2024年4月9日火曜日

『江戸の憲法構想』

 このところずっと多忙で、読書時間は本当に細切れにしか取れない。そんな状態で読むにはかなり手強い本だったが、関良基先生の新著『江戸の憲法構想:日本近代史の“イフ”』(作品社)に目を通してみた。2016年の『赤松小三郎と明治維新』で書き切れなかった大きな問題に再び挑まれたような作品で、それをありがたくも献本して下さったためだ。 

 関先生は前著で薩土盟約とアーネスト・サトウに関連した鋭い分析をされており、拙著『埋もれた歴史』で引用させていただいたことがあった。今回の本では、一章を割いてサトウと長崎のイギリス商人グラバーがはたした役割を分析されている。そこで詳細に論じられるサトウの『英国策論』は、薩摩藩の松木弘安がイギリス側に出した「松木提案」とともに私も大いに興味をいだいた問題で、実際、拙著の原稿段階では「イギリスと薩長」と題した章を書いていたほどだった。かなり調べたあとで、当時の私の手には余ると判断し、「老後の楽しみ」に回してしまっていた。「サトウやグラバーの肩入れによって、薩長の武力討幕派が勝利したことによって、日本は大英帝国の極東の駒として、その世界戦略に組み入れられていくことになるのである」という関先生の言葉は、この歴史の大転換の実態を理解するうえで、非常に重要なことだ。薩土盟約の破棄と並行して起こった赤松小三郎の暗殺の真相についても、本書は説得力のある説をあげている。 

 この数年、幕末史の研究に片足を突っ込んでいるとはいえ、私は祖先の足跡をたどるまで日本史にはまるで興味がなかったので、本書で取り上げられている日本の史学者による歴史書は、恥ずかしながらいずれも未読だった。そのため、本書で多角的に論じられる「講座派」のマルクス主義の学者たちがおよぼした弊害については、これらの学説の来歴を概説する補論を読んでも、おおよそしか理解できなかった。尾佐竹猛の著作は、かろうじて生麦事件に関するものだけは読んだことはあったが、彼が講座派に対抗して憲政史研究をした人であることは、ついぞ知らなかった。講座派の影響を受けたという丸山眞男の著作も、本書で取り上げられている佐久間象山に課する講演録だけ、どうにか読んでいた程度だ。ちなみに、この講演録で丸山眞男が、過去の思想を現在の視点から気安く批判してはいけないと、プレゼンティズム(現代主義)にたいする牽制をしていたことは強く印象に残り、拙著でも引用している。丸山は松代藩士の子孫であるにもかかわらず、象山を公平な視点から見ていると思ったものだが、本書は丸山が結果的に「右派史観復活の後押しをした」と手厳しい。 

 サトウの『一外交官の見た明治維新』が講談社から新訳で出ていることも、本書で初めて知った。そのなかで訳者が、サトウが土佐の山内容堂と後藤象二郎と会談したあと、彼らの心底には明らかに、イギリスの憲法に似たものを制定しようという考えが深く根をおろしていた」という箇所を、「憲法」と訳さずに「コンスティテューション」とカナ書きし、「国家体系」といった意味の可能性があると注記している点に関先生は疑問を投げかけている。この当時、土佐藩側が何かしらの成文の法典を想定していたことは疑いないが、一方のサトウの頭のなかで「コンスティテューション」が何を意味していたかは、さほど定かではない。少なくとも、イギリスにはこの時代もいまも成文憲法は存在しない。ウィキペディアからざっと拾った限りだが、当時、成文憲法があったのは、アメリカ(1788年)、フランス(1791、1848年)、オランダ(1815、1848年)、ウルグアイ(1830年)、ベルギー(1831年)、プロイセン(1848年)、デンマーク(1849年)くらいしかない。翻訳者はその点を考慮したのではないだろうか。 

 独立当初のアメリカのように、文化的にも異なるさまざまな国からの移民で構成された共同体を、世襲制の国王のような存在なしに一つの国としてまとめるには、共通の理念や規則を定め、構成員の権利と義務を明確にし、それを書き留めておく必要があった。書き留められた結果だけが「憲法」ではなく、定めた「国家体系」そのものが重要だったのだろう。 

 幕末の危機は、帝国主義の列強が極東にまで進出してきたことによって引き起こされたものだ。その外敵を前に、為政者として何よりも避けたい事態は国内の分裂だった。「分割して統治」するのはイギリスが植民地を支配するうえでの常套手段であり、インドがそれによって手痛い目に遭ったことは、「鎖国」下の日本にも漏れ聞こえていたはずだし、アヘン戦争で中国がこうむった打撃は、海外事情に通じていた人には間違いなく大きな衝撃となった。徳川家の求心力が薄れ、朝廷を担ぎ上げる勢力が台頭するなかで、国内を一つにまとめる手段が必要となり、その一つが議会論であり、憲法構想だったのだろうが、もう一つは雄藩が離反しないよう将軍に代わって天皇を国家元首として担ぎ上げることだった。要するにナショナル・アイデンティティの創出、国民形成が必要だったのであり、それに関しては、国学者や水戸藩、藤田東湖らと交流のあった佐久間象山が、最も早くからナショナリズムを醸成する必要を認識していた人だった。 

「江戸の憲法構想」にかかわった山本覚馬と津田真道はともに象山弟子であり、赤松も象山と交流があったことが知られる。憲法を構想するということは、彼らが日本という国家単位で物事を考えていた証左であり、そう意味でのナショナリズムや、新たに国家体系をつくる必要性に迫られた背景に、もう少しページが割れていたらよかったかなと思った。ついでに言えば、本書で言及されている加藤弘之も象山弟子で、若いころ攘夷感情の強かった加藤を象山が諭したエピソードが知られている。 

