2022年2月27日日曜日

平和主義について

 昨年から取り組んできた翻訳の仕事で、何度となく考えさせられてきた問題が平和主義だった。自分のなかで考えがまとまらないうちに、ロシアがウクライナに侵攻するという事態で世界が揺り動かされ、この暴挙にでたプーチン大統領にたいする非難の嵐と、ウクライナを支持するために青と黄色の国旗を掲げる人びとの反応を見ながら、なるほど、こうやって戦争に突入するのかと事態を注視している。

 戦争となるとすぐに軍事力の話になる。ウクライナとロシアの軍事力の差を検証し、ウクライナの軍備が不足していたと主張する人も多い。いまなお核抑止力に言及する人すらいる。しかし、実際にはどんな戦争でも、勝つためには国際社会から賛同を得られる大義が必要不可欠だ。先に手をだした側は間違いなく分が悪く、今回ロシア側の「偽旗作戦」は功を奏したとは言えない。  

 プーチンほどの人物であれば、過去の戦争の諸々の事例を熟知しているだろうに、なぜ敢えてこのような行動にでたのだろう。長年権力の座に就いてきたプーチンが、ついに頭がおかしくなったのか。それとも、ロシアにしてみれば「生存圏」を脅かされる事態がつづいてきて堪忍袋の尾が切れたのか。ロシア兵として攻撃に参加している大勢の人びとは、命令され、脅迫されて仕方なくやっているのか、それともロシア国民の大多数はプーチンの行動に共感するものがあるのか。危機を煽りつづけ、対話をやめ、プーチン一人を悪者にしてきた欧米側の対応には問題がなかったのか。  

 こうした疑問が私の脳裏にいくつも浮かぶのは、太平洋戦争中の、やはり狂気の沙汰としか思えない日本軍の行動と、それを一斉に非難した国際世論や、いまなお当時の日本軍の行動を正当化したがる一定数の日本人がいる事実と比べてしまうからだ。経済制裁で石油が輸入できなくなって開戦に踏み切った当時の日本の事情に類似する、ロシアでは意味をなす何らかの大義や正義があったのではないのか。地理的にも時代的にも遠く離れたところから眺めれば、ただの狂人にしか思えないヒトラーやスターリン、東條英機、あるいはサダム・フセインやウサーマ・ビン・ラーディン、カダフィなどのうち、何人が本当に狂人だったのか。本当に狂人だったとすれば、なぜいまだにその信奉者がいるのか、こうした問題は私のなかで長年解決がつかない。  

 祖国の存亡の危機に直面し、次の瞬間にもGPSで誘導されたミサイルのわずかな誤差で命を奪われるかもしれず、生き延びても住み慣れた街を破壊され、生活の糧をすべて奪われるかもしれないという事態に直面したとき、どういう行動をとるのが賢明なのか。民間人であれば、逃げる、つまり疎開するのが関の山で、それすら移動できる余裕のある人に限られる。大量のウクライナ人が国外へ脱出し、この事態が長期化すれば、周辺国では新たな移民・難民問題となるだろう。  

 祖国の危機には武器をもって反撃せよという、血気盛んな声も聞こえ、ウクライナに援軍を、と主張する人もいる。幸い、そうすれば第三次世界大戦を引き起こしうることを熟知している欧米社会からは、そうした声はまだ大きくない。しかし、「ウクライナ軍が勇敢に反撃」とか、湾岸戦争のころのようにそそくさと派兵しないアメリカを「弱腰」などと書く人も見受けられる。  

 私が翻訳の仕事のなかではたと考えさせられたのは、実際にはウクライナ情勢とはまるで無関係の、『バガヴァッド・ギーター』で描かれるアルジュナとクリシュナ神に関する短い言及だった。多大な犠牲者がでることを予期して反戦を唱えるアルジュナを、どんな壮絶な結果になろうと正義の戦争なのだから戦う義務があるとクリシュナ神が説得したというものだ。アルジュナは、説得されてしまったとはいえ、初代反戦論者、平和主義者だったのか、などと思い、何年か前にバリへ旅行した際に娘が土産に購入したワヤン・クリのミニチュア版が、偶然にもアルジュナだったらしいことを発見して、年末に写真を撮らせてもらっていた。  

 ヒンドゥーのこの聖典そのものはまだ読んだことがなく、アメリカのアラモゴードで最初の核実験を成功させたロバート・オッペンハイマーが、その情景を見て「われは死となり、世界の破壊者となった」と『バガヴァッド・ギーダー』から引用したという逸話について知っている程度でしかない(『未来から見た私たちの痕跡』では、この逸話は作り話とされていた)。いつか、きちんと読んでから書こうと思っていたが、そんな時間がもてるようになる前に世の中が様変わりしかねない、と思ってこの駄文を書いている。  

 じつは、アルジュナとクリシュナに関するこの説明を読んだとき、私の頭に真っ先に浮かんだのは、ペリー来航時に、通商を始める前提で和議を主張する幕閣や応接掛に、「奮発の様子毫髪もこれ無く」などと憤慨し、けしかけつづけた徳川斉昭のことだった。  

 このとき平和主義を貫いた幕府の対応が、決して単なる弱腰でも、その場凌ぎでもなく、少なくともアヘン戦争の発端をつくった清朝の対応の誤りや、おそらくわずか1日の戦いで、その後200年にわたるインドの植民地化を招いたプラッシーの戦いについても熟考し、通商によって生き残るすべも検討したうえでの判断だったに違いないことがわかってくるにつれて、憲法9条の萌芽はここにあったのでは、とすら思うようになっていた。ペリー来航時の幕府の対応は、軍事力ではどうあがいても太刀打ちできない大国からの脅威を前に、礼儀を尽くして正論を主張し、軟着陸できる妥協点を探ったものだったのだ。  

