヴァンテは舞台俳優だったが、グレタが生まれるに当たって、「世界トップクラス」の歌い手である妻の仕事を優先させ、そのときどきで彼女が公演をしている都市で同居をして、主夫となって育児を引き受けたのだという。

  だが、グレタの摂食障害をめぐる騒動が、グレタの3歳下の妹ベアタにも影響をおよぼし、ADHDやアスペルガーと診断されるにいたって、マレーナがこの下の娘の面倒をみなければならなくなった。このような時期にグレタに引きずられるようにして、一家は気候変動問題に関心をもつようになったようだ。2016年3月のウィーンでのコンサートを最後に、マレーナは飛行機に乗らない決心をし、地方紙に寄稿していた毎月のコラムでも気候問題について書くようになっていた。ただし、音楽活動をやめたわけではなく、やはり歌手として活動を始めた次女のベアタと一緒に、2021年には『フォレヴァー・ピアフ』というミュージカルに出演し、母娘でエディット・ピアフの生涯を演じたようだ。スヴァンテも2017年には飛行機に乗るのをやめたそうだ。

  一家はウプサラ大学の地球科学研究所にケヴィン・アンダーソンと同僚を訪ね、そこで衝撃的な現状を教えられる。アンダーソンは『気候変動と環境危機』でも、ひときわ鋭い論考を寄稿して異彩を放っていた研究者だ。学校ストライキの計画をグレタが彼に打ち明けた場面も、『たったひとりのストライキ』には書かれていた。この本の邦題にもなった、2018年8月にスウェーデンの総選挙前に3週間にわたって国会議事堂の前で彼女が始めた学校ストライキのことである。 

「スヴァンテは私と同じく、グレタには学校ストライキなんていう考えを捨ててほしかった。不愉快な結界になることは目に見えているからだ。だが、彼女がそのことを考え、話すときは生き生きとしている」と、マレーナは書く。父親と一緒にアビスコの極地研究所で講義に参加した際、環境問題を専門にする大学生たちも答えられないなかで、太陽電池の変換効率は16%だと、手を上げて英語ではっきりと答える娘の姿に、「家族や教師のアニータ以外の前で、自分から率先して話すグレタを見るのは数年ぶりだった」とスヴァンテは書いた。このときの講師キース・ラーソンも『気候変動と環境危機』の寄稿者で、北部のこの地まで電気自動車で向かう道中、父娘は、やはり寄稿者となったナオミ・クラインの『これがすべてを変える』(岩波書店)のオーディオブックを聴き、「ときどきそれを止めては内容を話し合った」そうだ。 

 スヴァンテは学校ストライキの前には、「何があっても必ず自分ひとりで対処しないといけないよ」と諭し、想定問答をして娘を鍛えた。娘の決心を変えられない以上、せめて娘が必要以上に傷つかないように親として精一杯の助言をしたのだろう。
「あなたのご両親がこうしなさいと言ったのです? この質問はしょっちゅうあるぞ」 
「それなら、ありのままを答える。両親を感化したのは私であって、その逆ではありません」 

『ひとりぼっちのストライキ』には、それでも娘が心配で、アーチの陰からスヴァンテが見守っていたことなども書かれている。おもにマレーナが執筆した断片的な文章を、闘病と気候運動に関連するものが入り組んだまま、時系列も曖昧な形でまとめられている本なので、決して読みやすくはないが、巻末にはグレタが行なってきたスピーチも収められている。『気候変動と環境危機』を訳す過程で、彼女の歯に衣着せぬ物言いにたびたび驚かされたが、グレタ節とでも言いたくなる鋭い見解を15歳のときにすでに身につけていたことがよくわかった。 

 2018年末にポーランドのカトヴィツェで開かれたCOP24で、アメリカの環境専門家のスチュアート・スコットが彼女の勇気ある行動に涙がでたと言い、ジャンヌ・ダルクだと思ったと語る動画を、少し前にたまたま観ていた。あいにくリンクを保存しておかなかったため、どうにも探せず、再確認できないのだが、どうやら彼がグレタを国連の場に引きだした当人のようで、惜しくも2021年7月に急逝しているようだった。捨て身の覚悟で人類最大の問題に挑み、直球を投げてくる若い世代が登場したことが、両親を皮切りに、世の中を動かしているのだと思った。

ミネソタ州リンドストロームを訪ねたエピソードに、赤いダーラナホースの看板のことが書かれていて、つい買ってしまったミニサイズの馬と、その昔、娘につくってやったおさげ髪のウォルドルフ人形。トチーちゃんと名づけられ、可愛がられたのでだいぶ汚れてしまったが。

『グレタ たったひとりのストライキ』
マレーナ&ベアタ・エルンマン、グレタ&スヴァンテ・トゥーンベリ著、羽根 由訳、海と月社

2022年10月28日金曜日

グレタ・トゥーンベリ

 この半年間、文字どおり休みなしで働きつづけ、いま最後の山を登り始めている。昨年の後半取り組んでいた大部の作品が、諸般の事情でなかなか進まず、手持ち無沙汰になっていた3月末に、グレタ・トゥーンベリが編集した本をやらないかと声をかけていただいた。352ページで図版も多いという話だったので、7月末脱稿、11月刊行と納期の厳しい仕事だったが、『グレタ たったひとりのストライキ』のような本を想像して、並行して作業できるかなと思い、気軽に引き受けた。  

 ところが、蓋を開けてみると、The Climate Bookと題されたこの本は、科学界の大御所から先住民活動家、トマ・ピケティやナオミ・クラインのような著名人まで、寄稿者が100人を超える強烈な本で、グレタ本人も数多くの章を書き、誰よりも痛烈なパンチを繰りだすという内容で、驚きの連続となった。いつまでやっても終わりが見えないワードファイルの原稿と格闘するなかで、各著者からの訂正が巨大なエクセル・ファイルになって次々に届き、いざゲラになったPDFを開けてみると446+18ページもあり、しかもB5版変形という図録並の大きさの本であることがわかった。 

 ブライアン・フェイガンの『歴史を変えた気候変動』(2001年)に始まり、気候変動や環境をテーマにした本はそれなりに訳してきたものの、温暖化問題を直接扱った本を最後に訳したのは、ウォレス・ブロッカーとロバート・クンジクの『CO2と温暖化の正体』(2009年)であり、いつまでもつづく否定論者からの攻撃にほとほと嫌気が差していたので、2015年のパリ協定のころには、関連のニュースを真剣に追わなくなっていた。グレタの活動についても、正直言えば、この複雑な大問題をどれだけ理解しているのだろうかと、半信半疑で見ていた。 

 そんなわけで、気候科学そのものに関連した章はさほど苦労せずに訳せたけれども、国連気候変動枠組条約締約国会議(COPと略されるもの)や、環境活動家たちのこととなると、面食らうことばかりだった。カーボンフットプリント、カーボンオフセット、カーボンクレジット、ネットゼロ、ネガティブ・エミッションなどの用語が次々にでてきて、訳語を書きつけたノートが何十ページにもなった。どうにも探せなくなって、結局エクセルで打ち直しところ、最終的に800以上にもおよんだ。 

 バイオ燃料とバイオマス燃料はどう違うのか等々、いちいち言葉の定義を確かめ、訳語を調べるためにあれこれ検索するたびに、「リジリエントでサステナブルかつインクルシーヴなクライメート・ソリューション」といった調子の、電文のなかにひらがなの助詞が交じるような文章に遭遇し、げんなりさせられた。こんな調子では大多数の人は、気候や環境問題と聞くだけで、食わず嫌いになってしまうだろう。 

 しかもなぜ、よりによってこうも間違った発音でカタカナ語をつくるのだろうか? サステナブルは後ろにアクセントがあるので、サステイナブルとなるはずだが、サスティナブルと書く人すら散見される。肝心の気候すら、クライメートとカタカナ書きする人が圧倒的に多い。「クライメートゲート事件」以来だろうか。ゲートはいまさらゲイトと書けないとしても、気候のほうは「ライ」にアクセントがあるので、後ろの母音は小さな音にしかなりえない。クライミトが近いと思うけれど、これでは理解できない人が多いだろうから、私はクライメトと表記することにしている。

 きわめつけはソリューションだ。日本語では言いにくいはずの「リュ」はどこからでてきたのか。フランス語ならソリュシオンとなるが、英語の場合はソルーションではないのか。「ソリューション」は環境問題に限らず、PR会社や広告代理店、コンピューター関係でも広く使われているようなので、完全に定着しているようだ。 

 レジリエント、レジリエンスは最近の流行語のようで、最初に使った人が「打たれ強い」のような訳語を広めてくれていたら、それで定着していたのだろうが、いまはもっぱらカタカナが主流のようだ。ただでさえグローバルノース(北の先進国)とか、プラネタリー・バウンダリー(地球の限界)とか、本来は使いたくないカタカナ語を入れなければならないため、読者の負担を少しでも軽減しようと、今回レジリエンスは回復力で通すことにした。それで充分に意味は通じるはずだ。 

 インクルシーヴもわかりづらい言葉だ。岸田首相は先日、所信表明演説で包摂社会という言葉を使っていたが、どのくらいの人が意味を理解できたのだろうか。英語でも反対語のエクスクルシーヴは、排他的もしくは、一見さんお断りといった意味でわかりやすいが、インクルーシヴのほうは一般人には意味をつかみにくい言葉なのかもしれない。グレタの本では何人かが「誰も取り残さない」という表現を代わりに使っていた。こういう工夫は大切だ。

 今回の本の原題The Climate Bookは、最初に見たときは何だかピンとこない題名だと思った。バラバラと送られてきたワードファイルに付けられたファイル名TCBを、恥ずかしながら、長いこと意味も考えずCTBと誤解していたほどだ。しかし、読み進めるうちに、彼女がこれを定冠詞のついた「ザ・気候の本」として打ちだした意図がよく理解できるようになった。 ヨーロッパ各国では10月27日に、各国語版が同時発売されたようだ。それぞれLe Grand Livre du Climat (フランス語)、Das Klima Buch(ドイツ語)、El Libro del Clima(スペイン語)、Klima Bogen(デンマーク語)、Klimat Boken(スウェーデン語)、Het Klimaatboeck(オランダ語)、O Livro do Clima(ポルトガル語)など、ほぼ同じ意味の書名で、基本的にすべて同じ装丁で売りだされている。 

