2021年5月15日土曜日

観光資源?

 今朝の毎日新聞の神奈川版のページに、旧根岸競馬場の一等馬見所が改修・保全されることになったというニュースが掲載されていた。隣接する米軍根岸住宅地区の返還につながる作業が始まったため、という。  

 この「馬見所」を初めて見に行ったのは、『「立入禁止」をゆく』(B. L. ギャレット著、青土社)を翻訳中に廃墟探検についてあれこれ読んでいた際に、ここを探検した何人かの記録を見つけたためだった。内部の画像は心そそられるものだったが、後先や家族の迷惑を考えるおばさんとしては、好奇心を抑えるしかなかった。  

 その後、『埋もれた歴史』の調査で近くの馬の博物館や中華義荘に行った折にも、この廃墟を眺めた。周囲の敷地が狭いため、「馬見所」は間近で見ると全容がわからないが、谷を挟んだ高台にあるこの中国人墓地からは、まるで古城のようにそびえて見えた。もう少しよく見えないかと、道をさらに進んでみたが、行き止まりになり、鉄条網と英語の看板が見えた。そこが米軍根岸住宅地区だった。  

 当時はその区域を確認しなかったが、根岸森林公園とのあいだの細長い一角ともつながり、中区、南区、磯子区にまたがる約43ヘクタールの米軍施設だった。ということは、蒔田公園の少し先を右手に登ってゆく稲荷坂の付近からずっと一続きになっていたのだ。ここにはRacetrack Rd.という英語表記の道路標識があり、その先の敷地には外国の光景が広がっていた。保土ヶ谷などの崖地に住宅が立ち並ぶ景色を見慣れた身としては、その落差を思わずにいられなかった。本当の意味で「立入禁止」だったのは、むしろこの米軍基地のほうだったのだと、いまさらながら思う。  

 新聞記事は、かなり大きな見出しで「新たな観光資源に期待」と謳っていた。市民からは、「馬見所」の活用方法として、そう期待する向きもあるのだという。前述の書の著者、ギャレットから多分に感化されたのだと思うが、「観光資源」という言葉を聞くたびに、私はどうも反発を覚える。  

 競馬場の歴史そのものは、横浜の開港の歴史と切り離せないが、1930年竣工というこの建築物の歴史は、使用されたのがわずか12年間で、戦後から1969年まで米軍に接収、その後国に返還され、横浜市が買い取ったのは1987年のことという。関東大震災に遭っていないこの建物が、どれだけ耐震構造になっているかはわからないし、保全して一般公開するとなれば、それなりに大掛かりな工事になるだろう。米軍基地が21世紀まで取り囲んでいた歴史も、更地にして帳消しにできるものではない。 

「建物にはつたが絡まり、窓ガラスは割れたままなど老朽化が目立つ」と、新聞記事は書くが、70年以上にわたって放置された廃墟なのだ。「活用」するのであれば、むしろ太平洋戦争をはさんだ昭和の苦い歴史を学ぶ場として、廃墟のまま、安全が確認できた場所だけ見学可能にすることはできないだろうか。米軍基地の一角も鉄条網とともに同様に残して、晴れて日本の一般市民もなかに入れるようにしてはどうだろう。観光資源としてやたら宣伝しなければ、ヨーロッパの朽ちかけた古城のように、あるいは全国各地に残る城の跡のように、そこを訪ねた人が静かに時の流れに思いを馳せる場所となるはずだ。大金を投じて大工事を施し、新しい窓ガラスまで入れて磨きあげた「馬見所」など、いったい何にするつもりだろう。

中華義荘から見た「馬見所」
(2018年10月撮影)

 米軍根岸住宅地区のはずれより
(撮影は同上)

 米軍基地内

 稲荷坂を登った付近(2016年3月撮影)

