2013年6月30日日曜日

カササギの橋

 このところカラスの本を翻訳している。そのなかに同じカラス科の鳥である賢いカササギがたくさん登場する。カササギと聞いて、たいていの人がまず思い浮かべるのは、あの和歌だろう。「鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」。読み手は万葉集の編者とも言われる大伴家持(718~785年)だ。ところが、カササギってどんな鳥と聞かれて、白と黒にくっきりわかれた鳥の姿がすぐに目に浮かぶ人は少ないだろう。それもそのはず、カササギは日本では佐賀平野と筑後平野を中心とした九州の一部にしかまず見られない鳥だからだ。秀吉の朝鮮出兵の際にもち帰った移入種だとする説が有力だ。  

 では、なぜ奈良時代にカササギの橋などという言葉が歌に詠まれたのか? カササギの橋って、いったいどんなもの? 私はついぞ知らなかったのだが、「カササギの橋と言えば、七夕に決まっているじゃない」と、母にあっさり言われた。前漢時代に編纂された『淮南子』の巻末付録に書かれたのが最初と考えられている。七月七日に織女を牽牛のもとへ渡すために、カラスとカササギが河をうずめて橋をつくるのだそうだ。ただし、現存する文書記録としては唐代の『白孔六帖』にその引用として、「烏鵲填河成橋而渡織女」とある。  

 カササギもカラスも、冬季には集団でねぐら入りをする。大群が空を舞う様子を見て、天の川を連想し、空に架ける橋を思いついたのかもしれない。カササギは飛ぶと羽の白さが際立つから、暮れゆく空に映えるだろう。なにしろ、カササギの学名はピカ・ピカ(Pica pica)なのだ! もちろん単なる偶然で、ラテン語のピカはまだらという意味で、カササギを指す。カササギの分布を調べると、東は朝鮮半島からシベリア沿岸部、カムチャッカ半島まで、西はイギリス諸島まで広大な地域にまたがるが、暑い地域は苦手らしい。またアイスランドや日本の本州にいないことを考えると、海を渡るのも好きではなさそうだ。  

 カササギの橋という概念は、日本には機織の技術と七夕伝説とともに5世紀ごろに入ってきたようだ。養蚕や原始的な織物の技術はさらに早く3世紀ごろに伝わっている。棚式の機なので「たなばた」ということで、機織生産は大化の改新で律令体制に組み込まれ、全国的なものになったという。中国では漢代にはすでに庶民の男は牛を使って農地を耕し、女は機織をするのが一般的になり、このころ七夕伝説も確立したようだが、日本では牛が少なかったからか、牽牛の技術のほうは広まらなかったらしい。彦星という、職業不詳の名称に変わったのも、牛飼いのイメージが湧かなかったからかもしれない。6世紀末に推古天皇が新羅に送った特使が2羽のカササギをもち帰っている。大阪にある鵲森宮という神社がその記念のようだが、このときは繁殖しなかったようだ。  

 大伴家持は子供時代を大宰府で過ごしているので、朝鮮半島から渡ってきたカササギをそこで見たのではないかと思ったが、可能性は薄そうだ。彼が読んだ歌も七夕ではなく、冬の情景であり、宮中の階に降りた霜を見ての連想だろうと解釈されている。有名な「月落烏啼霜満天」の漢詩も、天の川を天の霜にたとえたらしい。要するに黒地に白のまだら模様は、天の川であり、カササギの橋であり、霜なのだろう。想像すると幻想的なので、娘に頼んでカササギの消しゴム判子をつくってもらい、烏鵲橋の絵を描いてみた。  

 ついでに大伴家持の経歴を読むと、その後782年に陸奥按察使に任命され、まもなく死去したが、桓武天皇が信頼していた中納言・藤原種継の暗殺事件の首謀者と目され、埋葬も許されなかったとある。奥州で日本初の金が見つかってから約30年後のことだ。彼が書いた「賀陸奥国出金詔書歌」の一部は、準国歌とも言われた「海ゆかば」の歌詞となった。