 やはり本書で分析されている松平乗謨は、これまで私のよく知らなかった人物だが、信州佐久の田野口藩主で、母親が松平乗全の娘となると、少なくとも何かしら上田藩との関連はありそうだ。松平乗全は、上田の松平忠固と老中をともに務めた仲だからだ。 

 日本のマルクス主義史学者がどういう説を唱えてきたかを知らない私が言うのも何だが、マルクスの唯物史観そのものは、長年、考古学や人類学、生物学の分野から世界の歴史を見てきた私には、しごくまっとうな考え方に思える。本書で引用されている『経済学批判』の序文は、私も『エンゲルス』(トリストラム・ハント著、筑摩書房)で翻訳したことがあり、「人びとの存在を決定するのは、人間の意識ではなく、その逆に、社会的に存在していることが彼らの意識を決定するのである」と訳した。関先生の「バタフライ史観」は、人間の自由意志からバタフライ効果が生まれ、それが歴史を変えてきたという主張のようだが、これには全面的に賛成はできない。私たちが「自由意志」だと思っていることも、自分が置かれた状況や時代、親から受け継いだ遺伝や教育、経済状態に大きく左右されるからだ。 

 ハントは同じ箇所で、マルクスらが「英雄史観」を切り捨てた経緯にも言及している。何の脈絡もなく天才は生まれないし、その天才が活躍できたとすれば、それは時の運によるのだと私は思う。よって、歴史を知るにはやはりその背景となる社会を見る必要があり、定量化して把握しやすい生産手段や生産関係にマルクスが着目したことは間違っていなかっただろう。たまたまヒトとしての生物学的な制約が歴史をどう変えてきたか、という内容の本を翻訳中であり、参考文献として昨夜読んでいたE・O・ウィルソンも、「自由意志は、結局のところ生物的であるように思える」と書いていたので、思わず夜中に付箋を探した。 

 晩年にエンゲルスが、「マルクスの全体的な考え方は、学説というよりは手法なのだ。それは出来上がった教義を提供するよりは、むしろさらなる探求を手助けし、そのような探求のための手法を与えるものなのだ」と語ったことにもハントは触れていた。昭和の初めに講座派の学者たちがマルクスの理論を曲解したとすれば、それは多分にレーニン主義を通じて教義のようにそれを受け入れたためだろうし、一部には翻訳の問題もあったと考える。民主主義の根幹となる平等の概念を考えるうえで、人の能力の差をどう扱うか、という難題にたいし、マルクスが当面は能力主義を採用し、長期目標としてはそれぞれの人が生きるのに必要なニーズに合わせるべきだと述べた重要な箇所が、これまでかなり誤解されてきたことを、『アマルティア・セン回顧録』の翻訳中に発見したこともあった。 

 私自身は憲政史をまともに調べたこともないのだが、『エンゲルス』を訳した際に、1848年のプロイセンにおける流血の三月革命を経て、国王に憲法制定を迫った経緯などは少しばかり知ることもできた。フランスに端を発した1848年の革命で、ヨーロッパ大陸のいくつかの国で憲法制定が進んだが、それによって民主主義国家になったわけではなく、幕末に憲法構想が練られていた時代には、ヨーロッパの大半の国の主権者は国王や皇帝だった。しかも、早くから民主主義国になったとされるアメリカでも、市民権は1866年まで白人男性にしか与えられておらず、黒人男性が参政権を獲得したのは1870年、女性にいたっては1920年になるまで参政権がなかった。

 つまり、『江戸の憲法構想』で取り上げられているジョゼフ・ヒコや、オランダ留学組の西周や津田真道が参考にした欧米の初期の憲法は、それ自体が多くの制約や矛盾を含むものだったわけだ。それまで人びとを束縛していた身分を撤廃した自由も平等も、実際には納税し、兵役に就いて市民としての義務をはたせる有能な白人男性に限られた話だったのであり、女性や有色人などは、その他の社会的弱者とともに考慮されていなかったのである。 

 最近、いろいろ考えてきたことと重なり合ったため、随分だらだらと辛口の評を書いてしまったが、日本史の学説に疎い一読者の、わずか一読後の読後感として、少しでも皆さんのご参考になれば幸いだ。この本には間違いなく、多方面から歴史を振り返らせるものがぎっしりと詰まっている。

 関 良基著
『江戸の憲法構想:日本近代史の“イフ”』
(作品社)

2024年3月22日金曜日

お彼岸に想う

 また3月が巡ってきて、1年前を思いだすことが増えている。辛くなるので読み返せなかった当時のメールを、先日少しばかり繰ってみた。忘れもしない春分の日の早朝に母の古い友人からかかってきた電話で、その前夜に母が緊急入院したことを知り、朝食もそこそこに電車に飛び乗ったのだった。  

 母のいない日々がもう1年近く経つとは、信じ難い。母が毎週、横浜まで通ってきて面倒を見てくれた孫は、その間に幼稚園の年中を終え、少しはピアノも練習するようになり、自転車の補助輪もとれた。先日は近所の書店で娘の近刊『あかちゃんの おさんぽ えほん』の発売記念イベントがあり、孫が代わりに絵本を読んで、カラスの羽繕いまでやって見せて拍手喝采を浴びていた。  