2021年5月11日火曜日

『FOOTPRINTS 未来から見た私たちの痕跡』

 10年ほど前、近所を散歩していたとき、道端に石碑があることに気づいた。スキー帽をかぶったような人物と三猿が彫られていて、よく見ると手が何本もあり、法輪や弓矢をもち、猫のようなもの──あとで邪鬼と知った──を踏んづけている。寛政10(1798)年という古い年代のもので、調べてみると庚申塔と呼ばれる石碑だった。旧東海道沿いなので、ほかにもあるのではないかと、それ以来、道端を探すようになった。その後、ネット検索すると、庚申塔研究している人のブログやホームページがいくつも見つかり、それを参考に三浦半島から都内まででかけては、社寺の裏手や草に埋もれた石碑を探して歩いた。  

 ちょうど『100のモノが語る世界の歴史』(筑摩書房)を訳していたころで、何千年も前の遺物からでも多くのことがわかることを知り、大いに興味をそそられていた。ところが、日本は基本的に木や紙、布など、燃えたり、虫喰いになったり、腐敗したりしてあとに残らない物質を好んだ文化であり、たかだか200年前のものですら、近所にはこうした石碑しか残っていないことに愕然とした。ふだん目にしているものの95%は100年以内につくられたに違いない。ということは100年後にこの場所に立つ人の目には、私の痕跡はもちろん、いま私が見ているものすら何一つ映らないかもしれない。そう思ったら、何やら寒々としたものを感じた。その後、私が祖先探しをするようになった背景には、このときの衝撃が少なからずあった。  

 ところが、今回、翻訳の仕事でかかわったデイビッド・ファリアー著『FOOTPRINTS 未来から見た私たちの痕跡』(David Farrier, Footprints: In Search of Future Fossils、東洋経済新報社)からは、その真逆とも言うべき別の衝撃を突きつけられた。原題にある「フットプリント」と「未来の化石」とは、いったいどういう意味なのか。  

 人間の「足跡」もまるで無関係ではないが、それ以上に比喩的な意味で、日本語なら痕跡と称されるようなものについて本書は語る。つまり、現代の人間が残す痕跡のことだ。それはカーボン・フットプリントのように、目には見えないけれど、大気中の成分にこの先何万年も人類が残す人為起源の二酸化炭素も含まれるし、コンクリート、鋼鉄、ガラスなどを使って、人間が地上にも地下深くにも建設してきた道路や都市の高層ビルやインフラストラクチャー、坑道などの建造物、海洋に漂う膨大なプラスチックごみ、そしてもちろん半減期だけでも人類の歴史をはるかに上回る放射性物質まで、おおむね負の遺産と呼ぶべきものである。  

 著者はエディンバラ大学の英文学者であり、自然と場所、つまり環境をテーマにして文章を書くコースを教えたことから、過去の優れた文学・芸術作品の助けを借りて、想像を膨らませながら、文明が滅びたのちの遠い世界に思いを馳せる。文学者ではあるけれども、オンカロの放射性廃棄物の最終処分場から、オーストラリアのグレートバリアリーフやウラン鉱まで、ジャーナリストのように現地に赴いての報告もある。  

 何万年、何十万年も先の未来に、地球に暮らす人類の子孫か、まだ生き残っている生物にしてみれば、200年にも満たない期間に、地球を大きく改変してしまった現代の人間がどう映るかを想像するという、かなりの想像力を要求される試みだ。地質学者がV字谷やモレーン(氷堆石)を見て、そこにかつて存在した氷河を思い浮かべられるように、地表面がどこにも見えないほど人間がつくり変えてしまった都心の光景を前にしたとき、その先の未来を想像できるだろうか。あるいは、この十数年間にネット上に溢れ返るようになった情報を見て、それがどこかのデータセンターに保管されるために使用される膨大なエネルギーが世界の炭素排出の2%を占めており、地球温暖化に拍車をかけているという現実に思いを馳せられるだろうか。  

 いまこの瞬間の諸々の欲望や心配事にばかり捉われている人は言うまでもなく、せいぜい10年単位でしか物事を考えられない政界・財界の人たちや、孫やひ孫の代くらいまでしか想像できない私たち大多数の人間は、たとえばプルトニウム239の半減期である24,110年後を考えてみろと言われても何も思いつかない。 