 段抜き見出しの新聞が配達されてくるたびに、ネットニュースでウクライナ情勢が次々と報じられ、SNSでウクライナへの同情を表わす投稿が増え、反ロシア感情が高まるのを見るたびに、私たち外野がこれをウクライナかロシアか、という国同士の対立にしてはいけない、と強く思う。こうした事態を招いた遠因が、ウクライナ・ナショナリズムの高まりであると知れば、なおさらだ。両国の関係は、日本と中国、あるいは韓国、北朝鮮との関係以上に複雑であり、国境線を引いてきれいに分かれるものでもない。どちらの国にも対立を煽る好戦的な人間はいるけれど、どちらの国でも圧倒的多数は平和な暮らしがつづくことを望んでいるはずだ。外野は平和主義に徹し、ロシア国内の反戦の声を拡大させ、プーチンの支持基盤を崩すことに徹するべきと思う。平和主義の問題は、いずれまた別の角度から、もう少し冷静な頭で考えてみたい。

ちょうど6年前にバリへ旅行したきに、娘が偶然買っていたワヤン・クリのミニチュア版。アルジュナ、と思う。

2022年2月20日日曜日

 車偏の漢字は、私が長らく興味をもってきたものの一つだが、これまで「輦」の字の意味をきちんと調べたことはなかった。訓読みは、てぐるま、音読みは、れん、という。字を見てのとおりに、複数の人間が引く車を指す言葉だというが、のちに輿と混同され、川を人足が担いで渡る際のお神輿のような乗り物も「輦台」と呼ばれるようになった。  

 正月明けに切羽詰まって仕事をしていたとき、ふとヤフオクで古い雛道具が安く出品されているのが目に留まり、以前から小さな御所車を欲しいと思っていたので、ほかに入札者のいなかった極小のものを手に入れてしまった。掌に乗るようなミニチュアで、屋形と呼ばれる本体は紙でできており、しかもその部分が箱のように、パカッと外すことのできる楽しい作りのものだ。その昔、娘が小さかったころ、古語辞典の口絵だけを頼りにフィルムの蓋を車輪代わりにして、御簾まで竹ヒゴで編んで牛車をつくってやったことがある。ところが、出品されていた何点もの御所車をしげしげと眺めた結果、私がいくつも勘違いをしていたことが発見された。  

 乗降用の階段付きのタイプもあって、いずれも御所車の後部にそれがあるので、乗り降りは後ろからしており、通常、前後に開口部があった。屋形部分は軽く丈夫にするために、竹を格子状に編んだり、網代張りにしたりしていたようだ。大半の駕籠もそうした造りで、まさしく人の乗れる「籠」だったわけだ。  

 雛道具や着物のデザインに描かれる御所車は、総じて轅(ながえ)と軛(くびき)が置き台の上に載せられていて、牛はいないことが多い。本当に牛車だったのか、というのが私の長年の疑問だったが、その答えが「輦」にあったようだ。日本では畜力がほとんど使われず人力頼みだったことを以前に何度か書いたが、元祖人力車に限りなく近いものが、この輦なのだ。日本には去勢の習慣がなかったので、牛の制御が難しく、人も一緒に、もしくは牛なしの人力だけで引っ張る必要があったのだろう。  

 御所車に関心があったのは、以前からの車輪の歴史への関心に加えて、英照皇太后の葬儀で使われた乗り物が確かに牛車であったのを知ったためだった。当時の雑誌に掲載されたイラストでは、牛の絵の上に描かれた乗り物に「御輦」と書かれており、大喪時の写真や説明から、牛4頭と人が一緒になって引っ張ったことがわかった。皇太后の大喪では人が担ぐ御輿も使われており、輦を使う習慣がなかった東京では青山御所から青山停車場まで輿が、京都では停車場から大宮御所、そこから御陵墓まで輦が使われ、その間は汽車が使われた。青山を明治30(1897)年2月2日午後2時ちょうどに出発し、京都には翌朝8時35分に着く通過駅ごとの詳細な時刻表が掲載されていた。  

 このイラストを掲載した東洋堂発行の雑誌『風俗画報』の第135号、臨時増刊「御大喪圖會」の裏表紙には、発行者からのこんな広告がある。「苟くも帝國民たる者は。必ず一本を求め。机右に置て以て涙襟の紀念とせられむことを」。当時、輦なる乗り物を実際に見たことがあった国民はごくわずかだったと思うが、それが雛道具の一つとして後年盛んにつくられたのは、職人たちがこぞってこの雑誌の「一本を求め」たからかもしれない。英照皇太后は、おすべらかしに着物を着て御殿に住んでいた最後のお雛様のような人だったからだ。

 嘉永元(1848)年12月15日、英照皇太后が女御として入内した日にも「輦車を聴す」と『孝明天皇紀』は書き、「次引出御車、於中門外懸牛」などの文字も見られる。「懸牛(かけうし)」は、牛車を引く牛のことだ。「九条家記」からの引用であるこの長い一節は、私にはおおよそしか理解できないが、「次御車さしよせ[差に車](檳榔)於寝殿階、殿上人二人附御轅、諸司二分八人引之」などともあるので、二手に分かれて8人で牛と一緒に引いたのかもしれない。

