2006年4月30日日曜日

英語教育

 小学生の英語教育は必要か。中央教育審議会が小学校における英語の必修化を求める報告をまとめたため、そんな議論がまたさかんに聞かれるようになった。背景には、アジア諸国の若者がどんどん英語力をつけて世界的に活躍しはじめているなか、日本人の英語力がなかなか向上しない、といった歯がゆさがあるようだ。  

 こういった議論を聞くたびに、英語にたいする日本人のアレルギーの強さに驚かされる。英語力を出世のための必須条件のように強調する人がいる一方で、英語学習によって日本語が疎かになると危惧する人もいるし、英語などできなくても不自由しないと開き直る人もいる。いずれの場合も、英語への過剰な意識の表われに思われるのは気のせいだろうか。  

 戦争中、英語は敵国語として使用が禁止されていた。戦後はそれが一変し、いち早く英語を身につけた人が、支配者である占領軍ないしアメリカ文化に取り入って地位を築いた。その苦い記憶が国民のなかに深く染みついているのか。あるいは、いつまでたっても思うようにしゃべれず、ネイティブ・スピーカーから見下されている気がするからなのか。それがちょうど、片言の日本語を話す外国人や、方言を笑っていた自分の姿と重なるのか。  

 きれいな発音を身につけることによって、アレルギーを克服できるのであれば、それこそ小学生のうちに始めたらいい。いわゆる英会話ではなく、徹底した発音練習をするのだ。発音練習はつまらないし気恥ずかしい。でも、その言語の音に慣れ、リズムを身につけていけば、言葉は自然にでてくるようにもなる。子供なら童謡やゲームを使った訓練も可能だし、耳もまだ新しい音を学習しやすい。たとえ、発音練習に一年かけても、結果的にこのほうが近道だ。極端な話、『マイ・フェア・レディ』のヒギンズ教授が言うように、「きちんと発音さえしていれば、話の中身はどうでもいい」と思う人だっているのだ!  

 しかし、そこまでして英語の学習に時間をかける意味があるのだろうか。フランス人は母国語にこだわりがあることで有名だが、彼らも「English is money.」と言いだして久しい。グーグル検索したら、中国語ではこれを「英語就是銭」というらしい。もちろん、そういう一面もある。現に私は、英語の能力のおかげで食べているのだから。でも、本当はもっと根本的な問題だ。  

 その理由をうまく言い表す言葉を思いあぐねていたら、今朝の新聞に、戦犯として裁かれ、文官でただ一人絞首刑になった広田弘毅が孫に語った言葉がでていた。「自分に恥じない人間になりなさい。そして何か他国語を一つ覚えなさい」、と。広田弘毅は法廷で「黙して語らず」の姿勢を貫き、遺族も東京裁判のことは語らなかったそうだ。エリートとして激動の時代を生きた人が、巣鴨プリズンに面会にきた孫にこう語ったとき、自身の70年の人生をどう振り返っていたのだろうか。孫の未亡人は、「外交官だった広田は、外国語を通じて他国を知ってほしい。悲劇は繰り返すなと言いたかったのでは」とコメントしていた。  

 そうだ、別に英語でなくてもいい。外国語を学ぶことは、自分を外から見つめ直すことなのだ。自分とは違う考え方をする人がいて、自国内では当たり前なことも、他国でかならずしもそうではないと知れば、許容量が広がる。英語が母国語の人も、他の言語を学ぶことで世の中の見方が変わるはずだ。そろそろアレルギーを克服して、外国語を学ぶ意義を考え直してはどうだろうか。誰にでも一枚くらい、自分を見つめる鏡が必要だ。