 この春、桜を観察するため久々に近所を歩き回った際に、以前から気になっていたごみの山が植生に覆われて、一見すると無害な自然の地物と化していることにふと気づいた。駅前から奇妙な禿山がよく見えたので、その存在はずっと知っていたが、実際にそばまで見に行ったのは10年くらい前のことだ。  

 あれは何だったのか。本書に触発されたこともあって、ようやく調べてみる気になった。その名も産業廃棄物の戸塚区品濃町最終処分場という。「はまれぽ」の記事や、横浜市のホームページなどによると、1987年に横浜市から許可を得た業者が山林地帯の窪地を埋める形でごみを投棄し始めた。ところが、しだいに許容量を超えて山が崩れんばかりの事態になり、遮水シートが敷かれていなかった箇所から汚染水が漏れて川上川に流れだしていたことなどが判明した。しかも、この業者が事実上倒産し、2005年から横浜市が代わりに一部のごみを運びだして山を小さくし、擁壁なども設置し、飛散防止対策とも施し、そのために42億円(国が18.5億円負担)が少なくともかかったという。つまり、私がごみの山で見ていたブルドーザーは、山を崩す作業をしていたわけだ。運だしたごみは、南本牧の最終処分場に埋立てられていた。  

 このごみ処分の業者や行政の怠慢は責められて当然だが、それだけの途方もない産業廃棄物をだす暮らしをしているのが私たちだということも忘れてはならない。ここの廃棄物の種類は、廃プラスチック類、汚泥、がれき類、ガラス・コンクリート、陶磁器くず、燃え殻などで、石綿も含まれており、数年前に近くで見た山は、粗大ゴミの山のように見えた記憶があるので、建てられては潰される住宅の残骸も含まれていたかもしれない。このごみの山は、皮肉にも源流の森保存地区のすぐ隣にある。

 旧東海道沿いを中心に、茶屋や農家が立ち並んでいたはずのこの一帯の住民は、わずかな石像くらいしかいまに残していないのに、私たちの世代が生きた痕跡は、はなはだ不名誉なことに、100年後、200年後も増えつづけるごみの山として残りそうだ。  

 以前に書いた横浜市中央図書館パサージュ論の記事も、この本を翻訳中に書いたものだ。環境問題だけでなく、文明とは何かを深く考えさせられた作品だった。5月下旬には店頭に並ぶ予定なので、見かけたらぜひお手に取っていただきたい。  


『未来から見た私たちの痕跡』(デイビッド・ファリアー著、東洋経済新報社)
左側が原書:David Farrier, Footprints: In Search of Future Fossils 
 


 近所で見かけた庚申塔 2010年ごろ撮影

 日本橋界隈、2014年8月撮影
 見渡す限りコンクリートに覆われた街の彼方に、『オズの魔法使い』のエメラルドシティのごとく新宿の高層ビル群が見えて、息苦しくなったのを思いだす

 近所のごみの山の変遷。まさに草生える!

 間近に見たごみの山  2015年1月撮影

『コーラス』Les Choristes

 いまさらもいいところなのだが、先日、フランス映画『コーラス』(Les Choristes, 2004年製作)を観た。連休中、孫のお守りから解放されて少し時間があった折に、たまたまYouTubeにあった断片を観て、久々に聴いたフランス語が新鮮で、つい中古のDVDを買ってしまったのだ。封切られたころはまるで知らなかった。どのくらい話題になっていたのだろうか。  

