2006年8月31日木曜日

ペットと家畜

 このあいだ、カレーをつくろうと思ってラム肉を買った。パッケージに書かれた「仔羊肉」の表示を見て、一瞬どきりとした。このところカレーの本の仕事をしていたのだが、カタカナ語を減らそうと、マトンは羊肉、ラムは子羊肉としていたからだ。「子羊肉」では、メリーさんの羊を連想させてしまうかもしれない。編集者に相談した結果、「仔羊肉」とすることで落ち着いた。動物の子を「仔」と表記し、人間の子と一線を画せば、生まれて間もない羊を、私がカレーにして食べることへの罪悪感が少しだけ消える、ということか。  

 この件が妙に引っかかっていたところに、板東眞砂子さんが日経新聞に寄稿したエッセーで「子猫殺し」を告白し、それが大きな波紋を呼んでいることを知った。昨年、毎日新聞に連載された彼女のエッセーを読んでいたので、タヒチでのおおらかな暮らしぶりはおよそ想像がついた。南国の島では、人も動物もずっと自然に近い、ありのままの生活を送っている。避妊手術はせず、子猫が生まれたら自宅隣のがけ下に放り投げる、という行為は、確かにショッキングだが、あの背景ならまったく理解できないことではない。  

 もう二十年も前のことだが、タイの山岳民族の村で、池のまわりに子供たちが数人いて、鶏の羽をむしっているのを見たことがある。おそらくヒヨコから育て、さっきまで庭先にいた鶏だろう。その生々しい光景に私は血の気が引いたが、子供たちは嫌な顔一つせず、むしろ今夜はご馳走だぞと言わんばかりで得意げに見えた。ペットと家畜の線引きがあいまいな農村では、動物の生も死も生殖も日常の営みなのではないだろうか。 

 タイには野良犬もたくさんいる。乳首がずらりと並んで垂れ下がっている母犬をよく見かけたし、白昼堂々と交尾していて目のやり場に困ったことも何度もあった。日本では毛並みのよいお散歩犬しか見ないので、そうか、犬って本当はこんなだったな、と子供のころを思いだした。いまの日本で見かけるペットの犬猫の多くは、グラビアモデルのようにきれいだけれど、絹のお仕着せを着て宮廷に住む宦官のようなものかもしれない。  

 人間と動物がともに暮らそうとすると、それが家畜であれ、ペットであれ、どうしても不自然なかたちになる。食べられる動物の場合は、人間の胃袋に収めてしまえば、頭数の管理は容易にできる。しかし、食べにくい動物、利用しにくい動物はどうすればいいのか。こうした問題は、現在では野生動物でも起きているという。人間が特定の動物だけを保護しすぎると、それらばかりが頭数を増やし、環境を破壊してしまうのだ。鹿は最近、間引いて肉や革にする方向に進んでいるらしいが、猿はどうするんだろう?  

 板東眞砂子さんのエッセーは、人間社会がかかえている大きな問題に目を向けさせるものだと思う。彼女のやり方がかならずしも正しいとは思わない。いまの世の中には、子猫のような無力のものを殺すことに快感を覚える病的な精神の人がいることも考慮すべきだし、猫くらいの知能の動物にとって、避妊手術を施されることと腹を痛めた子を殺されることと、どちらがより苦痛かも検討の余地があるだろう。  

 それにしても、今回の騒動で何よりも嫌だと思うのは、問題を真っ向から見詰めた彼女にたいして、ヒステリックな抗議運動を起こしたり、ネットで匿名の暴言を吐いたりする人がこれほど大勢いる事実だ。自分の価値観だけが絶対に正しいと信じているのだろうか? 私にはむしろ、自分のうしろめたさを指摘されて逆上しているとしか思えない。