2007年11月30日金曜日

ビーズ鳥

 翻訳という作業は、黒子に徹することだ。言語や習慣の違いを考慮してわかりやすく説明を加えたりはしても、基本的には著者の声をできる限り忠実に読者のもとへ届けるのが訳者の仕事だ。そういう作業を毎日つづけていると、大量の情報を溜め込んでは吐きだすバッファのような気分になり、ときとして自分を見失いそうになる。慣れない分野の仕事がつづいたこの一年間は、仕事だけでも充分すぎるほどストレスがあったのに、私生活でも不幸やトラブルが重なり、経済的にも苦しく、頼みの綱とする人は連絡もままならず、このままではさすがの私も気が変になるのではないかと恐ろしくなった。 

 一区切りつくまでは、とにかく騙しだましでも乗り切らねばと、私はこの夏から奇妙な試みを始めた。集中できないときや、不安にさいなまれたとき、あるいは眠気覚ましに、天然石の2ミリビーズを使って鳥をつくるのだ。別にパワーストーンの効能を信じているわけでもないが、何かをつくっているときはそれに没頭できる。それに、天然石を通して見る日の光や、そこに凝縮された深い色には、少なくともなんらかの癒し効果はある。  

 高度な技術や道具を要する宝飾工芸とは異なり、ビーズ細工はどこかもろくてはかない。だから、敢えて高級に見せる必要も、本物そっくりにする必要もない。むしろ、古代の工芸品のように素朴で単純なものを、あるいは飴細工のようにつかの間だけ楽しめる作品をペンチ一本でつくれたら、それでいいのではないかと私は考えた。細かい部分にこだわりすぎると全体が肥大し、一粒ごとの輝きが失せて、ただの醜い塊になりはてる。何を削って、何を加えるか、試行錯誤を繰り返すうちに、ビーズの数を45個に限定していろいろな鳥がつくれるか試してみようと思いついた。不透明な石ばかりを並べると、一個一個の輪郭が目立ってボチボチに見える。かといって、透明なものだけでもインパクトが弱く、適度に交ざっているのがいい。鮮やかな色にたいするこだわりは大事だけれど、それと相殺しない地味な色も、負けず劣らず重要だ。なんだか生物の世界や人間社会のようであり、こんなビーズ細工にも学ぶことはたくさんあるんだという発見に私はうれしくなった。 

 暇つぶしに好きなだけビーズを買って遊べればいいのだが、貧乏性の私は最初から、できあがったものを売れないだろうか、と考えていた。ごま粒のようなビーズを通す作業は、細かいものが見えなくなり、手先もすっかり不器用になった私には、正直言って辛い。同じものを繰り返しつくるのも苦手だ。それでも、頭を使わず、単純作業に専念していると、タイの路上でジャスミンの花輪を黙々とつくるおばさんたちのように、不思議と心が穏やかになった。 

 先日は、娘の口利きで、大磯の宿場祭りに出店したアオバトの愛好会「こまたん」のブースの片隅をお借りし、ビーズの鳥を売らせてもらった。自然界の生き物は光がうまく当たった一瞬だけきれいに見える。捕まえて剥製や標本にしても、輝きは失せている。そんな瞬間的なはかない美に価値を見出せるバードウォッチャーなら、私の鳥も理解してもらえるのでは、と期待したとおり、声をあげて道行く人に宣伝し、買ってもくださり、本当にありがたかった。 

 ビーズの鳥のおかげか、いちばん苦しい時期はどうにか乗り越えることができた。失敗作品を壊し、バラバラになった多様な色のビーズに射し込む日の光を見ているうちに、子供のころ繰り返し読んだ『うちゅうの7人きょうだい』(三好碩也作・絵、福音館書店)の話を思いだした。泣き虫の末っ子ルーナが地球にたどり着くページが私のお気に入りだったが、土星のまわりに宝石でできた輪を見つけて、それを拾うのに夢中になった欲張りな衛星、レア姉さんの絵も、忘れがたいものがあった。 

 リタリンを飲む代わりに、童心に返ってビーズで遊んだと思えばいいのかもしれない。とはいえ、これで終わらせるのもくやしく、45個にこだわらない虫シリーズやクリスマスツリーも考えてみたが、どうやれば売れるのか、まだ模索中だ。商売を始めるのは、なかなか難しい。

 ビーズ鳥

クリスマスツリー 

 レア姉さん(のつもり)

 シオカラトンボのピアス