2016年1月30日土曜日

エンゲルス

 昨秋から、立てつづけに3冊もの本を校正してきたので、さすがにへばっている。先日、刊行されたフェイガンの家畜の歴史の本のほかに、10年前に訳した本がめでたくも文庫化されることになり、訳文を全面的に見直したうえに、2年前に訳し、諸般の事情で刊行が遅れていたフリードリヒ・エンゲルスの伝記がようやく動きだしたためだ。部下も外注先もない個人商店は、こういうときになんとも辛い。2、3週間という短期間に、締め切りに追われながら何百ぺージもの原稿を一字一句見直すという苦しい作業を、まるで違うテーマで相次いでこなす羽目になった。一人で気長に作業をする翻訳期間とは異なり、多くの人の予定に差し障るので、一日の遅れも大きな迷惑になる。刊行月のずれは予算上困るであろうことは、会社勤めの経験からおおよそわかる。そうした心理的プレッシャーからつい座りつづけ、腰や目に大きな負担となる。  

 なかでも先日、初校を終えたばかりのエンゲルスは500ページ近くあって、内容が内容なうえに、厄介なことが二つもあり難儀した。原書がイギリス版とアメリカ版で2割近く異なっていたのだ。半年もかけてイギリス版で最後まで訳したあとで、アメリカ版のほうが読みやすく編集し直されていることがわかったときは呆然とした。仕方なく、膨大な変更箇所を拾いだし、削除、追加、順序の入れ替えなどをして、なんとかアメリカ版に合わせた。ところが、初校で一文一文つけ合わせると、まだまだ見落としが随所にあり、その都度、双方の版の変更箇所を確認することに。細かい字の原書二冊とゲラを見くらべているうちに、自分がどこを読んでいるのかわからなくなることもしばしばだ。  

 もう一つの難題は、各章に100前後の註が付いていて、その7割くらいが『Marx-Engels Collected Works』という全50巻の英訳版の引用だったことだ。日本には大月書店の『マルクス=エンゲルス全集』という、32年もの年月をかけて翻訳された53巻ものの全集がある。いまはありがたいことに年会費を払えばネット上でも読めるのだが、英版とは編集が異なり、ページ数はもとより、収録されている巻数も違い、文字検索ができない。いつ、どこで、誰が書いたのかもわからない引用文の全文をまずはネット上で検索し、それに相当する論文や手紙と該当ページを53巻のなかから探しだす、気の遠くなるようなパズルに1カ月は費やしたと思うが、校正中に追加でまたもや調べている。  

 どう考えても仕事としては最悪なのだが、このエンゲルスの伝記、信じられないだろうけれど、驚くほどおもしろいのだ。著者は、執筆当時はロンドン大学で歴史を教えていたが、現在はイギリスの労働党の若手下院議員であり、幹部でもあるハンサム・ガイのトリストラム・ハント氏。マルクスとエンゲルスというと、もじゃもじゃペーターのような晩年のむさ苦しいイメージが定着しているが、黒イノシシとかムーア人と呼ばれていたマルクスにたいし、エンゲルスは実際にはかなりの伊達男で、若いころは相当な女たらしだった。膨大な著作物や手紙が残されているおかげで、この本では150年前の話とはとうてい思えないほど、人物が生き生きと描写されているだけでなく、20世紀を通してマルクスとエンゲルスの思想がどれだけ誤解され、曲解されてきたかがわかり、目から鱗が数十枚は落ちた気がする。おまけに、なんともユーモラスで、校正中も再び読んで一人でニヤニヤしたり、吹き出したりしてしまった。  

 イギリスに亡命中のマルクスが『資本論』を書きあげるあいだ、エンゲルスが17年にわたって自分を犠牲にし、彼の生活を支えつづけた事実がどれだけ知られているかはわからない。わずか数ポンドでも送って欲しいとマルクスはたびたびエンゲルスに懇願するのだが、わが家も似たり寄ったりで、苦笑せざるをえなかった。海外や他業界の常識から考えれば異様な慣行と思うのだが、日本の出版業界では本が刊行されてから数カ月後にようやく印税が支払われるのが一般的で、その間の労働は刊行されなければ何年間でも未払いとなりうる。翻訳者とて霞を食って生きているわけではない。そのうえ年収がこうも不安定だと、収入のない年に腹が立つほど高額の税金や保険料を納めなければならない。今回はたまりかねて直訴し、特別に一部前払い金をいただいた。マルクスは天才であっても自己管理能力に乏しく、恐ろしく遅筆だったそうで、エンゲルスは大量の資料を提供し、理論形成を手伝っただけでなく、「肝心なことは、これが執筆され、出版されることだ。君が考えている弱点など、あのロバどもには絶対に見つからない」などと、17年間、叱咤激励をつづけた。そう、なんであれとにかく出版されることだ!と、私も内心思いつづけた。 

 『共産主義者宣言』は意外なことに、出版時には世論から「沈黙の申し合わせ」に遭ったようだが、これだけ膨大な年月をかけて執筆された『資本論』も同じ運命をたどりかけ、エンゲルスは「熟練の広報担当者のような狡猾さで」宣伝工作に走る。「注目を集めるうえでの最善の策は、〈この本を非難させること〉であり、報道上で嵐を巻き起こすことだ」と考えたのだ。「現代の数々のメディア操作も本の売り込み術も、マルクスの最も有能な宣伝係によって始められた」らしい。私の2年越しの労作が鳴かず飛ばずにならないよう、なんとか3月に無事に刊行できたら、エンゲルスに倣って宣伝工作でもしたい気分だ。

 書き込みだらけになってしまった原書

 英版(左)と米版(右)