 個人的には日本語版も「気候の書」と名づけたかったのだが、気候変動にまったく理解のない日本の社会の現状を考慮して、『気候変動と環境危機:いま私たちにできること』(河出書房新社)となったようだ。日本語訳は何かと時間がかかるため、もともと1カ月遅れの刊行予定だったが、このままうまくいけば、12月初旬には店頭に並ぶはずだ。とにかく書店で見かけたら、手に取ってなかを見てほしい。わずか4年前の8月に、両親の反対を押し切って、15歳でスウェーデンの国会議事堂前に座り込んだ少女が、それ以来、この人類最大の問題を深く理解するようになり、その本質を暴いてみせ、世界各国のこれだけ多くの人びとを動かしてきた事実に、誰もが驚かされるはずだ。 

 私自身は、じつを言えば1997年に京都国際会館で開催されたCOP3から、少なくとも気候変動という言葉は知っていた。旅行会社にいたころ、しばらく国際会議のチームにいたこともあって、気候に関する大きな会議の仕事を受注しようと同僚たちが頑張っていたのを知っていたからだ。あいにくJTBに取られてしまったこの会議で、京都議定書が採択されたニュースなどは、退職したあとも懐かしく追っていた。ブッシュ(子)政権時にアメリカが離脱した過程について言及された箇所を訳しながら、当時グレタは何歳だったのだろうかと計算し、まだ生まれてすらいなかったことに気づいて仰天した。 

 考えてみたら、彼女が学校ストライキを始めたのは、私の孫が生まれた直後のことだった。娘との会話のなかで、何かとグレタの話になるので、いまではその孫も「車に乗るとグレタが怒るね」などと言うようにもなったが、先日は「お仕事しないといけないの。今日まで、ふみきりなの!」と言うので、爆笑してしまった。よほど、締め切り、締め切りと聞いていたのだろう。大人は4年間に成長しないどころか、後退する人がほとんどだが、子供や若者は大きく成長を遂げるのだと、改めて思う。 無事に刊行されたら、この圧倒されるような書の内容について、改めて記事を書きたい。

 その前にもう一つ、やはり12月に刊行予定の大きな山を乗り越えなければならないので、いまここで倒れるわけにはいかない。もう一踏ん張り頑張らねば!

近所の公園の山桜と孫。あまりに多忙で、よい撮影日を選べなかったけれど、一応、春夏秋冬に

8月の初校時、2つの仕事のゲラが積み重なっていたころ

2022年10月7日金曜日

『プロパガンダ』を読んで

 2カ月も前に読んだ本について、いまさら何かを書いても仕方ないかと思ったのだが、目下の仕事で引用されていた箇所の訳文を確認するため、もう一度図書館から借りたので、頑張って少しばかり書いておくことにする。「PRの父」と呼ばれたエドワード・バーネイズの『プロパガンダ』[新版](中田安彦訳・解説、成甲書房)という本だ。  

 この半年間、たびたび「ロシアのプロパガンダ」という言葉がネット上を飛び交っていたので、ちょっと興味をそそられて軽い気持ちで借りてみたのだが、驚くような内容だった。かいつまんで説明すると、プロパガンダはもともと国外伝道師を監督、教育するローマの組織や機関を指す言葉だったが、第一次世界大戦中に「戦争宣伝」として大衆の考えをコントロールする手段として使われるようになった。原書が書かれたのは1928年で、当時すでに多くの人はこの言葉を不快なものと感じていたという。 

 訳者の解説によると、第一次世界大戦ではドイツ兵に「野蛮なフン族のアッティラ」というイメージを植え付け、「敵であるドイツは悪魔であり、味方であるアメリカは正義の使者である」という単純な二分法によった戦争宣伝のかなりの部分が誇張で、虚偽も含まれていたため、プロパガンダという言葉のイメージが悪くなったようだ。 

 そのため、同じように大衆をコントロールする手段として、大企業に大衆が何を考えているかを伝え、大衆には経営についての考え方を伝える橋渡し役のプロパガンディストは、「パブリック・リレーションズ(PR)・コンサルタント」と呼ばれるようになったという。PRはプロパガンダと同義だったのだ。  

 ジークムント・フロイトの甥というバーネイズは、企業が流行と需要を生みだし、大衆を意のままに操って大量消費させる手法を本書で明らかにする。そこで説明されるPRコンサルタントの役割は基本的には、大衆と顧客企業との関係を徹底的に分析して、適切な方針を打ち出すまでであり、その先は広告代理店と棲み分けているようだ。広告代理店なら誰もがその存在を知り、具体的に何をやっているかも想像できるが、PR会社となると、何をしているのかよくわからないのは、そのあたりに理由がありそうだ。  

 色々な意味で刺激的な本で、原書と読み比べたわけではないが、訳文は非常に読みやすかった。手元に置いておきたい本だが、2010年刊のこの新版もすでに絶版のようで、電子書籍しか簡単には手に入らない。おそらく図書館には入っていると思うので、ぜひご一読を。

2022年9月10日土曜日

工作熱

 いつの間にか日の出は1時間近く遅くなり、夜はツヅレサセコオロギとアオマツムシにカネタタキが合いの手を打つのを聞きながら過ごすようになったが、私は相変わらず大量のゲラと格闘している。近所のプールに行こうという孫との約束も果たせないまま夏が終わってしまったようだ。休む間のない苦行僧のような日々が4月からつづいているため、ブログもなかなか更新できずにいる。 この間に参考文献として非常におもしろい本を何冊か読んだし、仕事のなかで発見した重大な事実もあるので、書きたいことはいくらでもあるのだが、考えをまとめるだけの余裕がない。代わりに、私のストレス発散方法について少しばかり書くことにする。暑くて散歩する気にもなれないなかで、ひたすら仕事に追われているこの数カ月間、私がまだ気も狂わずにどうにか乗り切れているのは、おそらくこのおかげと思うのだ。そう、工作である。 

 第1号は、これを工作と呼べるかどうかは別として、この夏、コロナ禍になって以来久々に近所のお祭りがあると聞いて、俄然やる気になった孫の浴衣づくりだった。まだ孫がおむつをして這っていたころ2メートルだけ買った布が眠っていて、これ以上大きくなる前に仕立てないと無駄になりそうだったからだ。金子みすゞの詩「淡雪」をテーマにしたという布で、「おもしろそうに 舞いながら、ぬかるみになりに 雪がふる」という冬の詩なのだが、いかにも浴衣になりそうな柄で、古風な顔立ちの孫には似合うだろうと思ってちょっと奮発して買ったものだった。浴衣などもちろんつくったことはなかったが、無料型紙をダウンロードし、布の裁ち方を工夫して2メートルでやりくりし、初めて袋縫いや落としミシンなるものも動画で学びながら、どうにか縫いあげた。お祭りそのものは、盆踊りもない夜店だけの子供祭りだったが、孫に祭りの雰囲気だけはいくらか味わわせてやることができた。帯は、娘が以前に友禅染め作家の福原勝一さんからいただいた手染めのスカーフで代用した。うまくは結べなかったが、唐辛子色が映えて不細工な浴衣が本物らしく見えた。 

 次につくったのは、フェイスブックのタイムラインに流れてきた、ゼムクリップと洗濯バサミとアイスクリームの棒でつくる簡単なクランクシャフトで、ふわふわと上下に飛ぶメンフクロウの工作だった。洗濯バサミの部分は手持ちの棒で代用できそうだったが、100均にあるのを知っていたので、これだけ買い、残りはほぼ動画のとおりに、うちにある大量のプリントアウト用紙も使って、それらしきものをつくり上げた。この手の単純な仕組みに興味をもってもらえればと、孫の誕生日にもって行ったのだが、「一緒につくりたかったのに」と不機嫌そうな一言をもらっただけだった。いつか一緒に羽ばたく蝶をつくってみよう。 

 誕生日プレゼントがこの工作物だけでは気の毒なので、果物・野菜柄の布を1メートルだけ注文して、ごく簡単な夏の袖なしワンピースをつくった。ヤッフー・ニュースの片隅に何度も現われては私を誘惑していた広告につい釣られたのだが、同じデザインでダブルガーゼやオックス生地など、数種類の布地を選ぶことができた。届いてみるとちょうど1メートル分が、いかにもプリントアウトされたという感じの布で、注文のあった長さ分だけを、その場でプリントアウトして販売しているものと思う。これなら在庫を抱える必要はないので、面白いアイデアだと思った。子供の絵のような手描きのイラストで、大きなスイカまである柄が素敵だと思ったのだが、肝心の孫はチラリと見るだけで、一向に興味を示さなかった。絵柄のなかで好きだったのは青いプラムだけ、と素っ気ない。娘によると、最近はもっぱら電車柄のTシャツがお気に入りらしく、親がかわいいと思うワンピースを着てくれなくなる時期は近いかも、とのことだった。 

 疲れた頭で思いついた誕生日のプレゼントは、こんなわけでどちらも不評だったので、その挽回を兼ねて、孫が欲しがっているというメリーゴーランドづくりに挑戦してみた。何しろ、ちらりと検索したところ、見事に動くメリーゴーランドを段ボールで工作している人の動画を見つけてしまったのだ。仕事の合間に何度か再生して工程をとくと眺め、たくさんのコメントのなかから上下に動かす仕組みについてのヒントがわかると、どうしてもつくってみたくなくなった。何よりも試したかったのは、段ボールの波形の中芯を利用したギアだったが、うちにある段ボールでは強度が足りず、動きがスムーズでなくなるうえに、しばらく回しているうちに波形が崩れてしまったため諦めることにした。よって、動力源のモーターも購入しないことにした。スムーズに回転させるためのベアリングを買うかどうか最後まで迷ったが、どうせ大したものはできないだろうと考え、お金をかけず、家にある材料だけでつくることにした。利用したのは、段ボール以外では、古い糸巻きと菜箸、それに焼き鳥の串と、以前に小さな人形をつくるために買って、たくさん残っている木の球で、動力は原始的に手回しとした。大きさも、動画で紹介されていたものの半分のサイズにした。 

