2005年4月30日土曜日

反日デモ

 さわやかな季節になったので、アウトドアの楽しい話題でも書ければよいのだけれど、やはりこのところずっと心に引っかかっていたことを書こうと思う。中国や韓国の反日デモのことだ。じつは何を隠そう、私はまだどちらの国も行ったことがない。中国人にも韓国人にも親しい友人がいないので、私が知っている両国のことは、書物、報道、映画やテレビを通じて知った間接的な知識と、旅行会社にいたころ出会った人たちのことくらいしかない。あのころ、韓国人の団体客はよくホテルのロビーの床に座りこんでいたし、一緒に「カンペイ」した黒龍江省からの訪問団はまだ人民服を着ていた。 

 ここ20年ほどのあいだに、どちらの国も様変わりしたようだ。アメリカやイギリスの大学は、中国人、韓国人をはじめ、アジアの留学生でいっぱいらしい。韓国ドラマにもよくアメリカ帰りの颯爽としたヒーローが登場する。その一方で、かならずと言っていいほど貧乏な人が描かれているのは興味深い。どん底から這いあがって成功する話が、国民の心に強く訴えるということは、韓国がまだまだ成長している社会である証拠だ。いまの日本の若者には、努力して何がなんでも成功しようとする気迫は、あまり感じられない。 

 しかし、国が急成長をとげているときは、かならずその歪がでてくる。貧富の差が拡大し、社会不安が増して、エネルギー需要も急増するなど、韓国も中国も戸惑うほどの問題に直面しているのだろう。これまでさまざまなかたちで踏みにじられてきた人たちの長年の不満が、一気に爆発することもある。今回の一連の事件は、そうしたストレスのはけ口として、国民共通の宿敵とも言える日本が選ばれた結果だったのだったという気がする。日本がかつて大東亜共栄圏なるものを掲げて、侵略戦争に乗りだしたのも、もとは急激な経済成長の結果、狭い島国だけではとても存続できないという危機感からだった。国が急成長しているときは、かつての日本と同様に、どんなばかげた行為にでるかわからない。韓国や中国だけでなく、近隣諸国がみな厄介な時期に達しつつあることを考えれば、その感情を逆なでするような言動は、絶対に慎むべきだ。 

 中国や韓国は、確かにエネルギーや領土問題だけでなく、経済活動のいろいろな面で、戦後の日本が享受してきた地位を脅かしはじめているかもしれない。でも、考えてみれば、現在の日本の豊かさは、その陰で安い工賃で働き、自転車をこいでいる中国人によって支えられているのかもしれない。彼らもいずれは車に乗り、ガソリンを消費するようになるだろう。そういう変化は、ある意味で避けられないのであって、しかも地球の資源は無限にはないのだから、おたがい妥協せざるをえないのだと私は思う。 

 私は反日とか、嫌中といった考え方そのものが好きになれない。どの国にも、善人もいれば悪人もいる。戦争中だって、日本人のすべてが中国人や韓国人に残虐行為をはたらいたわけではないし、相手から見れば悪魔のように見えた日本兵だって、その多くは善良な市民で、国の存続を賭けて戦っていると信じ込んでいたのだ。ちょうどいま、愛国無罪と叫びながら日本の領事館に投石する中国の若者のように。もちろん、反日デモに加わった数万人の中国人や中国政府の言動から、13億の中国人すべての心中を推し量ることもできない。敗戦後、一様に犯罪者扱いされた日本兵の鬱積した心理が、その子孫を靖国参拝のような意固地とも思える行為に駆り立てているのだろう。 

 自分たちの生活を守ろう、権利を主張しようとする気持ちは誰でももっている。地球の資源には限りがあるのに、すでにそれを手に入れた人は、決してそれを他人と分かち合おうとはしない。人口が急増し、国力が増してくれば不満は高まり、ナショナリズムの大義名分を立てて武力行使にでる。人間はそういった衝突を繰り返してきたのだ。おたがいにもっと相手を理解し、言い分を認め、既得の権利を分かち合う気持ちをもたないかぎり、人間は愚かな戦争を繰り返すことになる。たとえいまある物質的な豊かさが減っても、その分、心が豊かになれば、それでいいじゃないか、と私は思うのだが。