 昨夜は、少し前にコウモリ通信で宣伝させていただいた「懐かしい仲間、新しい響き」と題したコンサートがすみだトリフォニー小ホールで開かれた。昨年初めに姉が企画し、コロナ禍でお流れになってしまったニューヨーク在住の旧友大谷宗子さんを迎えての、いわばリベンジの催しだった。これまで姉のリサイタルや発表会のときは、いつも母が何かと支えていたので、大丈夫だろうかと一抹の不安を覚えていた。だが、そんな心配は杞憂に終わり、昨夜は大勢の観客が見守るなか、パワフルな宗子さんからエネルギーをもらったかのように、還暦を過ぎた音楽仲間たちが大熱演する会となった。 

 演奏会のあとで音楽通の古くからの知人が、宗子さんがバイオリンの小品にあまり知られていない女性作曲家の曲を選んで演奏していたことを高く評価しておられたので、彼女にそうお伝えしたら、「そうよ、ちょうど3月が国際女性デーでしょ」と即答されていた。なるほど、そうだったのか、と鈍い私はようやく気づいたしだいだ。アンコールには、クラリネットの野田祐介さん編曲でラヴェルの「マ・メール・ロワ」から妖精の庭を6人で演奏し、姉も最後のグリッサンドを格好よく決めていた!  

 コンサートに行く前に、せっかく都内に出るのだからと、年始にたまたま見つけていた曽祖母の妹の嫁ぎ先と思われる明治初期創業の会社を訪ねてみたのだが、金曜の夕方という忙しい時間に不意に訪ねたこともあって、ていよくあしらわれてしまった。地図で調べたときには気づかなかったのだが、何と薬研堀という立地にあり、すぐ近くの柳橋付近は屋形船が何隻も係留されており、隅田川の波間にはウミネコと思われる大型カモメが多数浮かんでいた。すぐ上流には上田藩の中(上)屋敷があったし、スカイツリーの方角には、母の眠るお寺がある。 

 錦糸町までは電車に乗るほどの距離でもないと思い、両国橋を渡ってそのまま14号線を直進した。出がけに思いついて1920年の本所区の地図を確認したところ、祖父一家が関東大震災時に住んでいた緑4丁目の一帯で45という番地を見つけていたからだ。この付近は焼け野原となっているので、区画がかなり変わり、現在は線路際に40という番地までしかないが、大正時代には14号線の南側に40番台があったようだ。曽祖父が存命のころは、そのすぐ南の菊川で開業していた。東に数十メートルも行けば大横川が流れており、大横川が小名木川とぶつかるところには高祖父が馬術を教えていたという上田藩抱屋敷があった。

 緑4丁目から総武線の線路を越え、大横川を渡った先に、すみだトリフォニーはある。直線距離で200メートルもない位置だ。そのホールで姉が古くは高校時代からの懐かしい仲間とともにお彼岸にコンサートを開いたというのは、亡き母にとって、先祖にとって、何よりもの供養になった。

 両国橋からの隅田川

大横川沿いの緑4丁目からすみだトリフォニーは目と鼻の先

3月上旬、娘が多忙だったため、私がピンチヒッターでおおよそ作成し、入稿前に娘に手直ししてもらったプログラム

 地元の書店で開かれた絵本のお披露目会

 赤ちゃん絵本を読み聞かせする5歳児!

2024年3月1日金曜日

タイ旅行2024

 本当に久々にタイへ行ってきた。昨秋ごろから、娘が留学時代の仲間とタイで会おうという夢物語のような計画を立て始め、孫守りと荷物持ちを兼ねて私も同行することにしたのだ。ところが、パスポートすら期限切れになって久しく、まとまった休みを取るには、それまでにいまの仕事を終わらせなければならない。コロナは収束したとはいえ、誰かがインフルエンザになっても、計画は台無しになる。集まってくる友人たちも、タイで迎えてくれる友人たちもみな多忙なので、本当に実現するのか最後の最後までわからなかった。

 この8年ほどのあいだに、世の中は様変わりしていた。最寄駅の緑の窓口がなくなったため、成田エクスプレスの予約はえきねっとを利用せざるをえなかった。いまでは飛行機も航空会社でネット予約するほうが安くなり、チェックインもオンラインなので、タイの滞在中、Wifiで乗り切るのは難しそうだと考え、滞在日数分だけSIMカードを購入した。円安とタイの物価が上がったせいで、昔は見たこともなかったような1000バーツ札がどんどん財布から消えていった。バンコクの中心部は、どこもかしこもガラス張りの高層ビルが立ち並ぶ林のようになっていた。  

 ニューヨークとバンガロールから別々の時間帯に到着する友人たちとうまく会えるかどうかが最初の難関だったが、1人は到着した旨の連絡がこないまま、到着しそうな時間にBTSスカイトレインの駅の改札で待つことで無事に会え、短い市内観光に出かけたあと、BTSで戻る途中の車内で、偶然にもサヤーム駅から乗り込んできた残りの2人とも出会うことができた。総勢6人で最初に宿泊したのは、寝室3室、バスルーム2つとトイレ1つというAirbnbの超豪華マンションだった。  

 翌日はタイからの留学生だった友人の案内で、バンルアン運河沿いのアーティスツ・ハウスへ出かけ、のんびりとスケッチを楽しんだ。タイの友人は、私たちのあらゆる望みを叶えようと奔走してくれ、簡単に拾えなくなったタクシーを「ラインマン」というタイ版ウーバーのようなアプリで手配することから、すぐに見つからないストリートフードのローティーサイマイやチャオクワイなどを差し入れ、新婚の友人たちのためのディナーにはケーキを手配してくれた。タイ土産に椰子の木細工の製品を買いたかったのに、見つからなかった友人には、ネットで注文して「ラインマン」を使って出発直前に配達させるなど、最後まで機転を効かせて面倒を見てくれた。  