 およその仕組みができた段階で孫と娘に披露したら、どちらも大喜びしてくれたので、乗り物の動物をつくる作業は2人に任せ、屋根などを孫と遊びながら、実際には並んで勝手に工作しながらつくった。円錐形の屋根など斜辺の長ささえ決まったらあとは簡単だよと豪語したあと、コンパスで設計図を描いてみせると、孫は興味津々になり、自分にも円を描かせろとせがんだ。屋根は8枚はぎにすることにした。段ボールの切れ端から扇形を切り取って傘状につなぎ合わせ、さてそれをどうやって本体の上に接着するかと考えているあいだに、孫が扇形部分の枚数を数え始めた。「1、2、3……7!」一周回っているうちに、数え間違えたに違いない。「もう一度、ちゃんと数えてご覧」と命じたところ、やはり7だと言う。まさかと思いながら自分で数えてみると、やはり7枚しかない。設計図は8枚なのに、前日、風呂の支度の合間に慌てて貼り合わせた際に7枚で尖った屋根にしていたらしい。娘にからかわれながらつくり直すはめになった。後日、孫に絵の具で塗ってもらった青系と赤系の紙を切り抜き、一緒に糊貼り作業をした。完成したメリーゴーランドは、小さな人形たちがかろうじて乗れる大きさで、動きはだいぶガタピシしているが、それでも床部分を手で回すと乗り物が上下に動き、じつに楽しい工作物になった。 

 トリとなるのは、人形たちのお月見台だろうか。台そのものに相当する、原始人の枝編み細工のようなものをつくったのは春先だったと思うが、中秋の名月が近づいため、そこまで登れるようにボビンで滑車をつくってやった。『14ひきのおつきみ』が愛読書だった娘が忙しいとこぼしながら紙紐で編んだ籠に乗って、小さい人形たちが吊りあげられる仕組みだ。うちの庭に繁茂しているノブドウの蔓を使って、紐がずれないように工夫した。台風がきているなか、幸運にも中秋の名月の晩だけ晴れたので、人形たちも一緒のお月見夕ご飯にも呼ばれてきた。 短時間のつもりが、娘宅のベランダから肝心の月がなかなか見えず、月を待ちながら風流なひとときを過ごすことになり、間違いなく気分転換になった。

 ついでに宣伝を。  
 娘のなりさが、このほど出版ワークスから『はばたけ!バンのおにいちゃん』という絵本を出版することになった。もともとはイギリスに留学していた時代の卒業制作につくった作品で、卒業展を見にきてくれたマクミラン社からイラストにたいする賞はいただいたものの、結局出版まで漕ぎ着けずに終わってしまったものだった。絵本の勉強をするために留学したはずの娘は、イギリスに着いて早々に中古の自転車を買い、あちこちにバードウォッチングにでかけるうちに、野鳥の会本家のようなRSPBに加入し、なかば鳥類学を学びに行ったような3年間を過ごした。この物語は、ケンブリッジ市内に驚くほどたくさん生息している水鳥のバンの観察をつづけるうちに、思いついたものらしい。  

 3年前にボローニャ展が西宮の大谷記念美術館を巡回した際に、市内のギャラリーアライで開かせていただいた個展で、この学生時代の作品のダミー本を展示したところ、訪ねてきてくださった編集者の方が目を留めてくださり、日本での出版が決まったという経緯だった。物語の舞台を日本に移したこともあって、絵は全面的にやり直した。リノリウム版画と消しゴム判子を主とするミックスメディアというところは変わらないが、荒削りだった10年前の作品に比べて、版画はずっと洗練されたものになったと思う。娘にとって非常に思い入れのある作品だけに、やたら細かいところにまでこだわり、苦労して仕上げていた。ご近所の書店の児童書コーナーで見つけたら、お手に取っていただければ嬉しい。

「淡雪」の浴衣姿で花火をする孫
 東郷なりさ作、木版画

 お祭りの日の実際の浴衣姿

 クランクシャフトで飛ぶメンフクロウ

 誕生日プレゼントにしたワンピース

 メリーゴーランド

 お月見台と滑車
 
 とうごうなりさ作、上田恵介監修、出版ワークス

2022年8月11日木曜日

クリスマス休戦

 7月末締め切り厳守の仕事がまだ終わらず、目薬を点しまくり、湿布を貼りまくりながら、連日格闘している。それでも、とりあえず本文だけは何とか仕上げ、あとは大量の図版のみとなったので、書きかけだったブログ記事だけ、アップしておくことにした。  

 1カ月近く前、ふと見た新聞の1面下に『戦争をやめた人たち:1914年のクリスマス休戦』(鈴木まもる作、あすなろ書房)の広告を見つけ、古いメールを繰ってみたのだ。このエピソードについてよく知っているはずだったからだ。  

 最初にこの有名な史実を読んだのはたぶんフェイガンの気候変動の本だったと思うが、私が祖先探しをするなかで大量のメールをやりとりすることになったイギリス人のおじいさん、イアン・アプリンさんから、ご自分の父親があのクリスマス休戦のときの兵士だと聞いていたのである。  

 記憶は曖昧だったが、2014年12月23日、奇しくもクリスマス直前にいただいたメールに、こんなことが書かれていた。英文のまま転記させてもらう。 

Out of interest, yesterday's "Sunday Telegraph" had a half-page article about my dear father, including a photograph! A 100 years ago he was present at the famous 'Christmas Truce in 1914', when the British and the German armies facing each other in the trenches ceased fighting on Christmas Day. They met together in 'no man's land' between the trenches, exchanged greetings, sang carols and played football! On Christmas Eve my father sang a popular song of the time "Tommy Lad" to which the Germans called out 'sing again Englishman'! The newspaper had found a copy of a letter my father had written to a friend back in England describing the events. They had telephoned me earlier for any additional material details that I might be able to add. As you know in the First World War Japan and Britain were close allies.  

 当時の私は、自分の祖先がかかわったもっと以前の話に気を取られていて、この驚くべき事実をよく確かめもしなかったのだが、改めてネット検索をしみたら、2014年12月21日付の『サンデー・テレグラフ』の記事そのものが、いくつかの関連記事とともに見つかった。 イアンさんのお父さん、エドガー・ジョン・アプリンは、第1次世界大戦の西部戦線の塹壕戦のさなか、1914年のクリスマス・イヴに、当時のヒットソングの「トミー・ラッド」という歌を塹壕のなかで歌いだしたのだという。クイーンズ・ウェストミンスターズ連隊所属で、当時26歳だった彼はテノールの美声の持ち主だったらしい。中間地帯の反対側にいたドイツ兵がそれを聞きつけ、英語で「もう一度歌ってくれ、イングランド人。トミー・ラッドをもう一度歌ってくれ」と呼びかけたのだと、記事には書かれていた。このエピソードについてエドガーが故郷のイギリスに書き送った手紙が、親戚の家で遺品整理中に見つかり、新聞記者がさらに詳しい話を聞こうと、息子であるイアンさんを訪ねてきたようだ。現場の兵士のあいだで48時間の休戦が合意され、歌だけでなく、タバコなども交換したことが、手紙には書かれていた。  

 クリスマス休戦は10万人規模の突発的な出来事だったようで、西部戦線の各地で同時多発的に同じような現象が起こったのかもしれない。そのうちのどこまでが実話で、どこからが尾鰭なのかはわからないが、少なくともイアンさんのお父さんが確かにその1人であったことは、遅まきながら確認できた。愛馬と一緒に写っている写真のコピーもいただいていたのを思いだし、探してみた。  

 鈴木まもるの絵本の話は、ドイツ側の塹壕から「聖しこの夜」が聞こえてきたというエピソードをもとに綴られ、土砂降りのつづいた悲惨な塹壕戦の様子がわかるモノトーンのラフなタッチの絵が、いい味をだしている。最後に見事な夕焼けの場面でカラーになるところが、視覚的にも兵士たちの感動を伝える。ウクライナの戦争が始まったのは、あとがきの絵を描いているときらしいので、たまたまタイムリーな出版になったようだ。  

以前にイアンさんからいただいたお父さんのエドガーの写真

2022年7月1日金曜日

「アラビヤ馬フレッデリー」

 日頃よくフェイスブックのタイムラインで馬関連の動画を見ているせいか、ここ数日、フランスのマントンで毎年開かれているアラブ種の馬の品評会らしきものの動画が立てつづけに流れてきて、つい何本も見てしまった。炎天下でもうもうと土煙を立てながら疾走する見事なアラブ馬を、引き綱一本で巧みに操り、汚れるだろうにスーツ姿で数分間一緒になって走り回る調馬師が同じくらい見事なのだ。  

 アラブ馬がツヤツヤとした肌をしていることや、サラブレッドほど体高がないことは以前から知っていたが、何度か見るうちに、どの馬も尾を異様なほどに立てて走っていることに気づいた。普段見る競馬馬の画像ではまず見ない形態だ。少し調べてみると、確かに尾を高く上げることはアラブ馬の特徴らしく、それとともに鼻面が凹にカーブしてほっそりしていることも特徴のようだった。ちょっとタツノオトシゴに似た顔だ。  

 ふと思いついて、私がアラブ馬に関心をもつきっかけとなった160年近く前の「アラビヤ馬フレッデリー」のイラストを確認してみた。私の高祖父が馬術を習ったと言われるイギリス公使館付騎馬護衛隊隊長アプリンが、アロー戦争に従軍後におそらく大連から長崎経由で日本に連れてきた馬だ。アプリン大尉の絵はチャールズ・ワーグマンが『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』でも、戯画として『ジャパン・パンチ』にもかなりの点数で描いている。拙著で使わせてもらった2点ではいずれも、馬は並足で進んでいるのでさすがに尾は上に立てるほどではないが、確かにサラブレッドのようにただ垂れてはおらず、後方に突きだしていた。鼻面も隣のずんぐりした在来馬に比べると、ほっそりとくびれている。どうやら、画家は彼の馬をアラブ種らしく描き分けていたようだ。 