 知らない方のために概略を書くと、La Cage aux Rossignols(邦題は『春の凱歌』)という1945年の古い映画のリメイク作品で、クリストフ・バラティエが監督し、彼のおじに当たるジャック・ペランがプロデューサーの1人となった。『WATARIDORI』というドキュメンタリー映画のコンビと言えば、思い当たる方もおられるだろうか。ジャック・ペランはもともと俳優で、本作でもモランジュ少年の老後の人物として登場する。聞き覚えのある名前だと思ったら、『ロシュフォールの恋人たち』でカトリーヌ・ドヌーヴの絵を描いた金髪の優男の水兵が、彼だった。じつは音痴で歌えないので、あれは口パクだったと、DVDのなかの久石譲との対談で暴露している! この作品では指揮者を演じるのだが、楽譜が読めないので苦労したという。  

 映画そのものは、戦後まもない時期に孤児や問題児を収容していた「池の底(Fond De L’Étang)」という寄宿学校を舞台に、そこに舎監として赴任してきた失業中の音楽家クレモン・マチューが繰り広げる学園ものである。問題児たちを有無を言わさず規律で縛る校長のやり方に疑問をいだいたマチュー先生は、荒れた子供たちに歌を教えることで心をつかんでゆく。合唱の練習に参加しない問題児のモランジュが、実際には素晴らしい声の持ち主であることを知った先生は、彼にソロパートを与える。  

 このモランジュ少年役のジャン=バティスト・モニエのボーイソプラノが何とも美しい。出演したほかの少年たちはほぼ全員、歌も演技も習ったことのない普通の子供たちだったが、ジャン=バティストだけはリヨンのサン・マール少年少女合唱団のソリストだったのである。映画のなかの合唱は、この少年少女合唱団員がカメラ外で一緒に歌っていたのだという。合唱団の指導者のニコラス・ポルトは、撮影のあいだ子供たちの合唱を指導し、マチュー先生役の俳優ジェラール・ジュノの演技指導もしていた。じつは、フランス各地を回ってバックに使う合唱団を決めていた際に、監督の耳に聞こえてきた歌声があまりにも美しく、部屋を覗いたら、声の主が美少年で、モランジュ役はほとんどその場で決まったらしい。  

 DVDには、映画前のカメラテストで撮影されたと思われる合唱団の1コマがあり、そこでソロパートを歌った当時12歳のジャン=バティストは、オクターブ上のシのフラットと思われる音までだしていた。私では、ニワトリが絞め殺されたような音しかでない高音だ。声の質は明るく澄み、音程が非常に確かで、発音も惚れ惚れするほど美しい。YouTubeで観た2005年に合唱団が行なったコンサートでも、女の子のソリストよりも高音を彼が楽々とだしていた。撮影時も、まわりの人が息を呑むほどの歌声だったと、監督が語っている。  

 ロケは、フランス中部のオーヴェルニュのラヴェル城という個人所有の中世の城を貸し切って、子供たちの夏休み期間に行なわれた。物語の始まりは冬なので、この城の入り口に人工雪を降らせて、子供も総がかりで緑のツタ類を引き剝がすなどした様子が、Makingという撮影裏話のなかに収められている。カメラドリーというレールを敷いてトラッキングショットで撮影する様子などが見られるのは面白いし、映画という空想の世界の創造主のような監督の熱い語りを聞くと、この映画を繰り返し細部まで観てみたくなる。最初と最後の場面でとくに活躍するペピノーを演じた、当時8歳のマクサンス・ペランは、プロデューサーのジャックの息子で、監督の年の離れたいとこに当たる。戦争孤児のペピノーは、土曜日には父親が迎えにくると信じ込んでいる。  

 若干の演技経験のあるパリからきた子役が2人いたが、残りは地元オーヴェルニュの小中学校から募集した子供たちなので、撮影は子供キャンプさながらの騒動だったようだ。映画の世界など何一つ知らなかった子供たちと、監督や共演のベテラン俳優たちが真剣に向き合い、話を聞き、アドバイスをし、励ます様子を観ると、映画のなかでごく普通の子供たちが、迫真の演技をしている理由がよくわかる。それでも、セリフをもらえる子と、名前のない脇役の子がどうしてもできてしまうので、多感な年頃の子供の集団を、うまく一つにまとめるのは至難の業だっただろう。  