 週末は、タイの鳥仲間がウタイタニー県のサケークラン川沿いの水上住宅を手配してくれ、そこでのんびりと絵を描き、鳥を見て過ごした。ちょうど万仏祭で三連休だったせいか、最初の晩は夜間にモーターボートの暴走族が何度も出現して、そのたびに家中が揺れて肝が冷えたが、夜明け前からオニカッコウの声が聞こえ、白み始める空に沈む月を眺め、贅沢な時間を過ごした。鳥仲間の友人は、女性全員に最近の流行というカンケーン・チャーンというゾウの絵柄のゆったりズボンまで用意してくれ、みんなでそれを穿いてワット・タースンというタイ版鏡の間のようなお寺にも行った。もちろん、フアイカーケン野生動物保護区にも行き、野生のトラこそ見られなかったが、そこで娘の鳥見と絵のお師匠であるアーチャン・カモンと奥さんにも会うことができた。  

 娘は1歳過ぎから何度も海外に出ていたが、コロナ世代の孫にとってはこれが初めての飛行機の旅であり、海外旅行だった。『気候変動と環境危機』を訳し、「飛び恥」についていろいろ学んだ私にとっては、「グレタ、勘弁ね」と思いながらの旅だった。タイでは例年になく早い時期から猛暑が始まり、PM2.5も深刻なレベルだという。孫は騒音や臭いに極端に敏感で、ふだんはバイクが通り過ぎるだけで両耳を手で塞いでその場で立ちすくんでしまう子なのだが、喧騒どころか大騒音の洪水と、下水や香辛料や香水、排ガスの充満するバンコクの通りや市場を数日間歩いたことは、かなりのショック療法になったようだった。友人たちはみな子ども好きで、手遊びや歌、絵の描き合い、紙飛行機飛ばし、花や実集めまで、いろんな方法で遊んでくれ、英語、タイ語、日本語が飛び交うなかで、孫は年中笑い転げて大はしゃぎだった。短い時間だったが、だいぶ記憶が曖昧になったタイのじいさんに会わせてやることができたのも大きな収穫だった。  

 娘の留学仲間がそれぞれの国に帰っていったあとの最後の晩は、2004年のインド洋大津波の年に鳥見のツアーで出会った仲間たちが夕食に招いてくれた。最高齢の友人は、コロナ以来、初めてこうした会食の場に出てきたのだそうで、二重にしたマスクがその覚悟の大きさを物語っていた。私たちに会うためにその決心をしてくれただけでなく、全員分の食事代まで払ってくれた彼女は、昔よりだいぶ痩せて、母の最晩年を思わせ、別れ際につい涙ぐんでしまった。  

 旅の途中で何人かは体調を崩したし、地球一周の旅をしたアメリカの友人は、最終目的地まで荷物が着かなかったし、私たちの帰国便も遅れて、真夜中過ぎに娘の夫に羽田まで迎えにきてもらうはめになったが、全体としては大成功・大収穫の旅だった。思い切って出かけて本当によかった。 

 さあ、これから出発前に終わらなかった巻末の参考文献の処理と、確定申告に取り掛からねば!

バンルアン運河のArtist's Houseにて、私も持参した水彩用紙の切れ端にスケッチをした

懐かしいセンセーブ運河船に少しばかり乗船

お揃いのゾウ柄パンツを穿いて「鏡の間」へ

水上住宅の東屋

ウタイタニーでの夕食

2024年2月10日土曜日

宣伝およびレゴ熱その2

 迫る締め切りを前にまだ悪戦苦闘中だが、取り敢えず本文を訳し終えたので、全体の見直しに入る前にちょっとばかり宣伝と近況報告をさせていただきたい。 

 ◉「懐かしい仲間、新しい響き」 
2024年3月22日(金)19:00開演 すみだトリフォニー小ホール 
 全自由席 一般3000円、学生2500円 

 私の姉のまどかが音楽仲間と室内楽のコンサートを開きます。船橋高校時代や、桐朋学園、東京芸大でともに学び、その後の人生のなかでママ友だったり、同じ職場で教えていたり、ニューヨークで一緒に演奏活動をしたりと、さまざまな形でつながってきた演奏家たちが集まったものです。アラ還になっても、こうやって一緒に活動できるのは、音楽家ならではだなと思います。お近くの方、ご都合のつく方、ぜひいらしてください。 

 ◉『あかちゃんの おさんぽ えほん』とうごう なりさ作、福音館書店(3冊シリーズ) 
『たんぽぽのはら』 
『あ!てんとうむし』 
『からすが かあ!』 
各990円、3冊セット箱入り 2,970円 

 こちらは娘のなりさが随分長期にわたって取り組んできた赤ちゃん用の絵本で、3月6日発売されます。3冊いずれも、赤ちゃんが表に出て最初に遭遇するような生き物を題材にした、他愛もないお話です。書店で見かけたら、どうぞお手に取ってご覧ください。出産祝いなどに、ご利用いただけるとなお嬉しいです。ちなみに、通常の書店だと箱入りは店頭では仕入れてくれず、注文になることが多いそうです。

「懐かしい仲間、新しい響き」コンサート
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『あかちゃんの おさんぽ えほん』
 これが専用の箱になっていて、以下の3冊がうまく収まります