『ジャパン・パンチ』を見直してみると、以前から気になっていた1枚でアプリンが乗っている馬は、明らかにアラブ馬ではなく、日本の在来馬だ。やたら多めの前髪に、シマウマのように逆立ったたてがみ。日本では人間があまり手を加えずに馬を育ててきたため、在来馬には野生のウマ本来の特徴がいくらか残っており、逆立ち気味のたてがみはその1つだった。ワーグマンは単なる体高の差だけでなく、こうした特徴もしっかり捉えて戯画に表わしていた。 

 アプリンが日本の馬に跨っているこのイラストは、1865年10月号に掲載されていた。ひょっとしてこの馬が、上田藩が1年間彼の手元に預けたという仙台馬の飛雲だったりしないだろうかと、想像してみたくなる絵だ。この年の5月には、第二次長州征討で飛馬も藩主松平忠礼を乗せて大坂に向かったと思われるので、飛雲が引き取られてしまったあと、アプリンがどこかで入手した日本の馬だった可能性もあるし、ワーグマンがただ遊び心で乗り馬を変えてみたのかもしれない。でも、もしかしたら、飛雲に乗って横浜周辺で、妙なスタイルの狩りをしていた可能性もあるのではないか。 

 ついでながら、徳川慶喜がナポレオン・ハットをかぶって馬に跨がる古写真が残っている。この馬はその特徴からして、ナポレオン3世から寄贈されたアラブ種ではなく、在来馬の可能性が高そうだ。実際、1867年に二十数頭の馬が到着したころ慶喜は大坂にいて、馬を見ていないとウィキペディアの「ナポレオン三世の馬」の項目に書かれている。騎乗姿の古写真は大坂で撮影されたという説も見受けられる。 

 そうだとすると、つい気になるのが、慶喜の背後にある幔幕だ。拙著の表紙に使わせていただいた松平忠礼と飛雲、および私の高祖父が写る写真の背後にも、よく似た幔幕がある。しかも、私は諸々の理由から、この写真が通常言われるように戊辰戦争時ではなく、第二次長州征討時の撮影ではないかと推察している。幕末の上田藩の写真の多くはアンブロタイプだが、この写真と、同時期の撮影と思われる鼓笛隊の写真は鶏卵紙だった。そう考えると、大坂に進軍してそのまま手持ち無沙汰のあいだに、大阪城で写真撮影をしていた可能性もなきにしもあらずだ。 

 FBで見た動画に誘われて、ついまたこんな寄り道をしてしまった。すでにもう7月。月末まで脇目も振らずねじり鉢巻で頑張らねば。

追記:じつはこれを書くに当たって漠然と、種子島の絶滅したウシウマのことを思いだしていたのだが、それによく似た古代中国の馬の像をどこで見たか思いだせず、その部分を削除して投稿した矢先に、甘粛省博物館が発売した「ブサ可愛い」ぬいぐるみなるものの記事を見たら、まさにそのモデルとなった後漢の馬踏飛燕の写真がでてきた。いまよくよく見ると、この後漢の馬は尾に毛のないアラブ種の馬と言ってもいい姿形で、ウシウマともどことなく似ている。つまり、アラブ馬が後漢時代に中国に渡り、それが秀吉の朝鮮出兵とともに日本に渡ってきたという推測だ。調べてみたら、以前にその彫像について書いていた(苦笑)。
 

1867年7月『萬國新聞紙』に掲載された広告。私が祖先の調査を始めてすぐに見つけた史料の1つだった

ワーグマンは『ジャパン・パンチ』のなかでSpurs(拍車)と偽名で呼んでおり、彼の馬はFreddyとしている

1865年10月号の『ジャパン・パンチ』より

2022年6月26日日曜日

七夕論考

 七夕までに各家庭で飾りをつくってくるようにと、孫が幼稚園で言われたらしい。もち帰ったプリントには、牛乳パックやスズランテープを使って好きなようにつくるようにと書かれていた。どうやら、仙台や平塚の七夕祭りの飾りのようなものをもち寄って吊るすようだ。立体工作が苦手な娘は、そそくさとプリントを私に押しつけ、「任せた!」の一言。

 七夕の飾りは一時的なもので、終わればすぐにごみになる。新たな物は買うまいと心に決めて、うちにある不用物を総動員することにした。七夕に関しては以前に伝説をかなり調べたことがあるので、真っ先に思いついたのが上部のくす玉状のものを上弦の月の船にすることだった。吹き流しは、何年か前に買った大判の小川和紙がまだ1枚そのまま残っているので、それを細く切って色をつけることにした。大量の絵の具が必要になるが、これまた以前に浮世絵のベロ藍(プルシアン・ブルー)について調べたとき、つい買ったまま用途を見いだせなかった染料があるので、これの出番にすることにした。そこに娘が以前つくってくれた消しゴムスタンプのカササギを飛ばし、適当に金銀の星を捨てずに取ってある大量の包装紙から切り抜いて散らす、というのが私の案だった。

 ところが、肝心の孫は不服そうで、「電車がいい」とのこと。そこで、吹き流しの何本かには線路を描き、そこに銀河鉄道を走らせることにした。これも、やはり買ったまま使い道のなかったメタリックのセタカラーで描き、孫に筆で枕木を入れてもらった。列車は娘が切り絵でつくった。ゴディバの包装紙でくるんだ上弦の月は、巨大なムーンスティックのようで、見れば見るほどおかしい代物になった。吹き流しの上部の凧糸がいやに目立ってしまうため、七夕らしく緑・紅・黄・白・黒の5色に塗り分けた。孫と遊びながらの紙工作は楽しく、わが家の不用物が断捨離でごみになる前にアップサイクルできたのはよかった。追加で支払ったのは、Photoshopで増殖したカササギの画像を、水に濡れても滲まないようにコンビニでカラーコピーした50円と、足りなくなったボンド・糊のみだった。  

 この工作に当たって、2014年に書いてフェイスブックだけで公開した私の「七夕論考」を読み返してみたら、結構詳しく調べていたので、かなり長文だが改めてブログに掲載しておくことにする。調べ直していないので、誤字・脱字や勘違い等々あるかもしれないが、お時間のあるときにお読みいただければ幸いだ。 

 ***** 七夕論考        2014.07.06  

 七夕伝説について少々調べてみた。織女・牽牛という名称が記された最古の文献は、『詩経』の小雅の「大東」と言われている。『詩経』は殷(商)から春秋時代までの詩を、紀元前470年ごろに孔子が編纂したされる。  

維天有漢、監亦有光 これ天に大河あり、見ればまた光あり  
跂彼織女、終日七襄 爪先立つ織女は、終日七回移動する  
雖則七襄、不成報章 すなわち七回移動するといえども、織物もできず  
睆彼牽牛、不以服箱 輝く牽牛は、箱車を引かず  

 こと座にはヴェガの下に3つ(実際には4つ)の星が逆三角をなして見えることから、跂と表現したようだ。七襄の意味は定かではないが、襄はすなわち駕、反という古い注釈があり、天空を移動する意味と思われる。報章は、杼を往復させて機を織ること、それによってできた織物を指す。この詩の前後には、ほかにも啓明・長庚(金星)、箕(南斗六星の柄以外の四星)、斗(北斗七星)など、天体に関する言及が多々あり、織女と牽牛の関係は定かではない。二十八宿という天の赤道上の星座の概念を描いた前433年頃の漆箱が出土しており、当時すでに天文学が盛んであったことは窺える。 

『史記』天官書には「牽牛為犠牲、其北河鼓、河鼓大星、上将、左右、左右将。婺女、其北織女、天女孫也」とある。『史記』は前漢七代皇帝の武帝時代に司馬遷(紀元前145–前86年頃)によって編纂された。この時代の牽牛は、牛を引く人物ではなく、荷や犂を引く牛のほうを、犠牲になる役畜を意味し、アルタイルではなく、少し南にあるやぎ座の六星、つまり牛宿を指していた。当時、アルタイルは河の太鼓と呼ばれていたが、河鼓は上将でもあり、アルタイルの両脇にある小さい二星は、左右に連れた将軍とされていた。織女は天女孫で、北極星である天帝の孫だ。ただし、この時代の北極星は地球の歳差運動により、現代のこぐま座α星ではなく、β星だった。紀元前11,500年頃はヴェガが北極星だった。  

 同じく武帝のころに編纂された『淮南子』の巻末付録に「烏鵲填河成橋而渡織女」(カラスとカササギが河をうずめて橋をつくって織女を渡す)と書かれていたと言われるので、鵲橋または烏鵲橋というアイデアは前漢にはすでにあったようだ。ただし、現存する文書記録としては唐代の『白孔六帖』などにその引用が残っているのみである。  

 後漢の作と考えられている作者不詳の次の一首は、織女と牽牛の悲恋をテーマにしており、七夕に降るという催涙雨もこの詩に書かれている。これは南北朝の梁(502–557 年)の昭明太子が編纂した『文選』 の「古詩十九首」に収録されている。梁の武帝は学問を奨励し、文化が大いに繁栄し、この時代の書は飛鳥以降の日本にも大きな影響を与えた。  

迢迢牽牛星 皎皎河漢女 はるか彼方の牽牛星、清らかに光る天河の娘  
纖纖擢素手 札札弄機杼 細い素手を抜き、さっさと杼を通す  
終日不成章 泣涕零如雨 終日かけても織りあがらず、涙が雨のように降る  
河漢清且浅 相去復幾許 天河は清く浅い、またどれほど相い去るのか  
盈盈一水間 脈脈不得語 水の満ちた河に隔てられ、いつまでも語れない 