 ソリストとして活躍するジャン=バティストは、平たい顔を見慣れている日本人からすれば、鼻が高く目が寄りすぎて見えるかもしれないが、ジェームズ・ディーンを思わせる上目遣いや拗ねた表情、あるいは若いころのダイアナ妃やメリル・ストリープのような恥じらいを見せ、その美声と相まって人目を引かずにはいられない。「顔は天使だが体は悪魔だ(Tête d’ange mais diable au corps.)」と紹介される。フランス語のtête(頭)は「顔」も意味する妙な言葉だが、キメラのように頭部は天使、体は悪魔、という意味とも解釈できそうだ。この文の後半部分は、ラディゲの小説の題名と同じだが、字幕はなぜか「心は悪魔」となっていた。  

 彼の危険な魅力だけが突出しないよう、製作者たちはかなり骨を折ったものと思われる。地方の合唱団のソリストでしかなかった12歳の少年が、この映画出演で世界的に有名になりすぎて、人生を狂わされないよう、大人たちはできる限りの配慮をしたに違いない。なにしろ、ボーイソプラノは変声期を迎えるまでだからだ。  

 合唱団を去ったあとの彼は、声楽家としての道は歩まず、マルチタレントのような道を模索していると思われるが、子役の宿命なのか、「Les Choristesの」という枕詞がついて回り、あの天使はいまどうしているのかと、絶えず過去の自分と比べられているようだ。彼はベッカムに似た長身の美青年に成長していたが、もはや天使のオーラはない。

 それにしても、フランス語をこんなに真剣に聴いたのは学生時代以来かもしれない。音を聞けば、綴り字が想像できるのがフランス語のいい点で、「反省室」と訳されていたのがcachot、つまり独房や土牢であることがわかったほか、gamin(子供、英語のkidに相当)、surveillant(舎監)、internat(寄宿学校)などの語彙が少しばかり増えた。  

 この映画のハイライトとも言える演奏会で、伯爵夫人が隅でいじけているモランジュに気づく場面は、たぶんこんな会話になっていた。 
Comtess: Excusez-moi, quel est ce petit garcon qui s’nstalle à l’écart? C’est un puni? (失礼、あちらにいる少年はどうしたのですか? 罰ですか?) 
Mathieu: Celui-là? (その子ですか?) 
Comtess: Oui. (ええ。) 
Mathieu: Celui-là, c’est un cas à part. Permetez? (その子は、別扱いです。もうよろしいですか?) 
最後の部分は、字幕では「彼は別パートです」となっていたが、それでは彼が拗ねていた理由がわかりづらい。

 独身のマチュー先生は、モランジュの美しいシングル・マザーにひそかに惚れているが、モランジュは母親に複雑な思いをいだいており、あいにくこの恋は実らない。マチュー先生は振られて気落ちしたあとも、いい教師でありつづける。彼は放火事件を機に校長から不当に解雇され、一人寂しく学校を去るのだが、見送りを禁じられた少年たちがお別れの言葉を紙飛行機に書いて飛ばす場面は感動的だ。最年少のペピノーだけは先生の後を追いかけ、ともに学校を去ってゆく。その日は土曜日で、ペピノーにとっては、マチュー先生が待ちつづけた父親となったのだ。  

 ほろ苦い物語と美しい映像、そして心に残る音楽とくれば、この作品に夢中になる人が大勢いるのは無理ない。遊んでいる暇はないのだが、「天使」をつい描いてみたくなった。歌もいくつかは覚えてみよう。フランス語の勉強と称して。

ジャン=バティスト・モニエ 
左は2005年の公演のビデオから。右は映画のなかで伯爵夫人に目を留められるところ

2021年5月3日月曜日

シュロ

 頭の片隅では意識していても、はっきりと自覚して疑問を言葉にするまでには時間がかかるらしい。言葉にさえなれば、いまはほんの数秒あればインターネットで検索ができるので、それに関する情報はいくらでも手に入る。  