 檳榔の文字が気になり、調べてみると、驚いたことに檳榔毛車(びろうのけぐるま)と呼ばれる乗り物のことだった。しかもこれは、檳榔子(areca nut)のできるビンロウではなく、同じヤシ科でも四国南部から南西諸島にかけて自生するビロウ(別名:蒲葵、アジマサ、クバ)の葉を細く裂いて並べた、雨覆いのように垂らした代物のことらしく、現代人の感覚からすると南の島の小屋にしか見えない飾りだった。  

 私が買ったミニチュア御所車のように、唐破風の屋根のついたものは、最も大型で最上級の「唐車」と呼ばれるものらしい。それに檳榔毛が取りつけられることもあったが、女御が入内するときに乗る檳榔毛車は、もう少し小ぶりの、物見のための窓のないタイプのようだ。一方、大喪のときに使われた輦は、車輪の直径1.8m、車軸からの車高が約2.3m、屋形の横幅が1.4mほどの大型のものだった。孝明天皇が崩御した際に牛車を製造した70歳過ぎの大工がまだ健在で、その人に造らせたと『風俗画報』第136号にある。  

 大喪時に発行された雑誌類は、だいぶ前に入手したきり、まだざっと目を通しただけだが、不可解な点は多々ある。大喪使長官は有栖川威仁親王だった。兄の熾仁親王とは葉山の御用邸となる場所を提供してもらうなど、交流があったようだ。斎主は廷臣八十八卿列参事件で中心的な役割をはたしたと主張する、当時82歳という高齢の久我建通で、両名の写真は雑誌『太陽』第3巻第4号では口絵のそれぞれ1ページを使って大写しになっていた。ところが、英照皇太后の実家である九条家当主で、同じ雑誌に「皇太后宮には内実御弟にて表面は甥御に当たらせらる」と書く九条道孝は、ようやく事務官の一人に名を連ねるだけで、写真は一枚も掲載されていない。下の弟たちである松園尚嘉、鷹司煕通、二条基弘、および甥の九条道実という近親者は8人の斎官の半数を占めていたと思われるが、それすら記述は一定しない。『風俗画報』135号には、「皇太后陛下の御乳母 たりし故菅山女官の生家たる京都加茂の南大路綱一郎氏」に関する記述もあった。菅山は「御乳母」だったのか。  

 英照皇太后の父は、右大臣も左大臣も務め、その後、公家の頂点である関白にまで登り詰めて、幕府とともに開国に向けて尽力していた矢先に、廷臣八十八卿列参事件で槍玉に挙げられた九条尚忠だ。関白は平安前期からあった職なのに、雛壇に関白はいないなあ、高位の公家であるはずの右大臣・左大臣が弓矢をもって下のほうに位置しているのも変だなあ、と思って調べてみたら、雛人形のこの名称は通称であり、本当は「随身」、つまり護衛なのだそうだ。  

 ヤフオクでは御所車のほかにも、壊れかけた古い雛道具をいくつか入手した。うちのお雛様にはなかった挟箱や長持をはじめ、「樹上の鶴」(コウノトリ!)が描かれた箪笥などを、日本の伝統工芸である蒔絵に孫が触れる機会にもなるのでは、という口実で自分を納得させ、購入したのだが、孫は少しばかり触っただけでとくに興味を示さなかったので、ざっと修理をしてしばらくは私が本棚に置いて楽しむことにした。  

 一方、ネット上でサイズがよくわからず、入手してみたら雛道具にしてはいやに大きかったお膳のセットのほうは、孫が大いに気に入り、あちこちで拾い集めた木の実や葉っぱ、種、BB弾などを上手に盛り付けて、盛んにぬいぐるみや人形たちの宴会を催している。漆塗りのままごとセットで遊んだ体験は、美意識や色彩感覚に何かしら影響を与えそうだ。 

《追記》
  この記事を公開したのち、図書館にリクエストしてあった京樂真帆子著の『牛車で行こう! 平安貴族と乗り物文化』(吉川弘文館)が回送されてきて、ざっと読んでみたら、檳榔に関する16世紀初頭の『浅浮抄』からのこんな一節が引用されていた。「ビロウヲホソクワリタレバ。イトノヤウニホソク。シロクウツクシクミユルナリ。(中略)ビロウヲホソクサキワルニハ。シヲゝ水ニ入テヨクニレバツヨクテ。雨ニモツヨク。日ニモヨクタユルナリ」。つまり、塩茹でして繊維だけを抽出したようなのだ。ところが、南国でしか栽培できないビロウは近衛家の島津荘の特産であり、時代が下がるとともに入手困難になりスゲで代用されたとのこと。画像検索で見た時代祭の「檳榔毛車」らしきものの写真では、繊維というよりは枯葉に見えたので、塩で煮ていなかったに違いない。

『風俗画報』臨時増刊、第135号、「御大喪圖會」と小さな唐車

その昔つくった御所車。前後が同様に「夕顔形」に開いていることを理解していなかった。

ようやく少しばかり目を通した明治30年刊の諸雑誌・刊行物

 樹上の鶴を見て、つい買ってしまった箪笥

 雛道具で孫が催す大宴会

「シロクウツクシクミユル」檳榔毛という描写からの連想で、シルクリボンを解いてみた。このような繊維を一定の間隔で留めていたんだろうと想像している。

2022年2月17日木曜日

『世界を変えた12の時計』

 昨年から時間や時計についてあれこれ考えるきっかけとなった拙訳書の見本が届いた。デイヴィッド・ルーニーの『世界を変えた12の時計:時間と人間の1万年史』(河出書房新社、David Rooney, About Time: A History of Civilization in Twelve Clocks)という本で、ご覧のとおり邦訳版は素敵なカバーになった。  

