2014年1月31日金曜日

『嗚呼此一戦』

 娘が高校時代、ラザファードの小説『ロンドン』を真似て、夏休みの宿題に祖先をテーマにした短編小説を書くために、親戚から聞き取り調査をしたことがあった。ところが、激動の時代を生きたはずのほんの数代先のことですら断片的にしかわからず、江戸時代までさかのぼると、名前くらいしか判明しなかった。人の記憶とはこんなに脆いものかと、愕然としたのを覚えている。先日、法事で親戚が顔を合わせ、そんな話がでたこともあって、仕事の合間に少しばかり検索してみた。すると、以前は古本屋のデータか何かが引っかかったに過ぎなかった曾祖父の名前で、今回はアマゾンのサイトや誰かのブログがヒットしただけでなく、教えていた大学の資料に写真まで見つかった。ウェブ上の情報は過去のものまで、年月とともに猛烈な勢いで増殖しているらしい。  

 母方のこの曾祖父は長崎の人で、日露戦争時に陸軍通訳となるほどロシア語ができたという。どんな功績があったのかは不明だが、おそらくその関連で、勲六等単光旭日章というものを22歳でもらっている。その後、日露戦争関係のロシア語の本を28歳で翻訳し、ロシア語のテキストも書いている。  

 それにしても、明治時代になぜ曾祖父がそれほど若くしてロシア語を学べたのか。もしや単身ロシアに渡って、現地で独学したのだろうかと想像をたくましくしてみたが、どうもそうではなさそうだ。片手間に調べてみた限りだが、長崎には江戸末期に英語・ロシア語・フランス語を教える語学伝習所が設立されている。ここは広運館、長崎英語学校などとたびたび名称を変え、曾祖父の時代には長崎中学校となっていた。曾祖父はおそらくここで学んだに違いない。  

 それどころか長崎奉行には、ペリー来航の翌年1854年にロシアのプチャーチンが長崎で幕府と交渉したときには、すでに数名のロシア語通詞がいたという。彼らがロシア語を学ぶきかっけとなったのは、1782年にアリューシャン列島まで漂流し、その後ロシアに渡って10年近くのちに帰国した大黒屋光太夫だというから驚きだ。先月のコウモリ通信に書いた紀州の蜜柑船の状況と似て、彼も伊勢から江戸に向かう回船の船頭で、嵐に遭遇して7カ月間も漂流し、アムチトカ島にたどり着いた。一行はそこで樹木の育たない過酷な環境で暮らすアレウト族と、海獣の毛皮猟にきていたロシア人に出会った。フェイガンが『海を渡った人類の遥かな歴史』に書いていた世界だ。迎えにきたロシア船が目の前で沈没してしまったため、光太夫一行はロシア人とともに流木を集めて船を建造し、ラッコの毛皮を帆にして、1カ月半かけてカムチャッカまで渡った、とウィキペディアに書いてある。その後、出島の三学者の一人ツンベリーの弟子の博物学者キリル・ラクスマンの尽力により、エカチェリーナ2世に謁見して帰国を許され、息子のアダムに伴われて3人だけ根室に戻ってきた。  

 光太夫のロシア語は耳で覚えた不完全なものだったが、長崎の馬場佐十郎をはじめとする蘭通詞らが彼の単語帳をもとに、オランダ語の文法の知識を応用してロシア語の解読を試み、露仏辞書を手に入れ、並々ならぬ努力のあげくに、江戸末期にはロシア語教育が始まっていたのだ。  

 私の曾祖父はその恩恵をこうむって早くからロシア語を学ぶことができたのだろう。祖母の晩年、家を片づけた際に、ピナフォー姿の幼女の横に山高帽をもってすました洋装の青年がいる写真を見つけ、「これ誰?」と聞くと、皺くちゃの祖母が照れたような笑顔になり、自分を指さしたことがある。年齢から考えると、本が出版されてお金が手に入り、奮発して記念に写真館で撮影したものかもしれない。最近は古い書物がスキャンされ、ネット上で公開されているおかげで、会うことのなかった曾祖父の書いた学習テキストも読むことができた。ひ孫が100年後にネット・オークションで自分の訳書を落札するとは、曾祖父は夢にも思わなかっただろう。

嗚呼此一戦』ウラジミル・セメョーノフ 著、山口虎雄訳、博文館、明治45年