2015年3月31日火曜日

御殿山

 桜が咲くのを待って御殿山に行ってきた。などと書くと、首を傾げる人が多いかもしれない。御殿山と聞けば、たいがいの人は御殿山ヒルズを連想するのではなかろうか。最近は御殿山トラストシティという名称に変わったらしい。

「この公園は江戸の人びとが宴会を開く大行楽地だった。ピクニック・パーティの風習がこれほど盛大に行なわれる場所は、世界中で日本のほかにはないだろう」。ジョン・レディ・ブラックは『ヤング・ジャパン』のなかで、御殿山の花見について書いた『ジャパン・ヘラルド』紙(1862年7月12日・19日)の記事を詳しく引用して書いている。執筆者は誰だったのか、家康はここに御殿を構え、江戸に渋々やってくる諸藩の大名を出迎えてもてなしたが、三代の家光はもうその必要はないと判断して、江戸湾も東海道も品川の台場も見下ろせる軍事的にも要衝のこの地を引き払い、広大な跡地に桜を植えて江戸の住民の行楽地にしたといった説明が記事にはあった。「江戸近郊で御殿山ほど楽しい場所はない。行楽地はほかにもあるが、彼らには海の景色が必要だった――小高い場所――紺碧の海を縦横に進む白帆――心地よい木陰――遠くまで見渡せる景観……」とつづく。

「御殿山に建設される屋敷に外国人を住まわせるわけにはいかないと、熱心な攘夷派によって最初から決まっていたのだといまでは言われている。……『やつらはわれわれの愛する桜の木を切り倒したのだ。外国人の家を建てる場所をつくるために。だが、それは落成する前にひどく赤い花となるだろう』と、侍は言った」と、ブラックはのちに書いた。

 侍の言葉はもちろん、文久2年12月(1863年1月)に起きた英国公使館焼き討ち事件を予告したものだ。襲撃者は高杉晋作、久坂玄瑞、井上聞多、伊藤俊輔、品川弥二郎、松島剛蔵、赤根武人など10人ほどの長州の若者だ。「その後幾年かたって、最も確かな筋から、放火の犯人は主として攘夷党の長州人であったことを聞いた。少なくとも、その中の三人は、後に政府の高官になっている。それらは総理大臣伊藤伯と井上馨拍で、三人目はだれであったか思いだせない」と、この公使館の完成を心待ちにしていたアーネスト・サトウは書いている(『一外交官の見た明治維新』坂田精一訳より)。

 御殿山は幕末のこの時期にどれくらい桜の名所でありつづけたのだろうか。広重の「名所江戸百景」(1856-58年)には、品川沖に台場を築くために山の形が変わるほど削られてしまったため、もう一度描いたという「品川御殿やま」の浮世絵がある。手前に見える崖のような部分だろうか。ほぼ同年に製作された地図には「御殿山 櫻ノ名所ナリ」という文字とでこぼこの区画がある。愛用の人文社の古地図ライブラリーには当時と現在を合成した地図もあるが、品川駅の場所は海だったようだ。桜の便りを待って、品川一帯を歩いてみた。  

 まずは大木が鬱蒼と生い茂った一帯を、ぐるりと囲む高い石垣沿いに延々と歩いた。入口にたどり着くと、「三菱 開東閣」とあり、立入禁止だった。あとで調べてみたら、奇しくも伊藤博文邸だった地所を三菱2代目の岩崎弥之助が買い取ったもので、なかにジョサイア・コンドル設計の豪邸があるらしい。GHQに一時接収されていたが、現在は三菱グループの賓客接遇施設だとか。

そこから原美術館へと回ると、ちらほら桜の木が見えてきた。御殿山通りにはちょっとした桜並木があってきれいに整備されている。その横には御殿山トラストシティの一角として池や人口の滝まで備えた日本庭園があり、この高級住宅街の住民の憩いの場となっていた。英国公使館があったとされる一帯は、御殿山を切り裂くかたちで山手線や新幹線が通っていることもあって見る影もない。「われわれの愛する桜」は、外国公使館の建設だけでなく、軍備と開発であらかた切り倒され、残された一等地にそうした行為で財を成した当人たちが住み込んで庶民を締めだしてきたということか。

釈然としない思いで、駅の北側にある東禅寺まで歩いた。仮住まいしていたイギリス公使館が、水戸の浪人とその警備に当たっていたはずの兵に二度も襲撃された現場である。 

追伸:4月18日から東京都美術館で始まる「大英博物館展――100のモノが語る世界の歴史」の公式カタログが出来あがりました。今回の展覧会にやってくる新たなモノたちの来歴を含め、A4変形版で写真も格段に大きくなりました。カバーが一新された筑摩選書の『100のモノが語る世界の歴史』(全3巻)と合わせて、ぜひ展覧会前にご一読下さい!

 広重の品川御殿やま

品川御殿山のイギリス公使館設計図 (東京大学史料編集所所蔵)

 御殿山通り

開東閣の石垣