 『文選』には曹操の子で、魏の初代皇帝の曹丕(187–226年)の「燕歌行」という最古の七言詩も収録されている。「秋風蕭瑟天気涼。草木搖落露為霜。羣燕辭帰雁南翔」(秋風吹き渡り冷涼としてきた/草木は葉を落して露は霜となる/燕の群れは帰ってゆき、雁は南にやってくる)で始まるこの詩は、戦争から帰らない夫を待ちわびるもので、こうつづく。  

明月皎皎照我牀  明月は皎皎とわが床を照らし  
星漢西流夜未央  天河は西に流れ、夜は尽きない  
牽牛織女遥相望  牽牛と織女は遥かに相望む  
爾獨何辜限河梁  あなただけ何の罪で河に隔てられたままなのか  

 これらの詩では7月7日との結びつきは定かではないが、後漢の崔寔の『四民月令』に、「七月七日、曝経書、設酒脯時果、散香粉於筵上、祈請於河鼓織女。言此二星神當會、守夜者感懐私願。或云、見天漢中有奕奕正白氣、如地河之波、輝輝有光曜五色、以此為徵應。見者便拜乞願、三年乃得」(7月7日、書を虫干しし、酒や果物を備え、筵を敷き供物代の上に香粉をまき、河鼓と織女に祈る。この夜、二星が会合するのだと言い、二星に祈りを捧げた。そして天河に波涛のようなものが見え、さらに五色の輝きが見えたら、これを良い兆候と拝み、富を願い、長寿を願う)とある。    

 東晋(317–420年)になると、道教の著述家である葛洪が『西京・雑記』に「漢彩女常以七月七日穿七孔針于開襟褸、倶以習之」(漢の宮女はつねに7月7日に〔未央宮内の〕開襟褸で、七本の針の穴に糸を通し、人びともこの風習に習う)と記しており、織女に手芸上達を願う乞巧奠(きっこうでん)の行事の最初の記述となっている。 梁の宗凛の『荊楚歳時記』 には「七月七日、爲牽牛織女、聚會之夜。是夕、人家婦女、結綵縷、穿七孔針、或以金銀鍮石爲針、陳几筵酒脯瓜果於庭中、以乞巧。有喜子網於瓜上、則以爲符應」と、さらに詳しく書かれている。鍮石とは真鍮のことで、七孔針は真鍮製の細い針を七本並べて、五色の糸を通して結ぶ。筵に供物台、酒と乾肉、瓜を庭に並べる。 瓜は七夕と関係の深いものの一つだが、いるか座の四星が『史記索隱』に「匏瓜、一名天雞。在河鼓東」と書かれていることにも関係がありそうだ。瓠瓜は瓢箪だが、ウリ科である。喜子はクモのことで、瓜の上に巣を張れば、器用になったことを意味した。

 七夕の行事は、乞巧というかたちで唐代になるとさらに盛んになり、以後、清代まで、月明かりのもとで針に糸を通す「月下穿針」や、水を張った容器に針を投げ入れて波紋で占う「丟巧針」など、女性の器用さから容姿、良縁などを願う行事に発展していった。  

 やはり梁の殷芸の『小説』に、織女と牽牛が渡河する、日本で「星合い」とも呼ばれる七夕の物語の大筋が書かれている。「天河之東有織女、天帝之子也。年々機杼労役、織成雲錦天衣。容貌不暇整。帝憐其独処、許嫁河西牽牛郎。嫁後遂廃織紝、天帝怒、責令帰河東、但使一年一度相会」。天の川の東に織女がいる。天帝の娘で、毎年、機を織る労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇もない。天帝は独身であるのを憐れんで、河の西にいる牽牛郎に嫁ぐことを許す。嫁いだのち機織りをやめたため、天帝は怒って河の東に帰るよう命じ、一年に一度だけ会うことを許した、というものだ。これも原典は失われており、明代の『月令広義』に引用されている。梁の任昉が選者したとされる『述異記』にもほぼ同様の内容が書かれている。興味深いのは、空を見上げると、ヴェガは天の川の西に、アルタイルは東にあるのに、ここではちょうど逆になっている。この時代には描かれた星図が容易に手に入り、東西を取り違えたのだろうか。  

 同じころ、西晋の張華(232–300年)が著した『博物誌』のなかで、7月7日に漢の武帝と西王母が出会う話が登場している。「漢武帝好仙道、祭祀名山大澤、以求神仙之道。時西王母遣使乘白鹿告帝當來、乃供帳九華殿以待之。七月七日夜漏七刻、王母乘紫雲車而至、頭上戴七勝、青気鬱鬱如雲。有三青鳥、如烏大、使侍母旁。時設九微燈。帝東面西向、王母索七桃、大如彈丸、以五枚與帝、母食二枚。帝食桃輒以核著膝前、母曰『取此核將何為?』帝曰『此桃甘美、欲種之』母笑曰『此桃三千年一生實』」。西王母と武帝との出会いは、同時期に成立したと言われる『漢武帝内伝』や『漢武故事』にもある。  

 不老長寿と関連の深い西王母の信仰は、前漢末期に「西王母籌」という迷信となって流行し始めた。秦漢時代は蝗害が平均8.8年おきに発生し、後漢時代はとくに干ばつが頻繁に起きたことなどが、流行の背景にある。当初は『山海経』大荒西経などにあるように、「有人戴勝、虎歯有豹尾、穴処、名曰西王母」、頭に勝の髪飾りを戴き、虎の歯と豹の尾をもち、崑崙山の穴蔵に住む存在だった。しかし、頭に戴いた「勝」榺/千切り(ちきり)は織機の縦糸を巻きつける横木を意味しており、西王母は機織りと養蚕に深くかかわった女神だった。西王母は漢代には道教の女仙となり、不老長寿の秘薬も地日草や霊芝などの薬草から晋代には桃に変わっている。武帝に食べさせたのは、3000年に一度実のなる桃である。3月3日の誕生日には蟠桃会(とうばんえ)という聖誕祭が開かれるようになった。日本の雛祭りを桃の節句と呼ぶのはこれと関係がある。  

 西王母はやがてその名を王母娘娘と変え、容姿端麗な30歳代の女性に変貌した。天帝の娘だったはずの織女は、王母娘娘の子もしくは外孫女という設定になり、そうなるといろいろ不都合が生じてきた。西王母には東王父という蓬莱山の仙人のお相手がいたからだ。そこでいつしか玉皇大帝と名前が変わり、織女はこの大帝と王母娘娘の子になった。これ以降、七夕の物語は道士によって、もしくは民間伝承のなかで、さまざまに分化していった。牽牛という名称も、もともと牛を指していたためか、中国の民間伝承のなかでは牛郎に変わった。王母娘娘が七夕の話に登場するのは、織女を天上へ連れ帰ったあと、牛郎が近づけないように金のかんざしを抜いて天河を波立てる、もしくは河そのものを出現させる場面だ。西王母の頭飾りは「勝」から「華勝」、「金勝」、「七勝」と変わったあげくに、ついには金のかんざしになったのだ。  

 単純だった物語にもいろいろ尾ひれがつき、中国の民間伝承は盛りだくさんの内容になった。織女は『西遊記』(16世紀に成立とされる)にでてくる七仙女の末娘という設定になり、羽衣伝説と合体する。孫悟空が管理する桃園に、蟠桃会の準備で桃を摘みにくる仙女たちだ。七仙女は虹の七色の衣をそれぞれまとって河に水浴びにくる。 牛郎は両親を早くに亡くし、兄嫁にいじめられて、老牛と犂だけで家を追いだされた。ある日、牛郎は老牛にそそのかされて河に行って仙女の水浴現場に近づき、脱いであった羽衣の一枚を盗み、その衣の持ち主であった織女を妻にする。夫婦になった二人は一男一女に恵まれるが、織女は送り込まれた天神によって天廷に連れ去られる。牛郎は死んだ牛の皮をかぶり、子供たちを籠に入れて両天秤に担ぎ、瓢箪をもって天河まで行くが、逆巻く波に隔てられて渡れない。そこで親子三人が交替で河の水を瓢箪でかきだし始め、ついに玉皇大帝と王母娘娘も心を動かされ、一年に一度は会えるようにした、といった筋だ。 

 二人の子供は、アルタイルの両脇にある小さい星だとされた。瓢箪で水を汲みだす代わりに、瓜の水があふれて大河になる話もある。瓢箪畑だったいるか座の菱形の四星は、離ればなれの牛郎に織女が手紙をつけて投げた杼になった。牛郎のほうは、牛の軛、もしくは距骨に手紙をつけて織女に投げ、それがヴェガの下の四星だとされた。織女が自分で羽衣を取り返して天に帰る話では、この二つの小さい星の集まりは、夫婦喧嘩の末にたがいに投げ合ったものと説明される。ちなみに、距骨はアストラガリと呼ばれる占いに使われ、日本では「石なご」という聖徳太子も楽しんだという遊びになり、これがお手玉に発展した。  

 七夕の風習が日本に伝わったのは5世紀ごろで、機織り技術とともに入ってきた。棚式の機なので「たなばた」ということで、機織生産は646年の大化の改新で律令体制に組み込まれ、全国的なものになったという。真鍮の針も、最新技術としてこのころ伝播したかもしれない。七夕の物語は、遣隋使や遣唐使がもち帰った梁時代などの書物から伝わり、道教とは切り離されたせいか、当初の単純なストーリーが残った。日本には牛が非常に少なく、九州、近畿の限られた地域でのみ役畜として利用されていたため、牽牛のほうはいま一つ理解されないまま、職業不詳の彦星という名称に変わった。牛が引く犂(プラウ)は、中国では紀元前6世紀にすでに木製から鉄製に移行しており、漢代には牛と犂を使った耕作が農作業の象徴となっていたわけだが、日本では犂は明治の最新技術だった。そのせいか、彦星が鋤(スペード)を手にしたイラストが散見される。笹を飾る風習は江戸時代に始まり、五色の糸の代わりに五色の短冊(緑・紅・黄・白・黒)を飾るようになった。  

