2023年9月29日金曜日

またもや先祖探し

木曜日の朝、仕事を放りだして新木場まで行ってきた。 神田小川町で材木問屋の娘として生まれの曾祖母については、コウモリ通信でも何度か書いたことがあるが、このタケさんの異母兄のご子孫が見つかったのだ。しかも、いまも型枠資材の卸売りを中心とした木材関連の会社を経営しているという!   

 神田小川町は、私の学生時代はスキー用具や登山用品の量販店がひしめく一帯だったが、江戸時代には小栗忠順などの旗本屋敷や譜代大名の屋敷が立ち並んでいた。上田藩も昌平橋の手前の、現在はかんだやぶそばがある辺りに150年近くにわたって上屋敷をもっていた。少し歩けば日本橋川にも神田川にも出られる立地とはいえ、こんな街中で材木問屋が営めたのかと長らく疑問に思っていたが、4年ほど前、タケさんの父である大宮萬吉が、1875年に深川熊井町から神田に転居したことが判明して、謎が一つ解けていた。

 1862年の本所深川絵図から、熊井町は大横川が隅田川に注ぐ河口にあって、すぐ前に佃島が見える合流点の町であることもわかった。材木問屋にはうってつけの場所だ。コロナ禍で電車に乗るのもためらわれた2020年の秋、本郷弓町や谷中墓地を訪ねた日に、この一帯から両国の先までも歩いたことがある。  

 タケさんの調査はその後、あまり進んでいなかったが、母の納骨時に、大宮さんの子孫が新木場で大一木材という会社を経営しているらしいという貴重な情報を親戚から頂戴し、7月下旬のふと空いた時間に、アポも取らずにその会社を訪ねてみた。多忙な若い社長さんは当然ながらご不在だったので、経緯がわかる簡単な手紙と遠い親戚であることがわかる書類コピー、何枚かの写真のコピー、および拙著『埋もれた歴史』をお預けして帰ってきた。  

 その後、私もあれこれ多忙ですっかり忘れていたところに、大宮さんから嬉しいお電話が入った。青年実業家として野心的に事業を展開されていることは会社のHPから拝察していたが、お電話の声はとても誠実そうで、気さくな印象だった。ちょうど大部の校正も始まっており、気持ちの余裕はないに等しかったが、9月前半不調つづきだった体調は戻っていたので、この機を逃してはと思い、お会いしてきたしだいだ。 

 大一木材の代表取締役である大宮匡統さんは、正確には祖父に当たる精一さん(徳太郎さん長男)が興した会社を継いだ父上が、早くに亡くなられたために、若干24歳で家業を継がれたのだそうだ。精一さんの祖父に当たる萬吉さん(私の高祖父、1848年生)は、深川の材木屋に丁稚奉公にきて、暖簾分けしてもらったことが今回初めてわかった。除籍謄本から、萬吉さんが「尾張國海東郡勝幡村」の大宮弥兵衞次男であることはすでに判明していた。江戸の材木の最大の供給地であった木曽川に近いこの出身地を考えると、父親の弥兵衛さんも材木屋で、萬吉さんは次男坊のために江戸に出されたのだろうかと、匡統さんと推理してみた。小川町に移ったのは27歳ごろなので、十代で江戸に出てきたのではなかろうか。応接室で暖簾分けしてもらったという家紋を見せていただき、帰宅後に、私の祖父母のアルバムにあった萬吉さんの写真と推定されるものをパソコンで拡大してみたら、紋付の紋が同じであるようだった。 大宮家には萬吉さんの写真は残っていないようだった。

 どういう経緯か、4枚の古写真が祖父母のアルバムに残っていたのは、関東大震災の被害に遭った地域であることを考えれば、奇跡だったに違いない。そのうち2枚は、小川町、神田交友会などと書かれた花輪が写る葬儀の写真で、そのなかの遺影と、残る1枚の少し若いころの萬吉さんと後妻の志げさん(タケさん母)らしき写真を見比べた結果、白髭のおじいさんは萬吉さんだろうと私が結論づけたものだった。今回、家紋でも確認できたことで、萬吉さんと確定できたと思う。 