 私自身は時計マニアとはほど遠いタイプで、何年か前に電波時計に買い換えるまでは、私の腕時計はいつも数分単位で狂っていた。そんな私が最初に時間と時計に興味をもったのは大英博物館の『100のモノが語る世界の歴史』(N・マクレガー著、筑摩書房)でマリンクロノメーターの歴史に関する章を訳してからだった。小学生のころ、アーサー・ランサム全集にはまっていたので、クロノメーターが船に関係した時計であることは漠然と知っていたが、それによって人類がようやく経度が正確に割りだせるようになったことは、『100のモノ』を訳すまでまるで理解していなかった。  

 ちなみに、アーサー・ランサムの第1巻『ツバメ号とアマゾン号』の6章冒頭にはこんな一文がある。 
「ジョンが時計を見にひっこんだ。ジョンが船長になった今は、時計はクロノメーターとよばれている」
(原文:John disappeared to look at his watch, which was now called a chronometer because John was the master of a ship.)  

 神宮輝男・岩田欣三両氏の訳はとても好きだったが、いま読み返してみると、この箇所はいただけない。原書の初版が1930年という時代背景からも、のちにジョンがその時計をポケットに押し込んでいることからも、これは明らかに懐中時計だし、この箇所はクロノメーターの初出なので訳注がないのは不親切だ。小学生の私の頭では理解できなかったわけだ。一方、当時のイギリス人は子供でも、大英帝国の形成に大きく寄与したクロノメーターの何たるかは熟知していたに違いない。 

『100のモノ』の校正の合間にイギリスに旅行したときは、グリニッジ天文台を訪れて丘の上から蛇行するテムズ川を眺め、本初子午線をまたぎ、ゲートのところの大きな時計も見たが、報時球なるものを見たかどうかは記憶が曖昧だった。それでも、帆船の形の風見とともに、奇妙な赤い物体を見たおぼろげな記憶はあり、旅行時に撮った写真を探してみたら、カティサーク号の背景に見える天文台の上に確かに写っていた。

 まだ無線通信が普及しておらず、正確な時刻を知ることが自船位置の経度を正確に知るために必須であった時代に、報時球は主要な港に錨泊中の船から見える小高い場所に設置されており、1日に1回正確な時刻を告げていた。日本では1903年になって横浜と神戸に、その後ほかにも何箇所か設置されていことを知り、明治後期になってもまだそんなことをやっていたのかと、かなり意外に思った。横浜では、幕末にフランス波止場と呼ばれていた東波止場に設置されていたことなどが『神奈川県港務部要覧』からわかり、あれこれ検索するうちに、eBayで古い絵はがきが手頃な値段で出品されているのを見つけ、この仕事の記念と自分に言い訳して、つい購入してしまった。

 日本では明治4(1871)年9月9日から、皇居内旧本丸で正午を知らせる空砲が鳴らされていたことはよく知られる。これは改暦(明治6年1月1日)以前のことだが、「昼十二字大砲一発づゝ毎日時合法執行致し」てはいかがと兵部省から提案を受けて始まったのだという。では、それ以前はどうだったかと言うと、アーネスト・サトウが『一外交官の見た明治維新』で述べたように、「日本の時間は2週間ごとに長さが変わったので、日の出と正午、日の入り、真夜中を除けば、1日の時刻について確かに知ることは非常に困難だった」。不定時法でも昼九ツと夜九ツは季節にかかわらず、定時法の正午と深夜の零時と同じはずなので、庶民にとって午砲の「ドン」は定時法への移行を意味していたわけではなかったのだろう。  

 午砲に使われていた24ポンドカノン砲は小金井の江戸東京たてもの園に移設されており、佐久間象山の青銅砲について調べた折に見に行ったことがある。この大砲は品川台場にあったものを転用したとどこかで読み、佐賀藩が大量に鋳造した一門だろうかと調べたこともあった。 

『世界を変えた12の時計』では、こうした帝国主義時代の歴史が多くを占めるが、実際にはもっと古代や中世にもさかのぼって人類がどのように時を管理するようになり、それが権力とどう結びつき、人びとがどうそれに抵抗してきたかという根源的なテーマを追究したものだ。  

 なかには『不思議の国のアリス』の一節も登場する。じつは児童文学のこの名作を、私は娘に買ってやった仕掛け絵本でしか読んだことがない。ページをめくるとトランプが盛大に飛びだし、つまみを動かすとチェシャ猫がにんまり笑う楽しい絵本ではあったが、この作品については表面的に理解したに過ぎない。小学校の図書室から原作を借りてきて、夢中になって読んだ娘は、図工の時間に置き時計工作をした際に、白ウサギの懐中時計に見立てたデザインを上手に浮き彫りしていた。この時計はいまも動いていて、娘宅で使われている。引用箇所の翻訳に当たっては、既訳をいくつかネットで探したが、著者ルーニーがここで言わんとしていたことを正確に伝える訳が見当たらなかったので、新たに訳出した。いつか原作をちゃんと読んでおこう。  

