2005年6月30日木曜日

社会の一員としてのアイデンティティ

「戦場の結婚式」と題された連載記事が、少し前の毎日新聞に掲載された。沖縄戦のさなか、投降した日本軍の中尉とたまたま一緒にいた村の娘の「結婚式」の写真を米軍がビラに刷り、上空からまいて、投降を呼びかける心理作戦をおこなった。その一枚の写真をもとに、捕虜となった二人がどんな人生を歩んだかを、関係者を訪ねて取材したという内容だったが、戦後60年を経てもなお人びと心に残っているわだかまりの大きさに驚かされた。  

 ちょうど同じころ、40年ぶりにアメリカに帰国したジェンキンスさんを、郷里の人たちが冷ややかに迎えたというニュースが流れていた。脱走兵とされるジェンキンスさんの立場はさらに複雑だろうが、戦争中、日本では捕虜とならず玉砕せよと言われていたから、仲間を裏切り、敵国に寝返った行為と見なされた点では、どちらも同じだろう。  

 亡命、難民なども、国を捨てるという点では似ているし、暴力団から足を洗うとか、カルト集団から脱退する、あるいはもっと身近な例で言えば、他社へ転職するとか、学校の部活動を退部するといった行為にも、どこか共通するものがあると思う。自分の所属する集団と相容れなくなり、そこを抜けることは、とくに裏切るつもりはなくても、一般に内部の人間からは快く思われないのだ。 

 人間は社会のなかで生きる生物だから、自分が所属する社会のために貢献することは当然のこととされる。社会全体の利益となる行為は正当化され、奨励される。構成員は個人的な事情はいろいろあっても、社会のために働き、その利益を守り、拡大するために、精一杯つくさなければならない。社会につくせば、結果的に自分や家族のためにもなる。 

 こうしたことは、いずれももっともに思われるけれど、たとえば1つの社会の利益を追求することが、別の社会の不利益をもたらす場合はどうだろう? 他の社会を顧みず、自分の社会の発展だけを一方的に推進することに、疑問を投げかける人がいたとしたら? あるいは、人を殺したくないし、殺されたくもないと、平和時に誰もが思うことを、徴兵されて戦場に送られても、やはり思う人がいたとしたら? しかも、国の掲げる大義名分が、どう考えても間違っていると思われるとしたら?  

 どんな国でも、為政者が進める政策に国民が100パーセント賛成することはないだろう。社会が進んでいる方向が正しいのかという、疑問の声すらあげられず、国に忠誠をつくすことだけが無条件に強要されるのはたまらない。社会の軌道を修正しようとすることは、その社会を裏切ることではないのだ。  

 集団が比較的小さく、その周囲にもっと大きな社会が存在する場合は、外からの情報によって自分たちの間違いに気づき、軌道修正できるかもしれないし、そこから抜けだすことも容易だろう。しかし、1つの国全体がおかしな方向に進んでいった場合、そのなかで冷静な視点を失わず、正気を保つのはたいへんなことだ。 

 人間はいったん自分の社会にどっぷり浸かってしまうと、内部からしかものごとが見られなくなる。捕虜とか亡命といった問題も、それを内側から見るのと、外側から見るのでは、違った印象になる。過去を振り返って、見直すことも重要だ。ときには、鬼太郎の目玉おやじのようになって、別の場所から自分たちを客観的に眺めることも必要なのではないだろうか。

 6月23日は慰霊の日 琉球新報第一面より