 少し前に散歩の途中、ふと見た光景がまるでタイの山のなかのようだったので写真に撮ったことがあった。常緑樹の下にはヤツデやアオキが繁茂し、まだ3月なかばだというのに林床はシダで覆われ、そして何よりも南国的な風情を醸しだしていたのは、あちこちから生えているヤシのようなものだった。  

 そう言えば、以前から近所の公園の、誰かが植えたとは思えない傾斜地でもよく見かけていたことを思いだし、ネット検索をして初めてこれが、シュロであることを認識した。小学校の校庭や、よく遊んだ公園にも植えられていたように思うが、あまり丈は高くなく、触ると痛いと思った記憶くらいしかない。  

 ひょっとして三浦半島は植生が違うのかと思って娘夫婦に聞いてみると、そういうわけではなく、ヒヨドリなどが実を散布して分布が拡大しているとのこと。学生時代に温暖化によってシュロが増えていると習ったと娘は言っていた。  

 シュロの実など見たこともなかったが、いったん意識しだすと、シュロはどこでも見つかる。ちょうどウニのような黄色い花が咲いており、萎びた実が残っている木もあった。雌雄異株で、花は5–6月ごろ咲くと通常は書かれているが、私が見たのは4月初旬だった。これも温暖化によるのだろうか。  

 国立科学博物館付属自然教育園の研究によると、シュロの実生は気温が4℃を下回ると育たないが、温暖化で土壌が凍結しなくなり、1990年ごろからどんどん増えているという。同園では1965年には2本しかなかったシュロが、40年間で2149本になり、約1万本の樹木の20%を占めるようになったのだそうだ。成木になると、マイナス12℃でも耐えられる。地球の平均気温が1℃くらい上がっても大したことなさそうに思えるが、実際には氷点下になるかならないかで、生態系には大きな変化が生じる。それで、私のように漫然と見ている者の目にもシュロが留まるようになった、というわけだ。  

 シュロにたいする私の関心がさらに高まったのは、道路に落ちていた茶色い物体をハシブトガラスがついばんでいる現場を見たためだった。怖いもの見たさで通り過ぎてから振り返って凝視すると、茶色い物体は何のことはなく、シュロの樹皮で、巣材を調達中のようだった。昔、ヤシマットのバスケットを庭に放置していたら、メジロなどがせっせと繊維を引き抜きにきて、ついに全部なくなったことを思いだした。  

 シュロは箒になるのではと思い、検索してみたら、案の定、皮を使って箒を自作している人が何人かいた。シュロは箒だけでなく園芸用の縄も編めるし、葉でハエ叩きや編み籠もつくれるし、平安時代に日本に伝わって以来、硬すぎず、重すぎない木の部分は、鐘を叩く撞木としていまでもよく使用されるのだそうだ!   

 梵鐘のある寺が減り、箒は掃除機に取って代わられ、網戸の普及や、個体数そのものの減少でハエ叩きを使う習慣もほぼなくなり、わずかばかり残っている都市近郊の緑地ではシュロが、利用する人もなく、間引かれることもなく、どんどん増えている。温暖化は否応なく進むので、茹でガエルの状況だが、身近にあるシュロの存在に気づいただけも、少しばかりの進歩かもしれない。  

 とりあえずできることとして私が思いついたのは、シュロの箒をつくって掃除機を使う頻度を少しでも減らすことだった。バンコクでよく見かけた、自転車に箒を山のように積んで売り歩くおじさんを久々に思いだした。あれは昨今流行りのSDGsに適う生き方だったのだ。 

 皮を木槌で叩くと書かれていたが、お試しで玩具のようなミニ箒をつくったので、髪を梳くように手で繊維をまっすぐにして、ヤマザクラの小枝に銅線で縛り付けたら、一応、箒らしきものが30分工作でできあがった。埃や消しゴムのかすなどはよく掃けるので、孫と娘にあげたが、あまり使われている気配はない。

 近所の神社の境内裏手、2021年5月撮影

 シュロの花、2021年4月撮影

 シュロの実