 ルーニーのこの本は、現代のクロノメーターのようなGPSを動かす原子時計についてもかなりのページを割いている。GPSを私が最初に知ったのは、まだ旅行会社に勤務していたころに世界道路協会の会議が横浜で開かれ、関連の視察で当時まだ開発途上だったカーナビのお披露目を見たときのことだった。その前年の湾岸戦争で使われて話題になったものだったが、見通しのきく砂漠とは違い、市街地で使うには、精度の高い地図と組み合わせられなければ意味がないのだという説明を受けた記憶がある。いまでは軍事用のGPS受信機の精度は恐ろしいほど上がっているそうだが、人工衛星に搭載されて地球のはるか上空を回る原子時計に依存するGPSそのものは、決して堅固な技術ではない。意図的な妨害や、誤った情報にも振り回されるものであることは、昨年9月のアメリカ軍によるドローン攻撃による誤爆からも明らかだ。  

 コウモリ通信でたびたび触れてきた世界各地の時計台の代表格とも言える、ロンドンのビッグ・ベンの鐘は、2017年8月以来沈黙してきたが、今春には大規模修復工事が終わり、15分ごとに鳴り始めると、先日、報道されていた。ウェストミンスター・クオーターズ、ケンブリッジ・チャイムなどと呼ばれる大英帝国の象徴のようなこの旋律は、全国の小学校で私たちが聞いて育ち、懐かしくすら思う、いわゆるキンコンカンコンだ。あれがイギリス由来だったとは。

 この本は、まるで湯水や空気のように、当たり前の存在になりつつある時間とは何か、時計とは何か、改めて考えさせられる一冊だと思う。ちょっと逆説的だが、私はこの仕事以来、江戸時代までの不定時法に興味をもち、前述したように、日の出観察をつづけている。書店で見かけたら、ぜひお手に取ってみてほしい。

『世界を変えた12の時計:時間と人間の1万年史』デイヴィッド・ルーニー著、河出書房新社

 カティサーク号内で見たクロノメーター
 2012年5月撮影

 横浜にあった報時球

 グリニッジ天文台の報時球、2012年5月撮影
 左側はカティサーク号

 午砲に使われた青銅砲
 江戸東京たてもの園にて、2013年6月撮影

 娘が小学生のころ図工でつくった時計

冬至からの私の「日の出観察」。ほぼ二十四節気ごとに撮影。
新聞にでる横浜の日の出・日の入り時間で、エクセルで初めてグラフも作成してみた!

2022年2月8日火曜日

公共の福祉か、公益か

 元来、私はごくごく実際的で現実的な人間なので、難しい概念を突き詰めて考えるのは得意ではない。性格によるものが多分にあるのだろうが、日本語では抽象概念を表わす言葉がことごとく漢語か、明治以降の不自然な造語か、カタカナ語であることも、その一因ではないだろうか。そのため哲学的な問題は英語で読み、英語で考えているときのほうがわかりやすい。自分が和訳したものをしばらく放置してから読み返す「漬物期間」を経ると、意味がすっと理解できず、もう一度、原文を読み返すこともしばしばある。  

 おそらく翻訳者の多くには、日本語で表現しづらくて訳しにくい言葉があり、それに遭遇するたびに悩まされているのだろう。今回の仕事では久々に苦手な言葉だけの単語帳をつくり、類語をどう使い分けるかを含めて、頭のなかを整理しながら作業を進めた。著者が同じ言葉を使うたびに、訳語を再検討しなければならないので、やたら手間がかかるが重要なことだ。そのなかでもとくに「公共の福祉」に関連する言葉を取りあげたい。ご承知のように憲法改正問題にも絡むので、優先順位は高いと思う。

 だいぶ以前に自民党案を見たときに、私が何よりも疑問に思ったのが12条や13条のこの書き換えだった。「公共の福祉」では意味が「わからん」として、「公益及び公の秩序」だか「公益および公共の秩序」に変えたいと、昨年の自民党の総裁選でも高市早苗氏が述べたことで新たに話題にもなった。  

 藪から棒に「公の秩序」を追加することへの疑問はさておき、当初、私が漠然といだいた違和感は、公共と公はかならずしも同義ではない、というものだった。公共の意味を取り違える人は少ないと思うが、「公」を「官」と混同している人は非常に多い。公益法人の名を冠した怪しげな団体が存在することも、「公益」という言葉に、本来はなかった意味を付加している。この数カ月間にいくつかの本で、この問題に関連する何種類かの言葉に遭遇したため、さすがの私でも改めて考えざるをえなくなった。  

 ところで、「公共の福祉」という概念が、戦後制定された日本国憲法で初めてもち込まれたものではない、ということはどれだけ認識されているのだろうか。通常これはpublic welfareに相当すると考えられている。ウィキペディアの「日本国憲法第12条」の項などにまとめられているものを参照すると、日本側が提出した憲法改正要綱および改正草案では「公共の福祉」と書かれ、かたやGHQ案ではthe common good(「共同ノ福祉」と訳されていた)だったが、最終的な憲法には日本側が当初提案した表現が採用されたようだ。つまり、少なくとも、それを盛り込もうとする意思がすでに日本側にもあったのだ。 日本国憲法のGHQ案では、ほかにも第13条と第22条1項(general welfare/一般ノ福祉)、第29条2項(public good/公共ノ利益)と使い分けられていたが、最終的にすべて「公共の福祉」に統一されたのだそうだ。  

 これらは基本的に社会契約論で発達した概念なので、日本に最初に紹介したのは中江兆民と思われる。この記事を書くためにざっと検索した限りで、確かではないが、『民約論巻之二』のなかで、ルソーが「le bien commun」としたものを、中江は「公共ノ利」と訳したようだ(岡田清鷹著、「『民約訳解』再考──中江兆民と読者世界」、Core Ethics Vol. 6, 2010)。  

