2004年5月30日日曜日

散歩のすゝめ

 このところ調子が悪く、いろんな人から気分転換に毎日歩きなさいと勧められたため、とにかく毎日かならず一度は外に出て、近所を歩くことにした。仕事が予定どおりに進むことなどまずないので、強迫観念からついコンピューターの前に座りっぱなしになってしまうのだけれど、眠いときや頭が働いていないときは、結局、何十分も同じ文章を繰り返し読んでいる。そんなときは、思い切って寝てしまうか、外に出るほうが、かえって能率が上がることに最近ようやく気づいたのだ。  

 たいていは一番眠い昼過ぎの時間が、私のお散歩時間になる。幸か不幸か、このあたりはどこへ行っても山あり谷ありなので、早歩きをすれば恰好のエクセサイズにもなる。途中でシジュウカラの幼鳥にでも出会えば、もちろん立ち止まって見とれてしまうのだが。  

 散歩の途中、疲れた様子で歩いているサラリーマンを見て、ふと会社勤めをしていたころを思い出した。来る日も来る日も同じ会社に通い、長時間拘束されたあげくに、夜遅くくたびれはてて帰る生活にほとほと嫌気がさして辞めたのだが、あのころはいつも、真昼間から自分の好きなところに行かれたら、どんなにいいだろうかと願っていた。だから、自分で時間をやりくりできる仕事に就いたはずなのに、そのことをすっかり忘れていたような気がする。こうして、たとえ30分でも昼間に勝手に散歩できることこそ、この仕事の大きな魅力のひとつだったのだ。ならば、その特権を楽しまない手はない。  

 そう考えたら、仕方なく始めた散歩がおもしろくなり、三日坊主にならずに、少なくともいまのところつづいている。歩いていると、毎日何かしら新しい発見もある。ついこのあいだまで、ちょっとした山道だったところが、すべて切り崩されて宅地に変わってしまったという悲しい発見もあった。梨農家が同じところにあるから、その場所だとわかるものの、すっかり開けてしまったその一帯から、かつての光景を思い浮かべることはもうできなかった。肩身が狭そうな梨農家が、ヴァージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』みたいに見えた。 

 歩くことには、別の意味の効能もある。普段、私はもっぱら自転車で用事をすませるので、なるべく平坦な近道をとろうとする。だから自然と同じ道ばかり通るようになるのだが、とくに目的もなく歩くときは、新しい道、ちょっと怖そうな道をあえて通ってみたくなる。それが案外、すばらしい近道だったりもする。決まりきった日常から脱せられるのだ。以前こんなことを聞いた覚えもある。毎日、同じ電車の同じ車両の同じ位置に乗って会社を往復しているような人は早くボケる、というのだ。毎日、家に閉じこもって画面にばかり向かい、同じスーパーに行って、同じ径路で店内をまわるような生活をつづけたら、これはマズイかもしれない。疲れた目と頭を休め、脳みそを活性化させるためにも、散歩は有益そうだ。  

 もっとも、この数日のように暑くて紫外線がいかにもたっぷりの日に、昼間から歩いたら、シミだらけになり、皮膚がんにすらなるかもしれない。ならば夕方にすればいいのだけれど、夕方になるとたいてい頭が冴えてきて能率があがるので、ちょっともったいない。やっぱり日傘でも買って、日焼け止めを塗りまくって昼間に歩くしかないかと思案中である。