 旧暦7月7日の月は月齢6前後のほぼ上弦の月で、夕方に西の空に見え、22時には沈む。これを天の川を渡る船に見立てて、月が沈んだ夜中に輝きを増す天の川を楽しむこともあったようだが、これが中国由来の風習なのか、日本独自のものかは確認ができなかった。夏の大三角形をなすもう一つの星、はくちょう座のデネブは、中国語では天津四と呼ばれるが、なぜかあまり注目されることはなかったようだ。 七夕は日本では幼稚園児と商店街のための行事となり、中国では「中国情人節」としてバレンタイン・デーのようなものになっているらしいが、グレゴリオ暦7月の梅雨空ではなく、旧暦7月7日にこの晩くらいは夜空を見上げて天の川を探し、2500年の歳月に思い馳せる機会にしてはどうだろうか。

吊るしてみると、七夕の飾りというよりは消防の纏のよう。一瞬、中華鍋を型に張り子にして、底部や側面に丸みをもたせようかと思ったが、動画で張り子の作り方を見てあきらめ、お手軽な厚紙工作にしたので、遣唐使船か巨大な金貨チョコのようになった。

「烏鵲填河成橋而渡織女」
10本の吹き流しに、カササギがスパイラルで飛ぶ幻想的な情景にするつもりだったが、狭い床の上で孫と糊貼りに格闘したため、というより、元来無計画な性分ゆえ、あまり成功しなかった。

 後から思いついて色を塗った5色の糸


その昔、「七夕論考」をまとめた際に作成した関連の星図

幼稚園の園庭に大きな竹を何本も立てて飾ってくれたというので、七夕の夕方見に行ってきた。

2022年6月5日日曜日

『ふるあめりかに袖はぬらさじ』 その2

 日曜日の夜、予定どおり歌舞伎座へでかけてきた。最後に劇場に行ったのはコロナ以前どころか、孫が生まれる前のことだから、本当に久々に幕が上がる前の、現実の世界から芝居のなかの世界へ入る瞬間を味わうことができた。  

 事前に脚本を読んでいたので、おお、この場面はこう演じるのか等々、一部始終が興味深かったし、一読しただけでは見落としていた重要な台詞も多々あり、やはり生で観て初めて芝居は理解できると思った。ほぼ出ずっぱりのお園役の玉三郎は、女形の発声で長時間喋りつづけ、それを1カ月繰り返すのだから相当な負担になるだろう。第4幕はとくに大熱演で、観終わったあと私まで無性に日本酒が飲みたくなってきた。共演の俳優たち、通辞藤吉を演じた中村福之助や岩亀楼の主人の鴈次郎なども、なかなかいい味をだしていた。  

 その一方で、台本にある言葉が、少なくとも私の世代以降には耳で聞いて理解しにくいものも多かったと思う。「本当は攘夷党の間諜(かんちょう)でさ」、「子の日(ねのひ)おいらんが、いや吉原じゃ子の日だったけど、横浜(はま)じゃ亀遊さんというんだった」などは、さっと聞いてわかるものではない。懐剣も、「かいけん」と読んでいたが、「ふところがたな」のほうが舞台ではわかりやすいのでは、などと思ったりもした。「おいらん、せいぜいお繁りなんし」という隠語らしい言葉は文字で読んでもわからなかったし、「私はでたらめと坊主の頭はゆったことのない女ですよ」という台詞などは、早口だったこともあって、観客からの笑いは少なかった。英語の台詞も多く、これも聞き取りにくさを増す原因となっていた。  

 この作品は、フェイクニュースだらけで何を信じればよいのかわからない昨今の情勢のように、一握りの真実の混じった嘘がどんどん広がる様を描いているので、観劇後、よくわからなかったと話している声がちらほら聞こえた。「確かにわかったのは、口は災いの元だということ」という感想を小耳に挟んだときは苦笑してしまった。世の中が揺れ動く時代に、日本人の最大の処世術は「見ざる聞かざる言わざる」で、だから庚申塔には三猿が彫られていたのではないかと、私は以前から勝手な推測を立てている。  

 有吉佐和子の戯曲にいくつかの誤解と偏見があったことも、舞台を観たことでよくわかった。とりわけ「唐人口」と呼ばれた外国人相手の遊女にたいする蔑視であり、こうした姿勢は幕末だけでなく、戦後の日本でも顕著に見られたことは言うまでもない。唐人口の遊女がことさらに醜く演出されていたのはやり過ぎだったように思う。  

 舞台では、障子を開けると港が見えるような造りになっていて、カモメの鳴き声とともに素敵な効果をだしていた。実際、新たに入船したのがアメリカ船だと話す台詞もあるのだが、港崎遊郭の場所はいまの横浜スタジアムの場所で、当時の港でも600メートルくらいは離れているので、たとえここが珍しく2階建であっても、はたして海がそれほどよく見えたかなどと、無粋なことを考えた。舞台装置を考案した人は、貞秀の「横浜異人商館の図」(1861年)を参考にしたのかもしれないが、これは英一番館、ジャーディン・マセソンではないだろうか。  

 岩亀楼の扇の間のセットは、壁面こそ扇が飾られていたが、岩亀楼として伝えられている竜宮城のような横浜絵からすると、和風過ぎるように思った。1幕を除いて、舞台はここを中心とするので、どんどん増えていく攘夷女郎の小道具の入れ替えなどは、その都度、緞帳を下ろさずに舞台照明だけ落として観客にその滑稽さが伝わるような演出でもよかったのではないだろうか。新作歌舞伎だからなのか、定式幕ではなく緞帳で、歌舞伎の回舞台のような手品が見られなかったのも、ちょっと残念だった。  

 なお、この芝居に名前だけ登場する大橋訥庵が渋沢栄一と何らかの関係があることだけは知っていたが、調べてみたことはなかった。この記事を書くためにちらりと検索したところ、坂下門外の変を計画した人物であり、かつ堀織部正利煕が謎の自刃を遂げたあと、堀の安藤信正にたいする諫言の書と称する偽書を捏造して世論形成をしたのだという。堀織部正の死をめぐっていろいろ調べたことがあったので、これは目から鱗の情報だった。時間のあるときに、この典拠となっている土井良三の本を読んでみよう。

 歌舞伎座の建て替えは2014年だったらしい。

開港当初の横浜にいて克明な日記を残したフランシス・ホールの書、JAPAN THROUGH AMERICAN EYESの表紙に使われていた貞秀の「横浜異人商館の図」
舞台から見えた窓の外の光景は、これにやや似ていた。

『横浜浮世絵』横田洋一編、有隣堂より

 同上
 舞台に使われた扇の間はこれにやや近い。

2022年6月2日木曜日

『ふるあめりかに袖はぬらさじ』

 この年齢になって初めて歌舞伎座に行くことにした。  

 締切りの厳しい仕事に追われているときに限って、「六月大歌舞伎」の第3部が、玉三郎の「ふるあめりかに袖はぬらさじ」に演目変更になったとい新聞の短い紹介記事が目に留まり、そこからいくつかのネット上の記事を検索した結果、意を決したのだ。  

 正直に言えば、新聞記事を最初に読んだときは、玉三郎のような人がなぜこの作品にこれほど入れ込んでいるのか、私は理解しかねていた。ここ数年、この作品は明治座でも演じられて話題になっていた。だが、有吉佐和子の戯曲(1970年)のあらすじを読んだ限りでは、横浜の居留地や岩亀楼の実態とはかけ離れているように思われたのだ。  

 横浜の港崎遊廓は、外国人を受け入れるための「都市建設に伴う必須条件」として開港当初から設けられていた幕府公認の遊廓だった。『横浜市史稿』風俗編(1932年刊)は延々270ページも割いてその後、昭和まで場所を変えつつ存在しつづけた横浜の遊郭の歴史について述べている。幕府に遊廓の設置を勧めたのは、オランダのポルスブルック副領事と考えてまず間違いないだろう。 彼自身が「本町二丁目に居住する文吉なる者の娘お長」を見染め、ピートと言う息子をもうけた。

『横浜どんたく』下巻(有隣堂)に掲載された「珍事五カ国横浜はなし」(1862年)にはこんなエピソードがある。ポルスプルックが「百枚の洋銀ザラリと投出し、交渉に及びけるに、もとより開放主義のお長とて、蘭でも漢でも私や構やせぬと、早速応来の吉報は与えたるも、野暮天なる当時の役人等は、例の体面云々の考えより、公許の娼妓にあらざれば、外国人の妾たる能わず」。窮したお長は表向き岩亀楼の娼妓になり、鑑札料として月々1両2分ずつ同楼に納め、外妾の元祖となったのだという。 

 同書には1862年当時の居留地の外国人リストもあり、その大多数には小使いや別当とともに、「娘」として遊女の名前が記されている。和蘭陀のコンシユル、ボスボクスのところには確かに「娘〔ラシヤメン〕 てう」とあるし、下段の英吉利のコンシユル、ゲビテンワイス(ヴァイス大尉)には「娘〔ラシヤメン〕 たか」とある。この物語の舞台となる岩亀楼は港崎遊廓の代名詞ともなった楼で、「二階楼を異人館と和人館に区別し」た造りで、幕末のあいだはこの一軒だけが「異人揚屋」だったと、『横浜市史稿』は書く。 

 改めて読み返してみると、『横浜市史稿』には「岩亀楼遊女喜遊の正体」と題した、今流に言えばファクトチェック、オシントとでも言うべき章まであった。遊廓が大きな位置を占めてきた横浜の歴史を編纂するうえで、この攘夷女郎の逸話はとうてい無視できなかったのだろう。明治32年に書かれた決定版的な『温故見聞彙纂(いさん)』から、慶応年間の刊行かと書かれた『近世義人伝』まで諸説を集めて食い違いを検討したものだ。それによると、自死した遊女の名前も、その父の名前も、身請けを申しでた外国人の名前も、憤死した年月も、年齢にも資料によって食い違いがあった。市史の執筆者は喜遊(有吉作品では亀遊)と呼ばれることの多かった女性の墓所も探したようだが、発見はできなかったという。 