 さて、近況のほうは、例のレゴ熱のその後、である。先月つくったカワセミにどんなパーツを使ったか教えて欲しいと、娘の知人からリクエストがあったのを口実に、まずは足の部分の改良に取り組んだ。その後、脚をもっと長くすればヤイロチョウの仲間もつくってタイの友人へのお土産にできるかもしれない、いや、カラスをつくれば、ちょうど近々刊行される娘のカラスの本ので宣伝に使える、そうだ柿の木に止まらせよう、とどんどんエスカレートした。あげくの果てに、孫が葉っぱのパーツを使ってクジャクに挑戦しているのを見て、同じパーツの白を入手して飾り羽にすればアオサギもつくれるかも、等々、どんどん泥沼にはまって行った。アオサギはとくに、長い脚になる黄色いパーツがあまりないため何度もやり直し、それでも「すぐ首チョンパになるし、ばらばらになるから嫌い」と孫に言われ、またつくり直すはめに。ある程度の形を、色を選んでつくることと、出来上がったものがただの置き物ではなく、それなりの強度で幼児が一応もって遊べるものにすることには大きな隔たりがある。最終的に、車輪をつけるためのホイールホルダーで飾り羽を固定することを思いついたときは、われながら嬉しかった。 

 そんなこんなで、パーツ店のサイトをこれまで以上にとくと眺めているうちに、ピアノの鍵盤がプリントされたタイル(表面にボッチがないパーツ)を見つけた。年末の発表会のあと、気が抜けて練習をサボりがちな孫を励ますつもりで、レッスンバッグにつける飾りをつくったところ、同じタイルを並べると、ちゃんと一続きの鍵盤になることに気づき、レゴでピアノもつくれるかと考えだした。驚いたことに、検索してみたら、つくれるどころか実際に動く鍵盤と弦やハンマー部分まで精巧に再現し、自動演奏できるレゴのグランドピアノの高級セットまであることを知った。 

 もちろん、そんなものを買う余裕も、その気もなかったが、ごく小さいアップライトのピアノならばつくってみたいと思った。モデルは、うちにあったヤマハの茶色いピアノだ。音楽の道に進むことにした姉がいつでも練習できるようにと母が奮発して買った2台目のピアノで、その後はグランドに替えたために、いとこの家に譲り、団地の建て替えでそのグランドを手放したときに、また母のところに戻ってきたものだった。耳の遠くなった母がピアノを教えるのをやめたのち、オーバーホールをして姪の家に運んだ。姪の子がこのほどピアノを始めたそうだ。 

 その茶色いピアノのミニチュアをつくって、おばあさんのミニフィグを座らせたら、生涯ピアノと縁のあった母にふさわしい飾りになるではないか。というのを口実に、またもやピアノづくりに入れ込んだ。ピアノのカーブは、鳥づくりで鍛えたおかげで簡単に思いついた。ペダルはうちにあったピアノと同様に、爪パーツを使って3本ペダルにした。背面は当初、ブロックを積み上げて平らに仕上げていたが、本物は響板と響棒がむきだしになった構造なので、支柱だけに替えてみた。マンションの手抜き工事みたいだなと思いつつ、余ったブロックは孫のレゴ箱に入れて活用してもらうことにした。パーツ店のサイトにあった楽譜は、「星に願いを」の出来損ないのような曲でちょっと残念だったが、楽譜をつけたおかげで雰囲気は出た。ネット上に作り方が公開されていたアップライトピアノは100近いピースを使っていたが、私のは椅子や照明を入れても50ピース弱で、ずっとお手軽版だ。これを機に、ビニール袋に入れたまま飾っていた母の写真も小さな額に入れたので、何やら仏壇代わりになった。 

 この間に細々としたパーツをいったい何回注文したことやら。パーツ店からも配達してくれる郵便屋からも、呆れられているだろう。そろそろ本当に終わりにしなければと思うのだが、あとまだ数点はつくってみたいものがあって困ったものだ。これも一種の依存症に違いない。

 増えに増えたレゴ鳥たち

 孫につくってやったピアノの飾り

再現してみたピアノ。本来の色はもう少し薄く、譜面台や蓋はかなり省略し、脚部はもう少し緩く先細りになっていたが、下にあった金属製の帯まで忠実に!

もちろん、連弾もできます

2024年1月18日木曜日

『国境と人類』

 昨年の大仕事、『国境と人類:文明誕生以来の難問』The Edge of the Plain, ジェイムズ・クロフォード著、河出書房新社)がようやく形になった。ここで試し読みができます。この本は、いまの混沌とした世界情勢を読み解くうえで、驚くような視点を与えてくれるものだが、肝心の「国境」という言葉が、多くの日本人にとってどれだけピンとくるものなのか、やや心許ない。本書のなかではborder, borderline, frontier, edge, borderlandなど、いくつかの用語が使われていた。かならずしも「国境」でない場合は「境界」と訳し、辺境地、外れ、国境地帯などと訳し分けるなど、試行錯誤しながらこの概念について考えつづけた。 

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という『雪国』の冒頭の一文は、上野国と越後国の「くにざかい」だった。江戸時代までの国境や藩境は、主要な街道沿いに関所や口留番所が置かれる程度で、ただ境界を示す木や石碑が建てられていた場所も多かった。日本では弥生時代の環濠集落や九州地方の山城、戦国時代に建てられた城などには周囲をぐるりと囲む障壁があったが、平安京なども南側の羅城門の両翼にしか城壁はなかったようだ。 

 海という自然の障壁に守られた島国日本でも、隣国からの領空・領海侵犯や、弾道ミサイルや人工衛星の落下を日々心配している人は確かにいる。だが、その海の向こうから実際に敵が攻めてくる経験をした世代はもう残り少ない。現代の日本人にとって、国境を越えるということは、たいがいは空港の搭乗口からいつの間にか機内に入ることを意味する。何時間か機内で過ごしたあと、同じようにボーディングブリッジを抜けると、もう外国の空港にいる。以前はタラップで乗り降りする飛行機も多かったので、少なくとも外国の地に「降り立った」という感覚はあったが、いまはそれすらめったに味わえない。 