2016年1月2日土曜日

『人類と家畜の世界史』

 一冊の本を訳す際には、付け焼き刃で多数の文献を読みあさることになる。年明けに、河出書房新社から刊行されるブライアン・フェイガンの『人類と家畜の世界史』では、DNAの研究書から騎馬民族征服説をめぐる書物まで、あれこれ斜め読みした。なかでも加茂儀一氏の一連の家畜関連の著作は、インターネットもなく、デジタル資料もなかった40年近く昔に書かれたとは信じられないほど詳しく、いろいろ参考にさせていただいた。付箋を貼ったままのこれらの資料を読み返しながら、少しばかり日本在来馬について調べてみた。  

 馬と言えばサラブレッドを思い浮かべるいまの日本人には、イングランドでも16世紀までほとんどの馬が小型であり、日本にいたってはわずか150年前までポニーに分類されるような馬しかいなかったことなど想像しにくい。いま世界にいる馬はほぼすべて、なんらかのかたちで人手を介して人間の都合で品種改良されてきたため、ラスコーやペシュメルルの壁画に描かれた野生の馬とは異なっている。ターパンと呼ばれるユーラシア大陸にいた野生種はすでに絶滅し、モウコノウマという亜種がかろうじて残っている。日本の馬は江戸時代まで積極的に選択して育種せず、自然に繁殖させていたことや、栄養価の高い飼い葉ではなく、周囲の野草を食べさせていたことなどから、古来の形質を残し、環境ごとの特徴をもつ馬になったようだ。肩までの高さが170cmにもなるサラブレッドにくらべると、わずかに残る日本在来馬は体高100cm程度の野間馬から130cm程度の木曽馬や道産子まで、いずれもかなり小型である。とかく馬格だけが注目されがちだが、頭が大きく胴が長いといった骨格上の特徴のほか、毛色にも特色があるらしい。一般の馬の顔や脚によくある白い模様は、在来馬ではまず見られない。在来馬には鰻線と呼ばれる背中の濃い線や、逆立ったたてがみなど、洞窟壁画の野生馬に見られる古い特色を残す個体もいる。  

 これらの在来馬は、氷河期に日本列島にいた野生馬が家畜化されたわけではなく、野生馬が絶滅したのちに朝鮮半島経由でもち込まれた家畜種だった。加茂氏の本が書かれた当時は、縄文や弥生の遺構から馬の骨が出土したこともあって、大陸から馬がもち込まれた時期はかなり古いと考えられていたが、ずっと後世の馬の骨が混入していたことが近年、科学的に証明された。したがって、3世紀末に魏志倭人伝に「其地無牛馬虎豹羊鵲」と書かれたとおり、それまで日本人が牛馬を使うことはなかったと、いまでは考えられている。4世後半になると、甲府市の塩部遺跡から馬の歯が見つかっている。『日本書紀』には応神天皇15年(在位期間は不明)に百済王が阿直岐を遣わし良馬2匹を貢いだとあり、『古事記』にも応神天皇の時代に照古王(近肖古王、在位346-375年)から雌雄の馬が阿知吉師につけて献上されたと記されている。阿直岐は、東漢氏の祖とされる阿知使主と同一人物とも言われる。この氏族は織物工芸に長けていたため、漢の字を「あや」と読ませ、やまとのあやうじと呼ばれるようになった技術者集団だった。その子孫が坂上田村麻呂、つまり最初の征夷大将軍なのだ。5世紀に入ると馬具や馬埴輪、馬の骨などが各地で出土する。

  記紀には、スサノオが天の斑馬を逆剝ぎにして機織り小屋に投げ込む話や、保食神が死んだあと、その頭の頂が牛、馬になっていたことなどが書かれている。いくら神話とはいえ、存在すら知らない動物が登場するだろうか? となると、これらの神話も4世紀以降にできたということなのか。斑馬が文字どおり斑紋のある馬だとすれば、モウコノウマを家畜化しただけでなく、ターパンを家畜化した馬と掛け合わされていた可能性も高いようだ。「天の」という形容は、前漢時代に張騫がフェルガナからもち帰った汗血馬を天馬と呼んだことを思いださせる。秦時代の馬は、始皇帝の騎馬俑や銅車馬の馬を見る限り、かなりずんぐりして、たてがみが逆立ち、種子島にいたウシウマのように尾が棒状に見える馬だが、甘粛省の雷台漢墓から出土した有名な「馬踏飛燕」をはじめとする青銅の馬は、顔や脚、腹部の引き締まった、たてがみの垂れた馬なのだ。製作者の出身や技術の違いは当然あるだろうが、傍目にはかなり違う馬に見える。漢時代に品種改良された馬の子孫が、数百年後に日本まで渡ってきたかどうかは不明だが、後漢霊帝の末裔を自称した東漢氏にとって、天馬が大きな意味をもっていた可能性は高そうだ。在来馬のなかでは大きい木曽馬に、漢代に改良された馬を起源とするという説があるのは興味深い。塩部遺跡の歯のDNA解析ができたら、何か見えてくるかもしれない。

  戦闘用に訓練されていなかった在来馬の大半は、日清・日露戦争後に軍馬改良の目的で30年にわたって実施された馬政計画で、オスは去勢され、メスは輸入された種馬と交配させられ、やがて消滅していった。私の祖先は明治初期に軍馬買弁のために鹿児島まで行ったらしいので、一連の品種改良にいくらかは加担していたかもしれない。  

 いろいろ調べ始めると止まらなくなるが、次の仕事のためにそろそろ頭を切り替えなければならない。ということで、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 読みあさった本の一部

 鳥獣戯画展で見た高山寺の馬像

 BC4世紀ごろの騎馬俑と秦の銅車馬





『人類と家畜の世界史』 ブライアン・フェイガン著 
 河出書房新社 東郷えりか訳