 有吉佐和子は戯曲を書いた際に、これらの資料を読み、そこから瓦版でまことしやかに書き立てられた攘夷女郎の話に合わせて、世間が求める方向へ話がどんどん飛躍していくさまを、そのまま戯曲にするという、抜群のアイデアを思いついたに違いない。ネット上で見た2008年の映画版の予告編の最後に、玉三郎の演じる語り手の年増芸者お園が、「みんな嘘さ」と、絞りだすように言う台詞を見て、ようやく有吉佐和子の意図も、玉三郎がこの作品に強い思い入れがある理由も理解したのだった。「嘘っぱちだよ。おいらんは、喜勇さんは、淋しくって、悲しくって、心細くって、ひとりで死んでしまったのさ」と台詞はつづく。

 よく読めば、花魁の自死がテーマにもかかわらず、この作品は「喜劇」とされていることがわかるのだが、私同様に勘違いしている人はかなりいるのではないだろうか。なにしろ有吉佐和子の曾祖父、有吉熊次郎は、長州の御盾組の1人で、池田屋事件の生き証人となり、禁門の変で久坂玄瑞らと鷹司邸で自刃したという、きわめつけの攘夷派だったからだ。実際、「あの前後は高杉晋作が品川のイギリス公使館を焼打ちしたり、胸のすくような事が続きましたねえ」という、大橋訥庵の「思誠塾」の門人、多賀谷の台詞まである。有吉佐和子の曾祖父はまさしくその下手人の1人だった。享年23歳なので、本当に遺児がいたのか、養子縁組していたのかはわからないが、そんな志士の子孫が、攘夷から一気に西洋追従に変わる時代に翻弄されつつある人びとを、笑いのなかで見事に描き切っていたのだ。 

 有吉佐和子の意図がわかれば、「岩亀楼遊女喜遊」が実在の人物かどうかなど、探るだけ野暮な気がしないでもない。それでも、横浜の歴史に首を突っ込み、否応なしに遊郭の歴史も読んできた身でもあるので、少しだけ私なりの推理をしてみた。一次史料と呼べるものがない場合はとくに、「実話」は時代を経るごとに尾鰭が付く。よって、情報は少ないが、戯曲にも登場する江戸の新吉原の桜木という花魁が最初に「ふるあめりかに袖は濡らさじ」の歌と関連づけられた安政4、5年ごろがヒントになりそうだ。となると、候補はハリスの通訳で、暗殺されたヒュースケンと彼の江戸での日本人妻とされる、おつるあたりだろうか。

 作品に登場する外国人はアメリカ人イルウスという設定だ。大正期までのいくつかの資料が「伊留宇須」、イルミスンとしていたが、アボットだとするものもあった。イルウスならば、ヒュースケンの遺体写真の撮影者で、下岡蓮杖に写真機材を譲ったジョン・ウィルソンの名前が一部の日本人に知られていた。 

 ヒュースケンの寡婦と遺児の写真だとよく言われる古写真は、実際にはポルスブルックの妻子、つまりお長とピートだと、古写真研究者の高橋信一氏が突き止めておられた。オランダからの移民だったヒュースケンとポルスブルックは親しく、遺族の面倒を見ていたとどこかで読んだような記憶がある。ポルスブルックとお長の関係については、いくつかの証言が横浜市の史料に残っているので、この江戸時代のフェイクニュースは、このあたりの何人かの有名な外国人と日本女性の逸話をもとに、故意や勘違いから、口伝えに膨れあがったのだろうと思う。 

 本来ならば、舞台を見てからこの記事を公開すべきなのだが、今日は横浜開港記念日だし、もう1カ月近くブログを放置してしまったので、早めにアップすることにする。この先、さらに多忙になりそうなので、観劇の感想は少しあとから追加するかもしれない。高校か大学のころ、一度だけ玉三郎の歌舞伎を国立劇場に観に行ったことがあるが、それ以来のことになる。今回の公演は27日まで。

『甦る幕末』(朝日新聞社)にヒュースケンの日本人妻というキャプションで掲載されていた、ポルスブルックの妻たかと思われる女性。喜遊のモデルの1人か。

「露をだにいとふ倭の女郎花ふるあめりかに袖はぬらさじ」は、喜遊の辞世の句として捏造されたものだった。秋になったら撮影しようと思っていたら、昨日、幼稚園からの帰りに大雨のなか咲いているのを発見。今朝カメラをもって撮ってきた。花期は8月〜9月らしい。2022年7月16日撮影

2022年5月6日金曜日

結局はエネルギー問題なのか

 政治・経済のニュースはあまり興味がないので、普段は最低限の情報しか読まないが、数日前、ウクライナ侵攻に関連したエネルギー問題と、その隣のページにあった労組分断という記事をひとしきり読んでしまった。 

 私がまだ旅行会社に勤めていたソ連崩壊から間もないころ、シベリアの石油開発事業関連で来日したアメリカ人と話をしたことがあり、その後も世界の石油メジャーや日本の商社などが大規模な開発を進めるニュースを見るたびに、そのことをよく思いだしていた。北極海も、地球温暖化で季節的に航行が可能になると、各国がこぞってこの海域に触手を伸ばすようになった。 

 翻訳の仕事を通じて長年、気候問題にはかかわってきたので、もう何十年も科学者が警告の声を上げているにもかかわらず、化石燃料の使用が増える一方の現実に、エネルギー問題の厄介さを痛感している。改めて各種統計を見ると、ロシアは天然ガスの埋蔵量が世界1位、石炭は2位、石油は6位で、2016年の総輸出額に占めるエネルギーの比率は約6割という。天然ガスは温暖化対策の切り札とも言われてきたので、ロシアはその点でこの数十年間かなり有利だったのだろう。 

 今回の戦争の経済制裁によって、これらの化石燃料の一部が使われなくなれば、地球の気候にとっては喜ばしいのだろうが、各国がその穴埋めをすぐに再生エネルギーで賄えるわけではない。代わりに原発を増やしたり、その代替分の化石燃料を遠隔地からCO2をだして運んだりすれば、地球環境にとってはむしろ嘆かわしい。 

 今年もすでにシベリアで森林火災が相次いでいるのに、戦争中でロシア軍がいつもの消火活動にかかわれていないというニュースも数日前に読んだ。ロシアの国土の60%は永久凍土で、温暖化の影響がいちじるしい北極圏では、近年、夏に猛烈に高温の日がつづき、火災が起きやすくなっているようだ。昨年、シベリアでは2012年を上回る最大規模の森林火災に見舞われ、WWFのサイトによると、日本の半分に当たる面積が焼失したという。ただでさえ温暖化で始まっている永久凍土の融解が、火災で加速されれば、CO2ブラックカーボンのエアロゾルとともにメタンが大量に放出されることも忘れてはならない。 

 エネルギー問題と労組分断の記事は、一見まるで無関係のようだが、政府の脱炭素推進によって、2030年代なかばまでに乗用車の新車販売をすべて電気自動車などに切り替えることになった結果、エンジン関連の製造業で雇用不安が広がり、それが生き残りをかけての労使協調につながっているという内容だった。同じことは電力総連でも言えるという。記事には、かつて50%以上あった労組全体の組織率が昨年はすでに全労働者の1割程度にまで落ちていたともあり、働く環境は様変わりしているようだ。 

 つまるところ、気候問題に端を発するエネルギーの方向転換に、世界中が揺すぶられているのではなかろうか。本来ならば、気候問題こそ人類が一致団結して取り組まなければならない未曾有の危機であるはずなのに、破壊の限りを尽くす戦争がつづき、一向に終わる気配が見えない。それどころか気候の危機を待たずに、核戦争で人類が自滅する可能性すらある。ミサイル攻撃を受けてもうもうと上がる黒煙。廃墟となった夥しい建物群。途方もないゴミ処理を想像するだけも、復興時に必要となる大量のセメントとそのために排出されるCO2のことを考えても、やりきれない。 

 連休中ずっと仕事に追われ、頭の痛い問題と暗いニュースに悩まされつづけていたので、昨夜、娘宅から羽化寸前のクロアゲハの蛹がやってきたのが、せめてもの慰めとなった。夏の終わりに、ベランダのレモンの木で孵った幼虫が蛹のまま年を越したものだった。小旅行にでかける日に限って黒ずんできたから預かって、と電話があった。そんなわけで、今朝は5時起きして、横目で蛹を監視しつつ仕事をした。蛹は7時少し前にモゾモゾとでてきて、8時半には完全に翅を広げ、昼前に窓を開けると飛び立っていった。

この蛹の「命綱」はまだ残っていたけれど、尾の先が枝から離れてしまっていたため、工作物で支えて冬を越していた。

羽化するときは、体を軽くするため、かなりの量のおしっこをする。

2022年4月18日月曜日

「シーボルトの帰り桜」

 昨春は、われながら呆れるほど桜三昧だったのに、今年の春は近所をおざなりに見て回る程度で終わってしまった。いろいろ忙しかったこともあるが、呑気に春を楽しむ気分になれなかったことも大きい。  

 そんな折に、たまたま県立長崎シーボルト大学のキャンパス内に植えられている「シーボルトの帰り桜」の写真をフェイスブックで見て、そこに〈ホクサイ〉と書かれていることに気づいた。NPOながさき千本桜によって平成15(2003)年に植樹されたものらしい。〈ホクサイ〉と言えば、コリングウッド・“チェリー”・イングラムが名づけたことで知られる品種なので、なぜ半世紀も時代をさかのぼるシーボルトの「帰り桜」とされるのかが気になった。

  ざっとネット検索したところ、ウィキペディアの「荒川堤」の項目に、「1866年にシーボルトが日本から持ち出した以後に日本では絶えていた〈ホクサイ〉は、日本のサクラを熱心に収集していたイギリスの園芸家のコリングウッド・イングラムにより保存されており、その後日本に里帰りした」との一文があり、その典拠として森林総研の勝木俊雄氏の『桜』(岩波新書、2015年)が挙げられていた。「シーボルトの帰り桜」は、大学構内だけでなく長崎の中島川沿いの眼鏡橋付近にも植えられているようだし、1901年創業というイギリス大手のフランク・P・マシューズをはじめとする苗木会社のウェブサイトにも、同様の説明を付したPrunus ‘Hokusai’のページがあった。  

