2013年10月31日木曜日

日没点の観測

 一つのことをコツコツとつづけるのが苦手な私だが、この一年間、頑張りつづけたことがある。コウモリ通信にも何度か書いた日没点の変化の観測だ。近所に、北斎が富嶽三十六景に選んだ旧東海道の尾根道の近くで、西に富士山が望める開けた場所がある。夕方、西の空が明るい日にはその尾根道まで通い、同じ場所から日没の瞬間を写真に撮りつづけた。住宅地とはいえ、横浜の地形は山あり谷ありなので、最後の坂を登るまで実際にはこの眺望は見えない。今日はきっと富士山も日没も見える、と思って行っても、ちょうど富士山のあたりだけ曇っていたり、山並のすぐ上に細く棚引く雲がでていて日没が見えなかったり、空振りに終わることもたびたびあった。逆に、薄曇りであきらめていたら、日没の瞬間になって富士山がシルエットで浮きあがることもよくあった。  

 そんなこんなで記録しつづけた日没の写真は、冬至のころには真西よりはるかに南に沈む太陽があり、春分、秋分のころは富士山のやや北に、夏至になると駅前のビルの陰で見えないほど北に日没点が移動する。太陽が沈む地点の手前にある陸標———マンションや鉄塔など———の位置が地図上で確認できれば、南または北に何度ずれているか、方角がわかるだろうと考え、数キロ先に見える高層の建造物を自転車で探しにも行った。冬至の太陽が沈む方向に見えるひときわ高い鉄塔は、うちから遠く離れた米軍の深谷通信隊内にそびえる鉄塔だった。春はどんどん日没点が富士山の裾野を移動する様子を観察しつづけ、幸運にも晴天の日にダイヤモンド富士を見ることもできた。  

 自他ともに認める方向音痴の私がこんな苦労をして観測しつづけたのは、地図や方位磁石のない時代、古代人にとって季節ごとの太陽の昇る位置や沈む位置は重要な意味をもっていたことを知ったからだ。天照大神を祀る伊勢神宮や福知山市の皇大神社が、冬至の太陽の昇る位置からその場所が決まったという説もある。  

 時計のない時代には、まぶしい太陽を見つづけて南中を見届けなければ正午がわからないし、空高く昇っている天体は角度を測るのが難しい。しかも、その高度は日ごとに変わるのだから、そこから自船位置の緯度を割りだそうと思えば、その日に計測した数値に当てはまる緯度を知るための複雑な計算か、膨大な数値表が必要だ。昔の航海士の知識に追いつくのは、私にはあまりにも難しそうだが、せめて地平線に太陽が沈む位置の季節ごとの変化くらいは、誰かに教えられた既存の知識としてではなく、自分で確かめてみたいと思ったのだ。 

 グレゴリオ暦とグリニッジ標準時が定まり、正確な地図が描かれるようになってからまだ一世紀半も経ていないのに、それ以降に生まれた人はみな、暦と時計と地図に従って生きるようになり、自然には目を向けなくなったのかもしれない。あらゆる情報がネットで調べられる現代では、正確な時刻も、自分がいる位置も、日没時刻も、コンピューターで計算された数値として瞬時に得られる。必要なのは検索能力だけになり、自然の変化が実際はどう起きているのかも知らないまま、暦どおりに衣替えをし、冬も夏も定時に出勤し、天気予報を見て傘や上着を持参するか決める。何か肝心なものが欠けてはいないのか。  

 一年間、同じ場所に通ったおかげで、夕方この尾根道に散歩にくる近所の多くの人とも顔見知りになった。秋のダイヤモンド富士は曇り空と雨天つづきで見られなかったが、「太陽は見えても、肝心の山がないねえ」などと他愛もない会話を交わしながら入り日に見入り、雲を眺める時間を、一日のうち数分でももてたことが、何よりもの収穫だった。