 画期的だったのは、大宮さんのご親戚の何人かがまだ深川に在住しておられるのがわかったことだ。神田小川町に住居を移したのちも、萬吉さんの実際の事業所は熊井町に残っていたのかもしれない。もしくは、徳太郎さんか精一さんの代で、大宮家の最初の拠点である深川に再び戻っていた可能性もある。除籍謄本では、1928年に志げさんの死亡時の住所は中野になっており、その届出を萬吉さんが出していた。 タケさんの嫁ぎ先である門倉の家も、関東大震災で焼けだされたあと、中野に移っている。このあたりの事情は、お父上が早くに他界されたこともあって匡統さんはご存じなかったが、伯父さまがまだご健在とのことなので、機会があればお会いしたいとお願いしてきた。何しろ、門倉の親戚にも大宮家にも、正体不明の岸さんに関する話が伝わっており、私は最近になって娘の高校時代のノートから、亡叔母がその人を「野方の岸さん」と呼んでいた事実を発見というか、再発見していたのだ。下町で焼けだされた祖先たちは、この人を頼って一時的に中野に移り住んだのではないかと、当面、私は推測している。  

 ほんの30分ほどお邪魔するつもりが、つい長々と話し込んでお仕事の邪魔をしてしまったのに、帰り際には会社の前で玄孫同士の記念撮影にまで気前よく応じてくださり、ファミリー・ヒストリアンである私としては、本当に大収穫の一日となった。突然現われた、わけのわからない遠縁のおばさんに、親身に対応してくださった匡統さんには本当に感謝している。 

 会社の倉庫から見つかったという昭和17年刊行の『木場』という東京木材問屋同業組合の貴重な資料もお貸しいただき、帰宅後、ざっと目を通してみたが、第15班まである組合員の集合写真に、精一さんは見当たらなかった。精一さんは昭和16年に、木材統制により一度廃業して、2年ほど満州に渡っていたので、おそらくちょうどその時期に発行されたものなのだろう。それでも、当時の木場の状況がわかる写真が満載された資料であり、「慶長から明治維新まで」と題された吉田正氏の論考などはとても面白かった。なにしろ、「小名木川筋南側は大川から算へて松平三河、松平右京、立花主膳、秋元但馬、松平丹羽、松平伊賀の屋敷が並び」と書かれていたのだ。松平伊賀は上田藩主であり、この扇橋の抱屋敷に馬場を築いて、私の別の高祖父の門倉伝次郎を「主任として汎く西洋馬術を練習せしめ」ていたことを、『上田郷友会月報』から知っていたからだ。伝次郎の息子とタケさんがいったいどこで知り合ったのか興味はつきない。 

 この9月は、仕事の合間に数カ月かけて整理して編集し、印刷にかけた母のアルバムも、ちょうどお彼岸に出来上がってきた。古いパソコンにしか入っていないInDesignを2年ぶりに立ち上げて制作したものだ。よし、完成だと思ってから入稿規程を読み、写真の保存の仕方を間違えていたことに気づいたときは、放りだしたくなった。小さい写真を拡大するには解像度が足りないこともわかったが、スキャンし直す元気はなかったので、貴重な休日をつぶして数百枚の写真を保存し直し、置換した。 

 表紙の背景には、唯一残っていたまともなアルバムの実際の表紙と裏表紙を活用した。よく見れば切り張りした跡もわかるが、ちょうど意図したように刷り上がって嬉しい。母のお宮参りの写真から小学校入学までは、以前に作成した祖父母のアルバムに収録したので、今回は小学校以降から最晩年までの写真を入れた。基本的には母に育ててもらった私たち娘から、ひ孫たちにまで配るつもりで、あとはごく一部の親戚などに渡そうかと。あとから読み返したら、最後に入れ替えた箇所の誤字・脱字がいくつも見つかったし、未整理写真もまだまだ大量にあるが、記憶の整理はついた気がする。

 りんかい線に乗って新木場へ

かつての熊井町付近から佃島を望む(2020年10月撮影)

 高祖父の大宮萬吉
 
 タケさん異母兄の大宮徳太郎さん

大一木材の事務所前で玄孫同士のツーショット

 今回制作した母のアルバム