 私が陸路で初めて国境を越えたのは、ソ連時代のモスクワから鉄道でチョップという駅(現在はウクライナ領)に着いたあとのことだった。1時間半ほど列車を止めての検問だった。中学生だった私は、「ものすごく“か”のような虫が多いのでいっしょうけんめい追いだしたとおもったら、検査の人たちが来て、また虫が入ってきてしまった。機関銃をさげている人がいたり、ベッドの下を見たり……ずいぶんきびしかった」と、旅行記に書いていた。 その後、チェコスロバキアを通ってオーストリア、スイス、フランスと列車の旅をつづけ、ドーヴァー海峡を船で渡ってイギリスにまで行き、友人一家とカーディフからエディンバラまで行く途中、ハドリアヌスの長壁の上も歩いたので、何度も国境を越える体験をしたことになる。「ローマン・ウォールというイングランドとスコットランドのさかいにある石がきの上を歩いた。もしゃもしゃの牛が何頭もいて、さくがなかったのでちょっとこわかった」と、旅行記には書いていた。羊や牛の柵にしか見えなかったこの石積みが意味したものも、本書で触れられていた。夜な夜なトマス・クックの時刻表を調べてこのヨーロッパ大旅行を計画し、イギリスではレンタカーを借りて長距離を運転してくれたのは亡き母だった。中学生で、かけがえのない経験をさせてもらったと思う。 

 数年後にアメリカの高校に留学したときは、とくに希望したわけでもなかったが、アメリカとメキシコの国境にあるテキサス州エルパソで1年弱を過ごすことになった。近年、中南米からの移民問題で、ニュースでも何度か名前を聞くことはあったが、『国境と人類』ではすっかり変わってしまったこの都市の様子が何度か触れられていた。 当時、リオグランデ川を挟んだ対岸のシウダッド・フアレスとエルパソは双子のような都市で、国境から3キロほどの距離にあった高校には、メキシコ側から毎日、自分で車を運転して通学してくる同級生がかなりいた。私が住んでいた地域は、リオグランデが北西に方向を変え、ニューメキシコ州内を抜ける流域に近く、この川から引いた灌漑用水路が裏庭の後ろにあって、その先には綿花畑が広がっていた。この土手沿いに毎日ジョギングしていた私は、ときおりテキサスとニューメキシコの州境まで走っており、川まで往復4マイルほどを走ったこともあった。当時は地図をもっておらず、私の頭のなかでこの複雑な地理はまったく理解できていなかったが。 

 一度など、ホストファミリーとフアレスの街に食事に出かけた際にパスポートを忘れ、エルパソに戻る際に気づいて青くなったこともあった。往路はそのまま通れたが、復路では検問があり、口頭で国籍を聞かれるのだった。「US」とアメリカ人風に発音する練習をさせられ、その甲斐あって無事にお咎めなく家に帰ることができた。滞在中、ホストファミリーには熱気球乗りから乗馬や射撃まで、じつに多様な経験をさせてもらったが、いま思えば、国境地帯に暮らした経験そのものも、本当に貴重だった。 

 私がエルパソに滞在していた1980年ごろもニュースでときおり移民問題は報じられていたが、フアレスに住むメキシコの友人たちは裕福そうだったし、エルパソ側にもスペイン語を母語とするヒスパニックの人が大勢住んでおり、傍目にはよく融合して暮らしているように見えた。米墨戦争の終結から1世紀しか過ぎていない時期に、かつてのメキシコ領にその子孫が住んでいたのは、考えてみれば当然だったのだろう。もっとも、エルパソの貧民街(「電気もきていないような所」)のことや、「川をへだてただけですべてがちがう」メキシコの貧しい街を見て驚いたことなども、当時の手紙に書いていた。 

 アメリカ全土で状況が変わりだしたのは、1993年にエルパソの国境警備が厳しくなったことが発端だったという。エルパソで越境できなくなった移民が、アリゾナ州のソノラ砂漠を越え始めたことによる悲劇を綴った章を訳しているころは、ちょうど母の容体がどんどん悪くなっていた時期だった。過酷な状況で若い命を失っている移民たちの現実を翻訳していたことが、逆説的なようだが、母の死を受け入れさせてくれたのだと思う。何と言っても母は、平和な日本の病院で、手厚い看護を受けながら天寿をまっとうしたのだから。 

 学生時代にヨーロッパを2カ月間放浪したときも国境を何度も越えた。シェンゲン協定の10年以上前だが、西ヨーロッパでは切符の車内改札時にパスポートを見せた程度で国境を通過していた。唯一、ハンガリーに留学中の姉を訪ねるため、ウィーンから乗り込んだオンボロの「オリエント急行」では、乗車してすぐのパスポート・コントロールのあと、実際に国境を越える際に、「いつもとはちがった雰囲気で調べられ、おまけに懐中電灯でイスの下まで照らされて、なかなかきびしい感じを受けた」と、これまた古い旅行記で再確認した。 

 本書には、国境/境界の概念が疫病対策で強化されたことを指摘する興味深い章もあり、コロナ禍に振り回されたこの数年間を振り返るよい機会にもなった。 

 原書は、ロシアによるウクライナ侵攻が始まったころに執筆を終えているため、国境をめぐるこの紛争に詳しく言及してはいないが、ごく最近閉鎖されたフィンランドとロシアの国境での興味深いエピソードなどは盛り込まれていた。著者はヨルダン川西岸地区を訪ねており、校正段階に入ったころに始まったガザ侵攻のニュースは、その背景が理解できていただけに身につまされるものがある。 