 フランス語のle bien communは英語ではthe common goodに相当し、そのままずばり「共通善」と訳されることが多いようだ。ウィキの「Common good」の項には、この言葉がcommonwealth、general welfare、public benefitなどとも言い換えられ、古くはアリストテレスやトマス・アキナスにさかのぼり、アダム・スミスやマルクス、ジョン・スチュアート・ミル、ケインズ、ジョン・ロールズなどによって追究されてきたことが書かれている。グーグル翻訳で調べてみると、common goodは中国語では共同利益、public welfareは公益とでてきた。  

 ここで気になるのがwelfareの意味だ。この単語には福祉という訳語が定着しているが、改めて調べてみると「祉」は神の恵みを表わし、この言葉には本来、「幸福」に限りなく近い意味しかなく、「福祉」という言葉で多くの現代人が想像しがちな社会の弱者への施しを意味するわけではない。「福祉の世話にはならない」という風潮は、アメリカでとくに強いと思うが、日本にも少なからずある。  

 この言葉にそっくりのwell-beingのほうは訳語が定まらず、最近はよく「ウェルビーング」とカナ書きされているのを見る。このwell-beingは「幸福」も「安寧」などと訳されるのが定番だが、今回の仕事では取り敢えず「よい状態」と直訳し、カタカナのルビを振って処理してみた。もう少し考えてみよう。  

 グーグル翻訳で調べた限りだが、フランス語とスペイン語、中国では、welfareとwell-beingに相当する言葉は使い分けられていない模様で、それぞれbien-être(仏)、bienestar(西)、福利(中)と同じ語がでてきた。ドイツ語はWohlfahrt、Wohlbefinden、日本語は福祉、幸福、と別の言葉で自動翻訳された。  

 これらの訳語だけでも充分に悩ましいのだが、別のところでpublic goodsという言葉に遭遇して、悩みがさらに深まった。「共通善」のcommon good と同義の public good(定冠詞または無冠詞)とは、語尾にsがつく、あるいは前に不定冠詞のaがつくだけの違いしかないが、可算名詞になると経済用語になり、定訳は「公共財」だという。経済学で考えるには、物として捉え、計算できる必要があるということか。

「よい、善」という意味のはずのgoodにsやaがつくだけで「物」や「財」に変わって「グッズ」になってしまう英語の摩訶不思議な特性は、フランス語とスペイン語にも見られ、やはりただ複数形にするか不定冠詞をつけてun bien pubulic/biens publics(仏)、un bien público/bienes públicos(西)とするだけで、経済用語になるようだ。ウィキのページを読むと、common goodsという表現もあってpublic goodsとは微妙な違いがあり、おそらく前者が準公共財で後者が純粋公共財ではないかと思うのだが、ほぼ同義語と見てよさそうだ。このあたりになると、commonとpublicの違いを突き詰めなければならず、学者によって言うこともまちまちで、そこまで深入りする気持ちの余裕がいまのところない。  

 ところが、この「公共財」とは治安、国防、公衆衛生、水資源、水産物、はては知識や空気までも含まれるという。それをはたして「財」と呼べるのかにも悩み、「便益」という言葉をナカグロで補ってみた。

 ともあれ、経済用語としてのこの言葉が、社会契約論や憲法で言う「公共の福祉」とまるで無関係であるはずはない。分野ごとに研究者が専門用語を勝手につくるので、別物に見えるだけで、本来は共通する意味があるはずだ。つまり「共通善」も「公共の福祉」も「公共財」も、本来ほぼ同一の言葉であるべきだったのが、それに当てはまるよい日本語がないため、「よくわからん」状態になっているのだ。  

 憲法でこの言葉に該当する条項に共通するのは、個人の自由は保障するものの、それが社会全体のgoodなりgoodsなりに反しない限りである、という条件だ。英語ではこんなシンプルな言葉なので、英語の話者の頭にはすんなり入ってくる概念であるに違いない。中江兆民が「公共ノ利」ではなく、「皆の衆のためになること」とでも訳して、「みなため」と略語にして流行らせてくれていれば、違ったのだろうか。日本では個人の自由に関することも誤解されやすく、すぐ「滅私奉公」となりがちなので、この点も理解を深める必要がある。  

 福祉という言葉に妙なニュアンスがこびりついてしまった現在、憲法の言葉の意味が不明確になっているのは確かだ。とはいえ、「公共の福祉」の表現一つを変えるにしても、関連する諸々の分野の専門家が議論を尽くすことなく、国会のような場で強引かつ拙速に多数決で決めては、その余波は多方面におよび、後悔することになるだろう。

2022年2月2日水曜日

宣伝

 いくつかまとめて宣伝させてください。

◉東郷まどか ピアノリサイタル〜大作曲家の若き日々〜  2022年3月19日(土)19:00開演(18:00開場)  
戸塚区民文化センターさくらプラザ・ホール  J. S. バッハ:イギリス組曲 第2番 イ短調 BWV807  ショパン:ピアノ協奏曲 第2番 へ短調 Op. 21(ピアノと弦楽カルテット版)  バルトーク:ピアノ五重奏曲  全席自由 一般3,000円 学生2,000円  私の姉がまた戸塚でピアノリサイタルを開きます。室内楽が中心のようなプログラムなので、お楽しみいただけると思います。共演する大谷宗子さんは姉の船橋高校時代のピアノトリオ仲間、山田実紀子さんはママ友と、長いお付き合いの方々です。チラシは今回も娘のなりさがつくりました。 概要はこちら。 姉のインタビュー記事がこちらにあります。

