2014年9月29日月曜日

信州旅行2014年

 このところ翻訳していた都市探検の本に、冷戦中、イギリスのウィルトシャー州に建設され、放置されていた巨大な地下都市に潜入する話があり、仕事が一段落したのを機に、その日本版とも言うべき松代地下壕に行ってみた。長野市松代町は母が子供のころ数年間住んだ町でもあり、母を誘って一緒に行った。  

 周囲を低山に囲まれた千曲川沿いの小さな町である松代は、長野電鉄屋代線が2011年に廃止されてしまったため、いまではバスで行くしかない。それでも、旧藩主の真田氏にあやかって六文銭の紋が方々に飾られ、古い町並みはよく保存され、歩いて回るのによい観光地だ。幕末に開国論を唱えつづけた佐久間象山も松代藩の人だった。門下生の吉田松陰の密航事件に連座して、長らく松代で蟄居させられたのち、1864年に幕命で京都に移り、西洋鞍にまたがっていた折に、皮肉にも松蔭の門下生ら尊王攘夷派に暗殺された。佐久間家はお取り潰しになり、生家は古井戸が残るばかりだ。昭和初期になって彼を祭神とする象山神社が隣に建てられた。戦後その社務所を借りて開かれていたバイオリン教室に小さい弟たちが通っていたため、母はよく自転車で送り迎えをしたそうだ。  

 象山は1849年に蘭書をもとに電信機を自作し、当時住んでいた伊勢町の御使者屋と60mほど離れた鐘楼とのあいだに電線を架けて、日本初の電信実験を行なった。母が松代に住んだのはそのちょうど100年後で、しかも御使者屋の真向かいの家だった! 鐘は青銅製だったろうに、戦争中に供出されてしまい、当時は鐘楼を見ても古ぼけた小屋があるくらいにしか思わなかったらしい。  

 佐久間象山の名前は松代にある象山恵明禅寺に因むというが、この象山に太平洋戦争末期に、「松代大本営」の名で知られる巨大な地下壕が突貫工事で建設された。ただし、象山には政府機関とNHK、中央電話局が入る予定で、近くの皆神山、舞鶴山にそれぞれ天皇御座所、大本営が入り、3つの地下壕を合わせると全長は10kmにおよぶ計画だった。終戦直前に75%が完成していたが、証拠書類はすべて焼き捨てられ、長らく放置されていた。1985年になって篠ノ井旭高校生がこの地下壕を調査し、90年からようやく一般公開されるようになった。現在、見学できるのは碁盤目状に掘削された象山内の地下壕の内、約500mの区間だけだが、ヘルメットをかぶり、ボランティアガイドの説明を聞きながらトンネルのなかを随分歩いた気がした。トンネルの横幅は4mで、その内3mに各機関の事務室をつくり、残りの1mを廊下にする計画だったそうだ。  

 最盛期には1万人が工事に従事したが、戦争末期の男手不足の時期で、そのうち6000人は朝鮮人だったと考えられている。強制的に動員されたかどうかをめぐって、看板の文字がテープで修整されて話題になったので、ご記憶の方も多いだろう。工事は硬い岩盤をダイナマイトで崩し、岩屑をトロッコや人力で運びだすしかなく、作業は過酷だったという。母は戦後に松代に引っ越したこともあり、地下壕のことは何も知らなかったらしいが、祖父の病院に象山付近の飯場を指す「イ地区」の患者がきたことは覚えていた。伯母によれば、長野市内の病院にいたころ、負傷者が担ぎ込まれることがあって、祖父は戦後に地下壕工事との関連に気づいていたようだ。それにしても、住民が大勢立ち退きまでさせられながら、戦後何十年間も、高校生が調査するまで、こんな怪しい大事業について詮索されず、沈黙が守り通されたというのは、驚くべきことだ。  

 旅行前は時間がなく、ろくに下調べもせずにでかけたのだが、帰ってから少しばかり調べてみた。大本営移転というのは、本土決戦になって国土が焦土と化し、国民が死に絶えても、国体、つまり天皇を中心とした政体は護持すべしという発想によるものだ。この国体論は「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と主張した吉田松陰から始まるらしい。松代が選ばれた理由は、海岸線から遠く、岩盤も地元民の口も堅いうえに、信州は神州にも通じ、皆神山まであるということだった。ところが、皆神山は溶岩ドームで崩れ易く、結局、倉庫にしかならなかったうえに、1965年代から起きた松代群発地震ではこの山が震源地となった。地元民はその形状から、親しみを込めてケツ(なり)山と呼んでいるというから笑える。昭和天皇ご自身は移転計画を画策する陸軍に不審をいだきつづけ、戦後、長野を訪れて「戦争中、この辺りにムダな穴を掘っていたというが、それはどこですか」と、長野知事に尋ねられたそうだ。  

 大本営移転を発案して進言し、松代の地を選んだのは、陸軍士官学校を卒業して間もない、陸軍省軍事課の井田正孝という少佐だった。1935年ごろから平泉澄の青々塾に入門し、大政翼賛会常任総務の井田磐楠の養嗣子になっている。日本の降伏を阻止しようとした宮城事件の首謀者の一人でもあり、8月15日未明の阿南惟幾の自決の場にも居合わせた。戦後は在日米軍司令部戦史課でウィロビー少将のもとに勤務し、電通に入社し、総務部長および関連会社の電通映画社の常務を務め、2004年に91歳で死去している。東大教授の平泉澄は軍人教育に深くかかわった皇国史観のイデオローグで、戦後も全国で講演活動をつづけ、著書『物語日本史』(講談社学術文庫)は、ロングセラーになっている。  

 前線に送られた人の大半は餓死するか無謀な戦闘で若い命を落とし、軍の幹部の多くは自殺するか刑死したが、背後で暗躍した人間は戦後も巧みに生き延びたのだ。歴史とは、切り離された過去ではないことを実感した旅だった。旅のきっかけとなったブラッドリー・ギャレットの都市探検の本は、『「立入り禁止」をゆく』という題名で青土社から近々出版される。

 象山生家跡地

 象山神社社務所

 松代藩鐘楼

 松代地下壕

 皆神山