 年末ぎりぎりまで校正するなかで、気になっていながら、うやむやにしてしまった問題が一つあった。原書ではエレモス・コーラ(eremos chora)という古代ギリシャ語と、その英訳であるno man’s landという言葉で、たびたび言及されていたものを「無人地帯」と訳したことだ。もちろん、場所によっては38度線の軍事境界線のように、文字どおり「無人」地帯のところもあるのだが、実際には通常「無主地」と訳され、「無主地先占」という植民地主義に関連した文脈で出てくるテラ・ヌリウス(terra nullius)と同じなのではないか、という疑問だ。テラ・ヌリウスは一般には、尖閣諸島や竹島のような問題で使われる。No man’s landの英語のウィキペディアのサイトには、しっかりとテラ・ヌリウスと混同するなと書かれているが、両者の定義にはほとんど差がなく、双方を同義に使っている人もかなり見受けられる。せめてその旨を訳註で入れておけばよかった、と後悔している。 

 昨年1年、この作品に接したことで、国民国家とは何かという根源的な問いをはじめ、じつに幅広い問題を考えさせられた。先の見えないこの時代を考えるうえで、ぜひ一度お読みいただきたい。著者クロフォードはまだ40代のスコットランド人で、日本ではおそらくほとんど知られていないと思うし、450ページを超える長編だが、最後まで飽きることなく読める一冊になることを請け合いたい。発売は今月末の予定だ。

『国境と人類:文明誕生以来の難問』(ジェイムズ・クロフォード著、河出書房新社)と原書(左側)

ハドリアヌスの長壁の上を歩く
(1975年8月撮影)

エルパソ近郊。川の流域以外は禿山と砂漠が広がっていた(1980年撮影)

通っていたエルパソの高校で
 
パリからブダペストまで延々と乗った列車の時刻表

2024年1月17日水曜日

レゴ熱

「これ□□ちゃんのおばあちゃんに似てない?って言われた」と、年末に近所のママ友の家で夜遅くに「大人レゴ」をしてきたという娘から、一枚の画像を見せられた。そこには灰色のもっさりした髪のおばあさんのミニフィグが写っていた。どうやら私のことらしい。 

 レゴの小さい人形であるミニフィグの存在は、娘が3、4歳のころに買ってやった「南海の勇者シリーズ」の小さなセットで初めて知ったが、当時は黄色い顔に鉤手の海賊人形にはとくに関心をもたなかった。その後、奮発して買った「お城シリーズ」に、暗い場所では光る幽霊や青い服の魔法使いがいたのは覚えている。この中世のお城のセットは可動する跳ね橋などが魅力的だったが、土台部分が大きな塊として成形されており、用途が限定され過ぎていた。幼稚園児が遊ぶには細々としたパーツが多過ぎるとも思った。

  レゴは自由に組み立ててこそ楽しいと思うのは、私自身がレゴっ子だったからだ。レゴに夢中になって遊んだのは小学校の低学年までなので、どうやら日本で1962年から67年にかけて朝日通商が販売した最初のレゴで遊んでいたようだ。レゴ社が現在と同じABS樹脂のブロックを発売し始めたのが1963年らしい! いまだにレゴに愛着があるのは、三つ子の魂というやつだろうか。当時のブロックは白、黒、赤、黄色、青、透明しかなく、大半は基本のブロックで、薄いプレートと赤いスロープ、タイヤとタイヤをはめる穴付きのブロックが数個あったくらいだった。シャッター部分が開閉される車庫や、ボッチで固定されておらずよく倒れる木もあった。ウィキによると、当時の価格で数百円から数千円と高額で、都市部のデパートなどでしか売っていなかったそうだ。裕福でなかったわが家で、母がなぜレゴを買い与えたのかはもう知る由もないが、教育熱心だったので、知育玩具として興味をもったのかもしれない。もっとも、母がレゴで一緒に遊んでくれた記憶はなく、代わりに叔父が赤いスロープを屋根瓦にするのを見て感心したりしていた。  

 レゴが知育玩具だなどと私が知ったのはずっとのちのことで、『なぜ本番でしくじるのか』(バイロック著、河出書房新社、2011年)を訳した際に、男女の空間認識能力の差が、子どものころの遊びに起因すると書かれており、その一例としてレゴが挙げられていたためだ。「アメリカで毎年売られているレゴのほとんどは男の子向けのものだが、レゴは高い玩具なので、低所得者層では男の子も女の子もあまりレゴを見たことがない」という同書の指摘に、私は意表を突かれた。数学は好きではなかったが、幾何だけはわりと得意で、立体を描くのに苦労もしなかったのは、幼いころのレゴ遊びのおかげだったのかもしれない。レゴのボッチの数や、ブロックの厚み・幅の違いは数の概念や分数を理解させるうえでも役立っていたはずだ。私がもっていた古いレゴはまったくジェンダーレスの玩具だったし、娘の時代のレゴセットは、アーサー・ランサムやC・S・ルイスの本を愛読した私には心惹かれるテーマだったが、そう言われてみれば男の子向けだったのだ。  

 子ども時代のレゴの一部は、娘に買ったレゴと一緒に巨大な箱に収納されていたが、母が誰かにあげてしまい、しばらくレゴから遠ざかることになった。のちに『エンゲルス』(ハント著、筑摩書房、2016年)を訳していたころ、ネット検索中に偶然、誰かがマルクスとエンゲルスをミニフィグで再現している画像を見つけ、とっつきにくかった彼らに親近感を覚えたことがあった。何しろ、そのヒゲが、昔娘がもっていた魔法使いのと色違いだったのだ。レゴ人形がミニフィグと呼ばれていることも、そのとき検索して初めて知り、しかも顔、髪、上半身、下半身、髭、持ち物等々、組み合わせられるパーツを売っているネットショップがあることもわかったが、飾っても仕方ないかと、このときは思いとどまった。 