◉「忠厚伝」合情記 YouTubeは こちら  
 明治維新後にアメリカに渡った上田の松平忠礼・忠厚兄弟のドラマです。制作に当たって拙著『埋もれた歴史』を参考にしていただいたそうで、私の高祖父もドラマのなかに少しばかり登場します(笑)。
  松平忠厚に関しては、飯沼信子さんの『黄金のくさび』(郷土出版社、1996年)という伝記があり、ニューヨークのブルックリン橋の測量に携わったという説がそこから広まりましたが、この有名な橋の歴史を調べてみると、36歳で他界してしまった忠厚の遺族が信じ込んでいた逸話に過ぎなかった可能性が高いことがわかりました。上伊那郡出身の渡邊嘉一がエディンバラの有名なフォース鉄道橋の建設にかかわっているので、ちょっと残念ではありますが。それでも測量機器を発明して『ニューヨーク・タイムズ』や『サイエンティフィック・アメリカン』に大々的に取り上げられ、アメリカ人と結婚した最初の日本人となった忠厚の生涯は、充分に注目に値するものです。脚本を書かれたみなとかおるさんは、その点を含め、拙著の主張を多く取り入れてくださいました。みなとさんは俳優の三輪和音さんとともに、ほかにも「日本史別天地」というシリーズで「小三郎」、「忠固伝」、「忠優伝」を製作し、公開しておられます。


忠厚の孫娘のハルさんが1992年に来日した際の新聞記事。2019年に上田に調査旅行に行った際に、上田藩士のご子孫の方に見せていただいた。ハルさんは2002年に亡くなっている。

『サイエンティフィック・アメリカン』の説明を頼りに、忠厚が発明した測量機器trigonometerを何年か前につくってみたもの






◉『グランマ・ゲイトウッドのロングトレイル』 ベン・モンゴメリー著、浜本マヤ訳、山と渓谷社、2021年11月刊行  
1955年に67歳でテントどころか寝袋すらもたずに全長3500キロほどのアパラチアン・トレイルを歩き通したエマおばあちゃんの伝記で、私の大学時代の友人で、2018年に単身渡米してジョン・ミュア・トレイルをやはりスルーハイクした浜本マヤさんが、企画をヤマケイにもち込み、初めての挑戦にもかかわらず、翻訳をやり遂げた作品です。全編を原書と突き合わせてチェックするお手伝いを私がしました。
 
『飛べないハトを見つけた日から』 クリス・ダレーシー作、相良倫子訳、東郷なりさ絵、徳間書店、2021年11月刊行 娘のなりさが、挿絵・表紙画を担当しました。
 2020年に娘がつくった絵本『さくらがさくと』(福音館書店)は、以前にも書いたようにオーストラリアの出版社が英語版をだしてくれ、この2月からはアメリカでも発売されることになりました。それを機に、レビューアーの方が娘にメールでインタビューをして、こんな紹介記事を書いてくれました! 

 先日、私の誕生日に娘からはコウモリの絵を、孫からは神奈中バスの絵をプレゼントしてもらいました。よりよってブログを開設してすぐに、コウモリは世界中の悪者になったような感がありましたが、牧人舎のエッセイを「コウモリ通信」にしたのは、端的に言えばアイデンティティの問題でした。100回目のエッセイ記念にも、娘がコウモリを描いてくれ、それを描き直してくれたのがこのブログのヘッダーの絵です。新しいコウモリの絵はプロフィールのところにあります。

2022年2月1日火曜日

日本最初の時計台

 昨年末から、忘れないうちに書いておきたいと思いつつ、仕事が終わらず、書きかけになっていたことがある。今月下旬に、河出書房新社から刊行される『世界を変えた12の時計:時間と人間の1万年史』(デイヴィッド・ルーニー著)の訳者あとがきを書いた際に、ブログの「ブリジェンス設計の町会所」で書いたことを念のためにと思って調べ直したら、次々に疑問が湧いてきたのだ。  

 昨年、日本最古の時計台が札幌市か豊岡市出石町のものかで競われ、結局わずか27日差で札幌に軍配が上がったというニュースが流れていた。どちらも1881(明治14)年のことだった。しかし、現存する時計台としては最古だとしても、札幌の時計台が日本で最初の時計台だったわけではない。  

 では、本邦初の時計台はどこに建てられたのか。初期の時計台について書いているほぼすべての情報源は、近衛兵第1、第2歩兵竹橋陣営の時計台を、明治4年竣工の第一号時計台としている。その根拠としているのが、平野光雄氏が1958年に書いた『明治・東京時計塔記』の次のような記述だった。 

「近衛歩兵隊営所の大時計は、明治年間、東京において建設された時計塔中、もっとも古く、またその生命も一等長かったものである」 
「営所正門を入り、ただちに眼前に横たわる明治四年に竣工した兵舎[……]の屋上中央に、巨大な円筒型の洋風時計塔が屹立していた」
 「時計塔機器は、明治四年に据えつけられたもののごとく、あるとき徒弟を鐘塔に上らせてみると、直径一尺六寸ほどの鐘の下部円周に刻まれた一連の欧文中に、一八七一年の年号が入っていたそうである」

