2003年1月30日木曜日

画一的な美の基準

 何週間か前の新聞に「『美女軍団』青森には来ず」という短い記事が出ていた。昨秋の釜山アジア大会で話題を呼んだ北朝鮮からの300人ほどの女性応援団が、今回のアジア大会には来ないという内容だった。  

 そう言えば、ワールドカップのときも北朝鮮の応援席に美人が勢ぞろいしているシーンがテレビに映った。一般に伝えられる北朝鮮の悲惨な状況とはいかにも不釣合いな華やかな女性たちに、不自然さを感じたのは私だけではなかっただろう。やっぱりあれは国家宣伝用だったのか。あの光景を見て、北朝鮮には美人がいっぱいいるなどと誤解してはいけないのだ。  

 北朝鮮の美女軍団は、韓国内で追っかけも生まれたほどの人気だったそうだから、この罠に引っかかるばかな男たちはいるのだ。彼女たちを見てふと、ハリー・ポッターの4巻に出てくるブルガリア・チームのマスコット、ヴィーラを思いだした。月のように輝く肌と風もないのになびくシルバー・ブロンドの髪でハリーやロンを虜にする100人の女性だ。  

 でも、ヴィーラの本性は魔物だったように、あの美女たちだってよく見れば「まがいもの」かもしれない。そもそも、全員が同じ雰囲気なのが不気味だ。カメラを意識してほほえむせいかもしれないが、髪型といいメイクといい、大量生産されたみたいに似ていた。たとえ美人でも、同じ顔がいくつも並んでいると、何か背筋の寒くなるものがある。昔のスパイ映画のように、ベリベリと皮をむくと違う顔が出てくるのではないか、とつい想像したくなる。  

 もっとも、気味の悪いそっくりさんなら、日本にだってたくさんいる。髪型や服装、小物はもちろんのこと、メイクの仕方からしゃべり方、しゃべる内容まで同じ高校生や大学生の集団をよく見かけるではないか。素顔が見えなくなるほど厚化粧した若い女の子たちは、リカちゃん人形を思わせる。一見したところきれいだけれど、いつも同じ顔で笑っていて、ゴムのにおいのするあの人形が、私はいまひとつ好きになれなかった。どの子の家にもあるリカちゃんより、自分にしかない(と少なくとも本人は思っている)自分のにおいのしみついた汚れたぬいぐるみのほうが、案外、子供は好きなのではないだろうか。  

 それにしても、いまの若い子たちは、なぜあそこまで同じ顔を目指すのだろう。美人は得をするから、少しでもきれいになりたいと思う気持ちはわかる。でも、素顔が見えなくなるほど厚塗りして、髪を染め、美容整形で骨を削って別人になりすましたところで、意味があるのだろうか。彼女たちの頭のなかには、美人の基準が一つしかないのだろうか。いま流行の「美人」が、自分に似合うとはかぎらない。どこにでもいる派手な娘になるより、多少古風でも、田舎風でも、本人の個性がよくあらわれているほうがよほど魅力的に見える。  

 だいたい、似たような人ばかりいたら、仲間内で名前を覚えるのに苦労しないのだろうか。ああいうギャルは、人の顔を見分ける顔細胞がよほど発達しているにちがいない。カラスは人の顔を見分けると言われるけれど、よく似ている女子高校生の顔写真を使って実験してみたらおもしろいだろう。