 その後、赤ん坊にしてはやけに髪の多い孫が生まれ、半年も経つとまるで帽子をかぶったような、ミニフィグのかつらのような不自然な髪型になり、どうしても孫のミニフィグ人形が欲しくなった。孫用のパーツを頼んだついでに、以前から欲しかったエンゲルス分のパーツも注文したのがレゴ熱再発の始まりだった。その孫がブロックを口に入れる危険がなくなった2歳ごろに、レゴの大きめの基本パーツをまず数個だけ与え、一緒に遊べるようにと娘一家のミニフィグもつくってやった。最初はどうしてもブロックがはずせなかった孫が、できるようになってまずやったことが、ミニフィグの髪をはずして坊主にし、髪を取り替えっこする遊びだった。このミニフィグたちは、のちにアンニョン・タルの絵本『すいかのプール』を読んだあとに、すいかのなかで泳ぐことにもなった。 

 最近のレゴには、女の子用を意識したと一目でわかるピンク、紫、水色が多用されたお城やお店のセットなどがあるが、食指が動かない。ミニフィグも「肌色」のものが増え、さらには茶色の肌のものも登場し、体型も変化して普通の人形と変わらないシリーズもある。でも、ミニフィグは不恰好な黄色で、いろいろ組み合わせて楽しめるほうが、レゴらしくていいと私などは思う。 

 娘は私ほどレゴにはまることはなかったが、年末の「大人レゴ」で近年増えた新しいパーツの面白さに気づいたらしく、最近出たばかりの「鳥のおうち」セットを孫に買い与えていた。鉤手付きのパーツに横棒付きのパーツを差し込むと蝶番のようになって羽が動かせたりする鳥が5羽もついているセットだ。娘が仕事をするあいだに孫とそれを組み立てる係が私に回ってきたが、2羽つくったあとは孫が一人でつくれるようになっていた。出来上がった鳥たちは足の角度も変えられ、目も若干動いて表情が出せ、なかなかよくできていた。

 だが、5羽の1羽はカーディナルに似ていたが、残りは何かわからなかった。鳥となると、種を特定しないと気の済まない娘が、それらの鳥をつくり替えたいと言いだし、そのお役目も私に回ってきた。驚いたことに、孫はすでに複雑なパーツの違いを見分けており、左右に目をつけるのに使うブロックは、普通のタイプとは異なり両側にボッチがあることなどに気づいていた。まずは色を少し変えれば何とかなる種を孫と一緒に考え、メジロとコマドリをつくるために違う色のパーツを探すはずだったのだが、そのうち尾を長くすればサンコウチョウになるかなど、いろいろ欲が出てきた。 

 レゴ・パーツ専門店のサイトで膨大な種類のパーツの見分け方がわかってくると、いや、カワセミもつくれるかもしれない、サンコウチョウのアイリングにはこの丸いパーツが使えそうだ等々エスカレートし、単価8円から数十円の注文するのも気の毒な諸々のパーツを、120点以上もポチっていた。例のおばあさんミニフィグ用の灰色の髪とボディも注文した。週末だというのに、ネットショップからはすぐに発送連絡がきて、日曜にも配達されるゆうパケットで、それらのパーツが正確に注文どおりに届いた。単価の非常に安い膨大な種類のパーツの綿密な在庫管理をしながら、それぞれを1個、2個と注文する私のような迷惑な客のリストにもとづいてそれらを選び、数をかぞえて、合っているかどうか確認し、梱包して発送する……。ちゃんと商売になっているのか、従業員はうんざりしていないのか、つい気になってしまった。 

 現物のパーツがないまま、雑なスケッチと頭のなかで組み立てて注文したカワセミは猫背になり過ぎて、大きなランドセルを背負った小学1年生みたいになったが、それはそれでかわいい。画面上で見た色がイメージと違っていたり、目立たない部分のパーツを注文し忘れていたり、個数を間違ったり、あるいは別のパーツを思いついたりで、結局、どの鳥ももう一度、あれこれやり直しが必要になり、再度、パーツを大量注文することになった。

 肝心の孫は、大人主導で完璧なメジロやコマドリをつくることには興味を失い、好き勝手にパーツを組み合わせて遊び始め、一方の娘は「尾羽が長過ぎる」とか、「この部分は黄色がいいんだよね」と、細かい注文をあれこれつけ、諸々のリクエストをまとめている私に向かって「結局、最後までやっているのはえりば(私のあだ名)だね」とからかう始末。工作好きの私は昔から、娘に「つくって〜、つくって〜」と言われて、よく乗せられていたが、今回もまんまと罠にかかってしまったようだ。 

 まあ、このところずっと、締切りが迫るなかで翻訳マシンと化して溜まっていたストレスは、レゴ鳥づくりでいくらか解消されたかもしれない。ただし、これ以上はまると本業に差し障るので、そろそろ終わりにしなければ。

レゴ鳥たち。まだつくり変えたい部分があちこちにあるけれど、一応それらしく見えてきたか。サンコウチョウ、メジロ、コマドリ、カワセミ、エナガ(赤い鳥はもともとのセットのもの)

いつのまにか増えているミニフィグたちと、孫がつくったダイサギ!

最初に組み合わせてつくったミニフィグ

自費出版した折にも、表紙に使わせてもらった写真の松平忠礼のミニフィグを馬とともに記念に買った。横に立つ私の高祖父はヒゲを外したエンゲルスで代用

すいかのプール!