2022年7月1日金曜日

「アラビヤ馬フレッデリー」

 日頃よくフェイスブックのタイムラインで馬関連の動画を見ているせいか、ここ数日、フランスのマントンで毎年開かれているアラブ種の馬の品評会らしきものの動画が立てつづけに流れてきて、つい何本も見てしまった。炎天下でもうもうと土煙を立てながら疾走する見事なアラブ馬を、引き綱一本で巧みに操り、汚れるだろうにスーツ姿で数分間一緒になって走り回る調馬師が同じくらい見事なのだ。  

 アラブ馬がツヤツヤとした肌をしていることや、サラブレッドほど体高がないことは以前から知っていたが、何度か見るうちに、どの馬も尾を異様なほどに立てて走っていることに気づいた。普段見る競馬馬の画像ではまず見ない形態だ。少し調べてみると、確かに尾を高く上げることはアラブ馬の特徴らしく、それとともに鼻面が凹にカーブしてほっそりしていることも特徴のようだった。ちょっとタツノオトシゴに似た顔だ。  

 ふと思いついて、私がアラブ馬に関心をもつきっかけとなった160年近く前の「アラビヤ馬フレッデリー」のイラストを確認してみた。私の高祖父が馬術を習ったと言われるイギリス公使館付騎馬護衛隊隊長アプリンが、アロー戦争に従軍後におそらく大連から長崎経由で日本に連れてきた馬だ。アプリン大尉の絵はチャールズ・ワーグマンが『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』でも、戯画として『ジャパン・パンチ』にもかなりの点数で描いている。拙著で使わせてもらった2点ではいずれも、馬は並足で進んでいるのでさすがに尾は上に立てるほどではないが、確かにサラブレッドのようにただ垂れてはおらず、後方に突きだしていた。鼻面も隣のずんぐりした在来馬に比べると、ほっそりとくびれている。どうやら、画家は彼の馬をアラブ種らしく描き分けていたようだ。 

『ジャパン・パンチ』を見直してみると、以前から気になっていた1枚でアプリンが乗っている馬は、明らかにアラブ馬ではなく、日本の在来馬だ。やたら多めの前髪に、シマウマのように逆立ったたてがみ。日本では人間があまり手を加えずに馬を育ててきたため、在来馬には野生のウマ本来の特徴がいくらか残っており、逆立ち気味のたてがみはその1つだった。ワーグマンは単なる体高の差だけでなく、こうした特徴もしっかり捉えて戯画に表わしていた。 

 アプリンが日本の馬に跨っているこのイラストは、1865年10月号に掲載されていた。ひょっとしてこの馬が、上田藩が1年間彼の手元に預けたという仙台馬の飛雲だったりしないだろうかと、想像してみたくなる絵だ。この年の5月には、第二次長州征討で飛馬も藩主松平忠礼を乗せて大坂に向かったと思われるので、飛雲が引き取られてしまったあと、アプリンがどこかで入手した日本の馬だった可能性もあるし、ワーグマンがただ遊び心で乗り馬を変えてみたのかもしれない。でも、もしかしたら、飛雲に乗って横浜周辺で、妙なスタイルの狩りをしていた可能性もあるのではないか。 

 ついでながら、徳川慶喜がナポレオン・ハットをかぶって馬に跨がる古写真が残っている。この馬はその特徴からして、ナポレオン3世から寄贈されたアラブ種ではなく、在来馬の可能性が高そうだ。実際、1867年に二十数頭の馬が到着したころ慶喜は大坂にいて、馬を見ていないとウィキペディアの「ナポレオン三世の馬」の項目に書かれている。騎乗姿の古写真は大坂で撮影されたという説も見受けられる。 

 そうだとすると、つい気になるのが、慶喜の背後にある幔幕だ。拙著の表紙に使わせていただいた松平忠礼と飛雲、および私の高祖父が写る写真の背後にも、よく似た幔幕がある。しかも、私は諸々の理由から、この写真が通常言われるように戊辰戦争時ではなく、第二次長州征討時の撮影ではないかと推察している。幕末の上田藩の写真の多くはアンブロタイプだが、この写真と、同時期の撮影と思われる鼓笛隊の写真は鶏卵紙だった。そう考えると、大坂に進軍してそのまま手持ち無沙汰のあいだに、大阪城で写真撮影をしていた可能性もなきにしもあらずだ。 

 FBで見た動画に誘われて、ついまたこんな寄り道をしてしまった。すでにもう7月。月末まで脇目も振らずねじり鉢巻で頑張らねば。

追記:じつはこれを書くに当たって漠然と、種子島の絶滅したウシウマのことを思いだしていたのだが、それによく似た古代中国の馬の像をどこで見たか思いだせず、その部分を削除して投稿した矢先に、甘粛省博物館が発売した「ブサ可愛い」ぬいぐるみなるものの記事を見たら、まさにそのモデルとなった後漢の馬踏飛燕の写真がでてきた。いまよくよく見ると、この後漢の馬は尾に毛のないアラブ種の馬と言ってもいい姿形で、ウシウマともどことなく似ている。つまり、アラブ馬が後漢時代に中国に渡り、それが秀吉の朝鮮出兵とともに日本に渡ってきたという推測だ。調べてみたら、以前にその彫像について書いていた(苦笑)。
 

1867年7月『萬國新聞紙』に掲載された広告。私が祖先の調査を始めてすぐに見つけた史料の1つだった

ワーグマンは『ジャパン・パンチ』のなかでSpurs(拍車)と偽名で呼んでおり、彼の馬はFreddyとしている

1865年10月号の『ジャパン・パンチ』より