 勝木氏の『桜の科学』は昨春、読んでいたが、『桜』は未読だったので、図書館から借りてみると、「なかには一八六六年にシーボルトが日本から持ち出したと考えられる〈ホクサイ〉という名のサクラなど、日本では見ることがない名称のものもあった」とだけ書かれていた。そう断定しているわけではない。フランツ・シーボルトは1866年10月に没しており、再来日したのは1859年4月から1862年5月までなので、この件を深く調べて書いたわけではなさそうだった。そもそも、この本が刊行される以前に「シーボルトの帰り桜」は植樹されているので、これとは別の根拠があったのだろう。  

 阿部菜穂子氏の『チェリー・イングラム』(岩波書店)も再読してみると、イングラムが〈ホクサイ〉と名づけた桜は、1919年に彼が購入したザ・グレンジの敷地内にもとからあった樹齢25年ほどと思われる大木がその始まりだった。当時、日本の桜の科学的分類の権威だった三好学に品種名を問い合わせたところ、「この桜の品種名は不明である」との回答を得ていた。「それなら、私が命名するよりほかにない。この桜を、世界的に有名な日本の画家、葛飾北斎にちなんで、〈ホクサイ〉と名づける」と、イングラムは宣言したと同書は書く。 

 ザ・グレンジはもともと1891年にクランブルック伯爵が娘のために建てたもので、その後、20世紀になって十数年間、『デイリーミラー』紙などの創業者の1人、ロザミア子爵の手に渡っていた。樹齢25年であれば、クランブルック伯爵が植えた可能性が高そうだが、それでもシーボルトの没後から30年は経ている。 海外に植木を売ることを目的として1890年に創業され、イングラムも利用した横浜植木商会や、1872年にマサチューセッツ州に創設され、東アジアの樹木収集に熱心だったアーノルド樹木園、あるいは「独立した日本特設コーナーが設けられ、菊や盆栽などともに、桜が植樹された」という1900年のパリ万博などから、ザ・グレンジのこの最初の所有者が購入した可能性は否定できないし、それらの入手方法のほうがより自然ではなかろうか。 

〈ホクサイ〉と名づけられたこの品種はピンクの八重で、素人目にはこれといった特徴のない品種に見える。昨年、足立区都市農業公園で私も若木を見ていたが、印象には残らなかった。実際、〈福禄寿〉との唯一の目立つ違いは萼片(がくへん)だとするウィーベ・カウテルトの研究書(Kuitert Wybe, Japanese Flowering Cherries, 1999)もあるし、2014年、15年に訪英してイギリスの桜のDNAを研究したという勝木氏自身は、2015年に東大農学部で開かれた森林遺伝育種学会大会で、「形態観察の結果」としてはいるが、「英国での ‘Shimidsu’は‘松月’、‘Hokusai’は ‘渦桜’と考えられた」と報告している。 

〈渦桜〉は大阪造幣局の桜並木の看板では、「東京荒川堤に元々あった桜とされている。花名は、しわのある花弁が渦を巻くように、ややらせん形に並ぶことによる。淡紅色の八重咲で、花弁数は30枚程である」となっている。長崎の眼鏡橋付近の〈ホクサイ〉には、「薄いピンクで7個から12個の花びらをつけます」と書かれているので、はたして同じ品種と言えるのか私にはわからない。私には〈松月〉と〈福禄寿〉もそっくりに見えるし、八重桜はいずれも穂木を人工的に別々の台木の上に接木して増やすので、風土の異なる地で何十年、何百年も経るうちに品種が変わってしまうのではないだろうか。  

 片手間にほんの数時間、ネット検索した限りの憶測でしかないが、〈ホクサイ〉がシーボルトの桜だと言われ始めたのは、長崎時代の1820年代に彼の助手を務めた川原慶賀が描いた「サクラ」の絵が〈ホクサイ〉に似ているからではないか。この絵には登與輔と落款があり、Cerasus Pseudo-Cerasus var. flor. plenio roseisと書かれている。シーボルトの死後、日本の絵師たちが描いた原画は遺言により未亡人の手を経てロシア政府に売却され、現在はサンクトペテルブルクのロシア科学アカデミー・コマロフ植物研究所の所蔵となっている。1041点に上る植物原図を1993年に丸善が『シーボルト旧蔵日本植物図譜コレクション』という30万円!の3冊本を刊行し、それを機に各地で展覧会が催された。  

 記憶を掘り起こせば、娘が高校時代、2002年の夏休みの宿題に「出島の三学者」と題して、ケンペル、ツンベリー、シーボルトを調べた際に、佐倉市立美術館で開催されていた「シーボルト・コレクション日本植物図譜展」に私も同行していた。「サクラ」の絵も見たのかもしれないが、記憶にはない。『シーボルト日本植物誌』は、ちくま学芸文庫版だがもっていた。だが、西洋の博物誌然としたこの本の挿絵と、川原慶賀などの日本の絵師が描いた膨大な数の絵がどう関係するのか、恥ずかしながら、これまで確かめたことがなかった。実際には、『日本植物誌』の挿絵はミンジンガーなどのヨーロッパの植物画家が、日本人絵師たちの作品を下絵にして描き直していたのだ!  

『日本植物誌』の解説によると、シーボルト事件で1829年10月に国外追放された際にも、彼は2000株近い日本植物の移出に成功し、ジャワ島のボイテンゾルフの植物園で馴化されていたようだが、オランダに戻ったのは翌年7月であり、コレクションの一部は彼の手には届かずじまいだったという。12歳の息子アレクサンダーを伴って1859年にオランダ貿易会社顧問として再来日した際には、しばらく幕府の外交顧問にもなったが、失意のうちに帰国したと記憶している。ウィキペディアの彼の項目には、「2度目の訪日で集めた蒐集品や植物の種苗はミュンヘンで保管され、一部は長男アレキサンダーがイギリスに寄贈している」という心をそそる一文があるが、英語版には、アレクサンダーが遺品の多くを大英博物館に寄贈したとしか書かれておらず、「種苗」については定かではない。 

『チェリー・イングラム』によると、接木するための穂木は、樹が休眠中の冬のあいだに伐採する必要があり、穂木の切り口に湿った苔をつけたり、穂木をジャガイモに刺したりと工夫を重ねることでようやくヨーロッパまで無事に輸送できるようになったという。シーボルトが1862年5月に離日していて穂木を確保する時期でないことや、帰国後もオランダ、ロシア、フランスなどの政府に勤め先を求めたものの、成功していないことを考えると、そんな状況下で彼が日本からもち帰った桜の穂木を接木して無事に育てられたのか、と疑問をいだかざるをえない。それがやがてイギリスにまで渡り、大木となって花を咲かせていたなら、画期的なことなのだが、どこか飛躍している。  

 ちなみに、品種のラテン語名にシーボルトの名前がつく〈高砂〉というピンクの八重桜がある。これは1860–62年に日本に滞在していたプラント・ハンター、ロバート・フォーチュンが、帰国後の1864年に輸入したもので、どういう経緯でシーボルトの名前がついたのかは、カウテルトの書にも、それを引用した阿部氏の本にも書かれていなかった。  

 余談ながら、12歳で来日した息子のアレクサンダーは、その後15歳で在日イギリス公使館に特別通訳生として雇用された。上田藩の赤松小三郎は、イギリス公使館付騎馬護衛隊隊長アプリンから「騎兵術を伝習し、同時に英文を学」んだ1864年末に、横浜の「アプリン宅に行き、アレキサンドルの通訳で話す」と日記に残している。アレクサンダーは1867年に休暇で帰国し、その際に徳川昭武や渋沢栄一らのパリ万博使節団に随行した。

 ワーグマンの『ジャパン・パンチ』1865年10月号には、インフルエンザのパークス公使の手当をするウィリス医師のもとへ、粥をもったミットフォードと、頰被りをして、燃えさしを入れてベッドを温める器具を担ぐスパーズ、つまりアプリン、それにアレクサンダーと思われる若者が見舞いにくる滑稽な絵がある。吹き出しの文字の判読を試みたが、意味不明の英語だった。通訳になった当初、アレクサンダーは英語が苦手だったらしいので、それをからかったものだろう。地球の裏側のような異国の地で、10代で独り立ちしたこの若者は、父の死に目には会えなかったようだ。  

 結局のところ、私が当初いだいた疑念が、かなり強まった程度で簡易調査はおしまいにせざるをえない。「シーボルトの帰り桜」と銘打って植樹した人たちが何を根拠としたのか、ご存じの方がいらしたらご教示願いたい。ピンクのふわふわとした八重桜の来歴を調べながら、そうか川原慶賀らの原画はロシアにあるのか、8つの本型の箱に収められていたこれらの植物画が長らく一般に知られていなかったのはソ連時代だったからなのか、などと現実に引き戻されるのが悲しい。そう言えば、アプリンも来日前にクリミア戦争とアロー戦争に従軍していた。イングラムの義理の娘が香港で日本軍の捕虜として3年以上も収容所生活を送り、日本の桜を生涯にわたって受け入れなかったというエピソードを思いだす。

足立区都市農業公園で見た〈ホクサイ〉。手前はおそらく〈鬱金〉。2021年4月撮影

川原慶賀による「サクラ」、『シーボルト旧蔵日本植物図譜展』(1995年)より
この図録に掲載されている桜はほかに、同じく川原慶賀によるイトザクラ(枝垂れ桜)と、再来日時に雇われた清水東谷によるエドヒガンとヤマザクラがある。

都市農業公園で見た〈高砂〉。2021年4月撮影

娘が高校時代にまとめた「出島の三学者」と今回の参考文献

『復刻版 ジャパン・パンチ』第1巻(雄松堂)より