2015年5月31日日曜日

『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』

 人は自分が生まれた時代を基準にものごとを考える。19世紀生まれの人はもう存命ではないだろうから、いま生きている日本人はみな日本が先進国だと考えているだろう。たとえば私なら、テレビ、電話、自動車などが初めてうちにやってきたときのことは漠然と覚えている。最初の洗濯機には手回しの脱水機がついていたと思うし、時計はチクタク鳴るゼンマイ式や振り子式だった。それでも、電気・ガス・水道がなかった時代は知らない。平成生まれの若者なら、パソコンやファックス、ビデオがある生活が基準となり、いまの子供にいたっては、最初に目にした「玩具」がスマホかもしれない。  

 自分が生まれるわずか数十年どころか数年前まで、こうした文明の利器がなかったことなどは、人はあまり考えない。まして、それらがどうやって発明され、つくられたかなどは意識しない。現代の生活を限りなく楽で豊かなものにしているインフラや先端技術が大災害で使用できなくなって初めて、人はあわてふためく。自分たちがいかに、とうてい理解できないほど複雑になった人間社会のなかで、日々、仕組みも原理もさっぱりわからないもののボタン操作だけを学んで、家事や仕事をこなした気分になっていたかに気づかされるのだ。

 こんなことをあれこれ考えさせられるきっかけとなった本が、このたび河出書房新社から刊行される。『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』というやや衝撃的なタイトルで、著者ルイス・ダートネル氏は、一見すると大学院生のような若いイギリスの研究者だ。すべてが崩壊しても、種となる知識があれば、文明は紆余曲折した中間段階を省いて急速に復興できるかもしれないと彼は考え、本書はいわばそのマニュアルとなっている。「おそらく歴史上で最も感銘深い一足飛びの離れ業をやってのけたのは、十九世紀の日本だろう」という彼の言葉を訳しながら、つい苦笑した。幕末に入ってきた多数の蘭書や長崎海軍伝習所、明治のお雇い外国人による技術指導、それらのおかげでいまの日本がある。日本人はまさに詰め込み勉強をしたわけだ。  

 福島の原発事故以来とみに、科学技術によって人間は不幸になったとか、もう科学は信じられないといった主張を聞くようになった。技術がかならずしも人間を幸せにはしない実例は、確かにいくらでもある。それでも、著者が指摘するように、「科学の本質は、自分が間違っていたことを繰り返し認め、新しいより包括的なモデルを受け入れることにあるので、その他の信条体系とは異なり、科学の実践は僕らの物語が時を経るにつれて着実により正確になることを保証するのである」。科学の原理を応用したテクノロジー、つまり技術が役に立たなかったからといって、科学の原理そのものが間違っているとは限らない。間違いはたいがい、目先の便利さや利益にとらわれ、環境への影響を顧みなかった実践方法にある。文明というのは、農耕の始まりからして科学と技術の積み重ねだったのであり、「作物が栽培されている農地は非常に人工的な環境であり、自然はつねにそれに反発することを意味する」と、彼はいみじくも指摘する。移動しながら狩猟採集を営み、人口を増やさず、自然のリズムのなかで生きているごく少数の人びとを除けば、人類は農耕を始めて定住したときから、自然に背を向けてきたのだ。  

 若い著者の鋭い指摘や解説に唸らされながら、それを確認するために今回も時間の許す限り調べものをし、実験できるものは自分でも試してみた。たとえばリジッド・ヘドル。平織りするために、「細長い隙間と穴が交互に一列に並んだ長い板に、それぞれ経糸を一本ずつ通すという独創的なもの」で、経糸を交互に上下させるいちばん単純な形態の綜絖だ。ネット上で見た画像を参考に、私はアイスクリームの棒を使って工作し、織物らしきものをつくってみた。本書のヒントに従って小麦粉と水を混ぜて培養してサワードウをつくり、ガスレンジについている魚用グリルでパンも焼いてみた。サワードウは冷蔵庫で一週間は充分にもつので、それ以来このパンを定期的に焼きつづけている。鉱石ラジオにも挑戦してみたが、なにしろ電気はまったくの不得意分野なので、カミソリの刃や鉛筆で工夫するのはあきらめ、基本セットを購入した。接続が悪いうえにアンテナが不出来なので、ラジオと呼べるようなものにはならなかったが、どこかの局の放送を聴力検査のようなかぼそい音で拾ったときは感激した。三鷹にある水車も見に行ったし、以前につくった動くカラスカードの仕組みがクランクであることを、いまごろになって知った。カムやクランクや歯車の仕組みが簡単に学べる玩具があれば、子供は夢中になって遊ぶだろう。いつか石鹸くらいは挑戦してみたいが、苛性カリをつくるのは一仕事のようだ。マンハッタンのほぼ東西に走るストリートでは、春分・秋分に近い日にストーンヘンジのような現象が見られることも本書で知り、ちょうど同じような条件にある近所のマンション群で、ビルの谷間から昇る朝日と沈む夕陽も眺めてみた。  

 大惨事の生き残りが、私のような文系人間ばかりであれば、この本が見つかっても文明は再建できないかもしれないが、この本が植えた知識の種は着実に私のなかでも育ちつつある。意欲のある若い人にぜひ読んでもらいたい一冊だ。

『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』ルイス・ダートネル著(河出書房新社)