2014年11月29日土曜日

『「立入禁止」をゆく』

 日ごろ私は運動不足解消を兼ねて近所を歩き回り、10キロ圏内くらいはどこでも自転車ででかけてゆく。往復とも同じ道を通ることはまずなく、途中で小道を見つければ入り込み、高台にでれば方向を確かめ、景観を眺めている。自分の住む街を、いわばテリトリーを探検し、そこで起こっているさまざまな変化を心に留めているのだ。そんな私だから、以前は通れた小道に、いつの間にか金網のフェンスが張り巡らされ、マンションの私有地につき立入禁止などという看板が立つと、腹立たしくなる。広大な土地を一部の人が買い占めた、という人間社会上の都合ゆえに、これまでそのなかを自由に突っ切ることのできたその他大勢の人の通行権どころか、ときには小動物の権利すらなんら考慮されなくなり、迂回を余儀なくされるからだ。  

 そんな私の性格を知ってか、翻訳仲間の桃井緑美子さんからのご紹介でいただいた仕事が、先月、青土社から『「立入禁止」をゆく』というタイトルで無事に刊行された。大まかに言えば、都市探検(urban exploration)の本なのだが、著者のブラッドリー・ギャレットは自分たちの活動をplace hacking、敢えて訳せば現場侵入と定義している。このキーワードで検索いただくと、驚くような場所への潜入写真がたくさんでてくるだろう。私は翻訳者にしては活動的だろうし、決められたことを従順に守る優等生であった試しもないが、著者が逮捕される場面から始まるこの作品には、正直言って、これを出版しても大丈夫なのかと少々心配になった。ギャレット博士は民族誌学の研究の一環として、みずから探検に加わるオックスフォード大の研究者なのだが。  

 一冊の本を訳すには、少なくとも数カ月間は著者に成り代わって、その主張を読者に訴えなければならない。著者の言うことがあまりにも深遠過ぎて理解できない場合も苦しいが、その主張に共感できないときはもっと辛いかもしれない。理解しがたい行動をとる人が主人公の小説を読んでいるみたいに、本書でもしばらく違和感がつづいた。建設途中のザ・シャードのてっぺんから、寒空のもとにロンドンの夜景を見下ろすなんて、私にはとんでもなく危険で愚かな行為にしか思えなかったし、下水道の探検など、アンジェイ・ワイダ監督の『地下水道』のような切羽詰まった状況であっても堪え難い。封鎖された入口を見つけだし、監視カメラをくぐり抜けながら深夜に地下鉄の廃駅に入り込むのも、全駅制覇するためにそこまでやるのかと、つい思ってしまう。都市探検という言葉ですら、日本ではあまり耳にしない。夜な夜なこんな活動をするほど日本人は元気ではないのか、危険なことには首を突っ込まないのか、善良な市民として禁じられたことはやらないのか、理由はよくわからない。かろうじて廃墟の探検だけはいくらか馴染みがあったので、本書に登場する若者たちの心情を少しでも理解しようと、根岸競馬場跡や松代大本営跡に行ってみた。  

 だが、日本では廃墟はそそくさと解体されるか、改修補強工事が施されて観光地と化してしまう。端島(軍艦島)なども、その典型例だろう。すでにツアーが何本も定期的に運行されていて、料金比較や口コミ情報までネットにあふれているので、ハイダイナミックレンジ合成された写真(HDR)の撮影場所としても手軽になり、単に長崎観光の一スポットとして上陸証拠写真を自慢するだけの場所になりつつあるようだ。つまるところ、あらゆることが経済活動となって消費の対象となり、娯楽産業や旅行産業によって提供されたスペクタクル、つまり見世物を、計画どおりに、期待されたとおりに、安全を保障されたかたちで楽しんで終わってしまうのだ。ひたすら稼いで、ひたすら消費するだけの人生に、彼ら都市探検家たちは、プレイス・ハッカーたちは疑問を抱いている。そして、危険に身をさらすスリルに生きていることを実感し、たがいに命を預け合うことで仲間と強く結びつく。  

 訳し進めるうちにいつの間にか、こうした若者を駆り立てる衝動やその背後にある日常の不満が理解できるようになり、そうなると、翻訳作業も順調に進むようになった。今回は久々に「僕」主語を使い、仲間同士の会話は許せる程度にくだけた調子で臨場感を重視するようにしてみた。見るだけで手が汗ばむような多数の写真とともに、楽しんでいただけたらうれしい。  

 もう一つ宣伝を。「100のモノが語る世界の歴史、大英博物館展」が来年4月から6月に東京都美術館で開催されます。『100のモノが語る世界の歴史』(筑摩書房)で取りあげた100点すべてがくるわけではありませんが、それに代わる品々も同じくらい好奇心をそそられるモノです。拙訳書もぜひお読みください! 

『「立入禁止」をゆく』 ブラッドリー・L・ギャレット著、    東郷えりか訳(青土社)

 『「立入禁止」をゆく』より