2009年2月27日金曜日

ネット中毒

 10年ほど前、失業していたころ、マレーシアからの一行を成田で迎える仕事を臨時で引き受けたことがある。それをいまだに覚えているのは、都内に向かうバスのなかで、隣に座ったグループリーダーが印象深い話をしてくれたからだ。自宅には電話がないんだ、とその人は言った。用があれば会社に連絡してくれれば充分だし、家にいるときは家族との生活を大切にしたいから、電話で邪魔されたくない、と言うのだ。ちょうどインターネットや携帯電話が普及し始め、新しい情報機器が生活空間や人間関係をどう変えるのか、といった議論が盛んになっていたころでもあり、時代の波にたいするこのマレーシア人のささやかな抵抗が、私の耳にはとても新鮮に聞こえた。  

 それからしばらくして、『インターネット中毒』(キンバリー・S・ヤング著、毎日新聞社)という本を部分的に下訳する仕事をもらった。ネット中毒になる人の多くは、ゲームとチャットにはまっていることをこの本を通じて知った私は、それだけは手をだすまいと決めていた。もう十数年間、コンピューターの前に座る仕事をしているわりに、なんとか中毒にならずにすんでいるのは、早い時期にこの本に出合ったおかげかもしれない。  

 ところが、そんな私の生活にもここ一ヵ月のあいだにちょっとした変化が現われた。原因はインターネット電話のスカイプ。スカイプの電話機能はもう何年も前から重宝して使っているが、タイの友人の一人がチャットで頻繁に連絡してくるようになったのだ。そうなると、私がネットに接続しているときは、いつでもお構いなしに呼びだしがかかる。画面に突然、着信サイン(音声は消しているので、幸い聞こえない)が現われると、仕事を中断して即座に返事をしなければならない。 

 ネットに接続している時間が娯楽のひとときである人にとっては、楽しい機能に違いない。だが、あいにく私の場合、コンピューターに向かっている時間の9割は仕事中だ。しかも、文章を書いているときは、頭のなかで何度も読み返しているので、音楽もかけずに集中しないと能率が上がらない。たいていは予定がずれ込んで、追われるように仕事をしているので、たびたび中断させられるのは辛いものがある。まるで裏口からしょっちゅう隣のおばさんが上がり込んできて、おしゃべりをしていくような気分だ。  

 それにしても、この20年あまりの情報通信の変化には本当に驚かされる。郵便ポストに手紙が届くのを楽しみに待っていた時代から、テレックスやファックスでのやりとりに代わり、やがてeメールに安くなった国際電話、チャットと、それこそ目を見張るような変化だ。カメラ付きのパソコンなら、スカイプでテレビ電話もできる。その場にいないはずの人が電波に乗って忽然とお茶の間に姿を現わし、こちらの様子を知ってしまうのだから、これはもう『1984年』や映画「赤ちゃんよ永遠に」の世界だ。 

 私はとりわけ通信機器の発達に助けられているほうだが、便利な機能を使うときにも、相手の状況や性格を考え、適度な距離を保つ必要があるようだ。メールをすぐに返せなくても、一ヵ月に一度とか、年に数回とかの頻度で音信がつづく交友関係が、結局のところ私にとっては居心地がいい。それなら、郵便の手紙でやりとりしても変わらないか、と思うとなんだか笑える。まあ、切手を貼って、投函して、という作業がないことだけは確かにありがたい。