 しかし、竹橋陣営の竣工年を明治7年とする資料もかなり見受けられる。実際はどうだったのか。少し調べてみると、この建物を設計したウォートルスこと、トマス・J・ウォーターズに関する丸山雅子氏の研究が『ファインスチール』という日本鉄鋼連盟の定期刊行物に掲載されていた(2017年春号・夏号)。そこに、竹橋陣営の「建設に必要になった大量の煉瓦は、ウォートルスの指導の下、東京の小菅で焼かれた」と書かれていたのだ。ウォートルスがそれ以前に設計し、明治4年に竣工した辰の口の分析所の煉瓦はおそらく上海から運ばれてきたことも、丸山氏の論考に書かれていた。竹橋陣営は規模が大きいので、輸入に頼るわけにはいかなかったのだろう。

 ところが、いまの東京拘置所がある場所に建てられていたという、その小菅のレンガ製造に関する葛飾区の公式ページを覗いてみると、この工場は明治5年2月末の銀座大火を受けて銀座を煉瓦街に改造するために建設されたものだという。工場ができたからと言って、すぐに順調にレンガが生産されるわけでもないし、竹橋陣営の規模からすれば、明治7 (1874) 年竣工説のほうが正しそうだ。こちらは『近衛歩兵第一聯隊歴史』に明治7年2月10日に連隊が竹橋陣営に移転した旨が書かれていた(国会図書館デジタルコレクション)。ただし、時計台に関する言及はない。  

 ブリジェンス設計の町会所は明治7年4月竣工で、見つけた限りで最も古い記録は、『横浜沿革誌』(太田久好著、1892年)だった。明治7年4月の項の3番目に「同月、町会所(当時市会所)時計台竣功[ママ]し、鐘及機械装置鐘声を試験す」とあるので、4月上旬と推測できるかもしれない(デジコレ有り)。当時は、アルフレッド・ジェラールも横浜でレンガの製造を始める前で、以前にも書いたように、ブリジェンスは町会所も木骨石張りで設計したようだ。日本橋の駅逓寮庁舎に時計が設置されたのが同年4月30日なので、町会所のほうが数日前に竣工したと考えられるだろう。あいにく横浜開港資料館がまとめた『横浜町会所日記 横浜町名主小野兵助の記録』も明治3年1月から4年12月までの期間しかなく、開港資料館で当時の新聞もざっと探してみたが、この時期の史料は驚くほど少ない。ある意味でいちばんの変動期、混乱期だったのかもしれない。  

 早期に建てられた時計台として、平野氏が挙げていた横浜高島町遊郭、岩亀楼のものは、前述したように明治6年ではなく、8年ごろの可能性が高い。突如として改暦になり、定時法になったのが、明治6年1月1日なのだ。この時計台は町会所のものとデザインもそっくりで、町会所のものを真似た、もしくはブリジェンスが頼まれて似たデザインで設計した、と考えるべきではないだろうか。平野氏は『時計亦楽』に、古いヨーロッパ製置時計のような形の町会所の鐘塔は明治期には珍しく、のちに陸軍士官学校や第一高等学校でこれに似た時計台がつくられたと書いている。  

 もう一つ早期に建てられたものとして、工部大学校の時計というのがある。この建物に関しては泉田英雄氏がたいへん詳しく研究しておられるのだが、時計台そのものに関する記述はわずかで、泉田氏の他の論文を含め、いくつかの論考やウィキペディアの工部大学校の項を突き合わせてみると、どうも細部に食い違いがあるような気がしてならない。泉田氏のウェブサイトによれば、時計台のある建物は当初、小学校校舎と呼ばれ、「1872[明治4]年暮れにほぼ完成」していたはずで、「時計塔は当初から設計にあったが、グラスゴーから送られてきた時計が破損していたため、あらためて注文し直し、取り付けが半年遅れた」という。そうだとすれば、1873[明治5]年中にはこの時計台が存在していたことになる。  

 だが、時計台のある小学校の建物は手狭過ぎてのちに博物館に転用されており、泉田氏の別の論文「工部大学校創設再考」によれば、工部省工学寮工学校(のちに工部大学校と改称)の校長となったヘンリー・ダイアーが日本に到着した時期には、この「建物の煉瓦壁が数フィートの高さまでしか立ち上がっておらず、翌年3月の完成までの間、近隣の屋敷で授業しなければならなかった」はずなのだ。ダイアーは1873年4月にイギリスのサウサンプトンを出港しており、8月に授業を始めている。「翌年3月」は明治7年3月であり、仮に時計の取り付けが半年遅れていれば、ウィキペディアが典拠を示さずに書くように、「1875年になって取り付けられた」可能性すらでてくる。平野氏は、この時計台の建物に使われたレンガがイギリス製で、明治6年12月に竣工という『明治工業史』建築篇の説を引用しているが、竣工時期にどんなものだろうか。  

 つまり、ごちゃごちゃと書いたが、本邦初の時計台は、明治7年2月10日(竹橋陣営)、3月(工部大学校)、4月(町会所、駅逓寮庁舎)と非常に接近した時期に完成した可能性がある、ということだ。「時計台」と呼ばれたブリジェンスの横浜の町会所は、少なくとも日本で最初の時計台の地位を争う有力候補だったのである。

横浜開港資料館で売っている絵葉書。雪の日の町会所。撮影は日下部金兵衛のはずだが、その旨の記載はない。風見鶏が切れているのが残念

平野光男著、『明治・東京時計塔記』(1959)と『時計亦楽』(1976)ともに青蛙房

『横濱史料 開港70年記念』横浜市役所、1928年刊、高島町遊郭岩亀楼、
キャプションには明治5年と入っている

町会所の跡地に立つ横浜開港記念会館(ジャックの塔)
何か史料があるかと思って、一応訪ねてみたら、2024年3月31日まで改修工事で休館中だった。2021年12月撮影。